第171話
――やはり、私も行くべきだったでしょうか。
フロイドを町に送り出してからも、アルフェは迷っていた。自分もこの開拓村を離れて、フロイドと一緒に情報屋組合と接触するべきだったかと。
だが、知り合いと同じ名前を耳にしたというだけで、そこまでするのは、いくら何でも大げさに思われた。情報屋組合を動かすため、金に糸目は付けないと言った時点で、もう既に大げさな事をしているのだが、その事には、アルフェは意図的に目をつぶった。
――テオドール・ロートシュテルン……。
ロートシュテルンという家名については、フロイドが既にある程度の知識を持っていた。
それは、先帝に繋がる由緒正しい名前で、仮に血の濃さによって皇位継承の順位を付けるなら、その家名を持つ者は、相当上位に来るはずだという事だ。
アルフェの知っているテオドールは、顔立ちの整った金髪の青年で、どちらかと言えばがさつな言動をする相方のマキアスを、いつもたしなめていた。騎士でありながら、平民とも分け隔て無い態度で接する人物で、口調や普段の仕草にも、隠しきれない気品が漂っていた。
――あのテオドールさんが皇帝候補に? それは……。
凄い事だとか、喜ばしいとかと思う前に、アルフェは不安な気持ちに駆られた。
百年に渡り空位が続く皇帝の座。ユリアン・エアハルト以外にも、それを目指そうという者は多いはずだ。その権力の座を巡る争いに、知人が巻き込まれているのだろうか。
――いえ、いいえ、考えすぎです。そもそも、そのテオドールという人が、あのテオドールさんと同じとは限らない。……そう、きっと違う。それを確かめられれば、それで十分。
自分では冷静なつもりのアルフェだったが、宿の部屋で、彼女はそわそわと動き回っていた。
テオドールの事も、アルフェにとっては、ベルダンの幸福な生活と結びついた大切な思い出だ。自分からその生活を捨てたにも関わらず、アルフェはどうしてもその思い出を振り切る事ができなかった。
僅か一年程度の儚い思い出。だが、それは彼女にとって、唯一の確かな、幸せの記憶なのだ。せめて、その思い出の中の人々だけは、幸福な暮らしをしていて欲しい。アルフェは己の幸せよりも、そちらの方をはるかに強く願っていた。そのためにこそ、都市バルトムンクでは、自分を追ってきたマキアスの事も突き放した。
「落ち着きなさい」
アルフェは足を止めて、自分自身に言い聞かせた。
フロイドが情報を集めて戻ってくるまで、己にできる事は何も無いのだ。なら、こんな想像ばかりを巡らしていても無意味だ。しかし一人の部屋の静寂は、どうも思考を悪い方、悪い方へと導いていく。
これならまだ、騒々しい場所に居た方がましだ。そう考えて、アルフェは部屋を出た。
「陰気な歌ばかり歌うなと言ったろう。もっと明るい曲は無いのか」
「いや、そうは言いますけどね。この曲はこの曲で、良い曲だと思いませんか?」
「うるさい! お客が引いているのが分からないのか?」
アルフェの望み通り、一階の酒場は、彼女の煩悶を吹き飛ばしてくれる程に騒がしかった。
客の数は、昨日よりもさらに増えている気がする。村長もさぞかし喜んでいるのだろうと思ったら、彼は階段の脇で、アルフェが前に見た吟遊詩人をつかまえて、険しい顔ですごんでいた。
「引いてるかな……。まあ、ちょっと盛り下がったかもしれないけど。ほんのちょっとだけ」
「流行の曲を演るんだよ。帝都で流行っているような曲を。そういう曲の一つくらい引き出しにあるだろう」
「あるけど、そういうのは、僕の音楽性に合わないっていうか……」
客に聞かれないように声を落として、村長と吟遊詩人はそんなやり取りをしている。
「ふざけるな。お前みたいな流しの吟遊詩人が、俺に口答えするな。つべこべ言わずに、言われた通りにやれ」
「ですけどね……」
「いいか、次に『分かりました』以外の言葉を口にしたら、お前はこの酒場には出入り禁止だ」
「…………」
「何だ!? 良く聞こえんぞ!?」
「はい、分かりました」
「よし」
不満を喉の奥に飲み込んで、吟遊詩人は頭を垂れた。村長は、金を持っている方が偉いのだと言わんばかりにふんぞり返っている。吟遊詩人の方が。村長よりも大分背が高いが、互いの身長は逆転して見えた。
放浪の吟遊詩人というのは、アルフェが本で読んだ物語にも良く出てきた。そのために、ある種の夢がありそうな職業に感じていたが、そんなことは無い。どんな仕事も、それで生活していくという事は大変なようだ。この光景を見て、アルフェはそんな感想を抱いた。
「――! これはお嬢様! そんなところでどうなさいましたか」
階段の上に居るアルフェの存在に気付いた村長は、急に満面の笑顔になった。何かお部屋に注文でもございますかと揉み手をして、さっきまで高圧的な態度を取っていた男と、同一人物とはとても思えない。
吟遊詩人は、己に背中を向けた村長の後ろで、固めた拳を振り上げている。だが、それは“振り”だけであり、彼はそれである程度留飲を下げたようだ。一瞬アルフェに目をやって、演奏を再開するために席に戻っていった。
弾き出したのは、速い曲調の、手拍子を叩きたくなるような明るい曲だ。あれが「帝都で流行っているような曲」という事だろう。
「お嬢様、ただいまお食事とお飲み物を用意させますので」
「ありがとうございます」
それにしても、村長の変わり身は凄い。儲けさせてくれると思えば、アルフェのような小娘にも、ためらいなく頭を下げ、へりくだる。この明快な態度は見習いたいほどだ。
「今日到着したばかりの食材があります。それを使って特別に――」
アルフェが自分をじっと見つめているので、村長は不審に思ったようだ。彼は一瞬だけ、愛想笑いを消した。
「……どうか、なさいましたか?」
「いいえ、何でもありません」
逆に、アルフェは意味深に笑った。
翌朝、アルフェは依頼の貼られた掲示板を見ていた。フロイドは、今日も帰って来ないだろう。ならば持て余した時間を無為に過ごすより、一人でこなせる仕事でもして暇を潰そうと考えたのだ。
いざという時のため、金はいくらあっても困らない。世の中には金を卑しいと思う人間もいるようだが、それはきっと、貧しさに苦しんだ事が無いからだ。村長のように、金を基準に全てを決めようとは思わない。だが、あの吟遊詩人のように、金のために自分の信念を曲げたくないのなら、やはり金は必須だ。
ただ、冒険者としてのアルフェの力が必要な仕事は、先日のウィスプ退治から途切れていた。魔石採掘に沸いているこの開拓村では、鉱夫の人手の方がはるかに欲しいようだ。
しかし結界の外である以上、魔物の脅威は常に付きまとっている。適当に村の外に繰り出して、報奨金が出そうな魔物でも狩って来ようか。アルフェがそう思っていたところで、彼女の背後に気配がした。
「やあ、君。ちょっとどいてくれるかな」
誰かと思えば、それは昨晩の吟遊詩人だった。
彼は、手に真新しい依頼書を持っている。
「僕が依頼を出したいって頼んだら、自分で貼ってこいって言われたんでね。人使いの荒い村長だと思わないか? まったく……。あ、僕の名前はデイルソンだ。放浪の吟遊詩人ってやつさ。よろしく、お嬢様」
アルフェが場所を開けると、デイルソンと名乗る吟遊詩人は、掲示板の目立つところに、べたりと新しい依頼書を貼り出した。
「これで良し、だ。邪魔して悪かったね、お嬢様」
この男がアルフェの事をお嬢様と呼ぶのは、村長の事を皮肉っているつもりなのだろうか。アルフェは何も言わず、デイルソンの貼り出した依頼書を見た。
詩の題材になりそうな魔物の討伐。そこには、そんな文言が記されている。
「大衆は、分り易い刺激的な歌を求める。そんな事は僕にだって分かってるんだ」
そして聞かれもしないのに、デイルソンはぺらぺらと説明を始めた。
「本当は、帝都かエアハルトの劇場で上演されるような、上質な悲劇を書きたいんだが……、そのためには名声が必要だ。それも分かってる。名声を得るために、大衆が求める歌も歌わなきゃならない。でもだからって、他人の作った詩ばかり歌うのは、詩人としてどうかと思う」
芸術家に必要なのはオリジナリティだと言い、デイルソンは肩をすくめた。
アルフェはデイルソンに、興味の薄い無表情な顔を向けている。それを気に留めず、デイルソンは続けた。
「それでどうして魔物を討伐するのかって思ったかい? 簡単だよ。詩を造るには、インスピレーションを与えてくれる創造的な体験が必要なのさ」
「インスピレーション……?」
聞き慣れない単語を耳にして、初めてアルフェが声を出した。
関心を持ってもらえたと思ったのか、デイルソンの喋りには、より熱が入った。
「想像力を羽ばたかせる事は重要だけど、実際の体験が無いと、聴衆の魂を揺さぶるようなリアルなものは描けない。詩人が心を動かさないと、良い詩は作れないんだ。大衆向けの詩とは言え、僕はそういった事は大事にしたい」
論法は良く分からないが、とにかくデイルソンは、新しい詩の題材となりそうな、新鮮で刺激的な戦いの話を求めているという事か。
それならそれで、誰か適当な冒険者の体験談でも聞けばいいだろうと思うところだが、依頼書には、依頼主も討伐に同行すると書いてある。
アルフェは聞いた。
「……どんな魔物なら良いのですか?」
「インスピレーションを与えてくれそうな魔物さ」
「インスピレーション……」
またその単語である。良く分からない指定だ。
だが、報酬はかなり良い。この見るからに金の無さそうな吟遊詩人が、どこにそれだけ持っているのかと思わせる額だ。
では、デイルソンは、どうしてわざわざアルフェにこんな事を語るのか。それは、彼の次の言葉で理解できた。
「で、村長から聞いたんだけどさ、君は優秀な冒険者なんだってね、お嬢様」
依頼の掲示板に手を突いて、デイルソンはそう言った。
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