第140話

 ライムント・ディヒラー。ベレンとの会話の中で、何度となく出て来た名前であり、ノイマルクを訪れる以前から、アルフェも存在だけは知っていた。

 トリール伯が抱える、帝国最高峰の幻術士。齢は既に百歳超とも言われる老人。だが、その本当の姿を見た者、声を聞いた者は誰も居ない。性別も、年齢も、確かなものは何も無い。ただ確実なことは、ライムント・ディヒラーという魔術士が、パラディンにも匹敵する実力の持ち主だということだけだ。そして今、その名前を名乗る男が、アルフェたちの前に立っていた。

 ここに立っているように見えるノイマルク兵の姿は、ディヒラーの幻術だ。しかし、とてもそうは思えない。若々しい声も、瞬きする目も、髪や鎧に付いた泥汚れも、何もかも本物にしか思えない。

 だが、これは本当の強敵だ。アルフェの本能が、全力で警鐘を鳴らしている。固まっている彼女を見て、自称ディヒラーは愉快そうに笑った。


「無闇に人前に現れるのは、幻術士のやるべきことでは無いが……。興味を引かれて、つい、らしくもないことをしてしまった。……娘、お前は何者だ?」


 ディヒラーはアルフェに質問を投げかけた。アルフェもこの男の出現に驚いていたが、ディヒラーにとっても、アルフェたちの存在は想定外だったようだ。

 脚本を台無しにされたと、さっきこの男は言っていた。この男にはこの男なりの思惑が有って、兵卒の姿を使い、ノイマルク軍に紛れ込んでいたということか。


「ディヒラーだと……。本物か?」


 そう言ったフロイドも、確信が持てないままに剣を構え、警戒態勢を取っていた。


「お前には聞いていない、若造」


 ディヒラーはフロイドに一瞥すら向けず、アルフェへの質問を繰り返した。


「娘よ、お前は何者だ? お前は一体、どこから来た」

「我々が何者であるかなど、どうでもいいことでしょう」


 ディヒラーは、この前アルフェたちが殺した弟子とは、比べものにならない気配をまとっている。しかし、動揺を隠して、アルフェは言った。


「ノイマルク伯を、狙ってきたのですか」

「ぐぐぅ……」


 ノイマルク伯ルゾルフは、いまだにアルフェの足の下に居る。ルゾルフに恐怖を味合わせるというアルフェたちの目標は、ディヒラーという“本物”の外敵が現れた以上、ルゾルフの保護に切り替わった。今のアルフェは、ルゾルフが不用意な行動を取らないようにという意味で、彼を動かないように固定していた。

 アルフェの問いに、ディヒラーは首を横に振る。


「そんな事はしない。そんな事は無意味だ」

「無意味だと……?」


 フロイドは少しずつ位置を変え、ディヒラーを後ろから挟み込むように移動している。


「尊大で、欲深く、愚か。敵方の主君が愚物なのは、歓迎するべきことではないか。その哀れな男を殺しても、我らには不利益しかない」

「……では、何をしようと? やはり、伯がパラディンを攻撃するように仕向けたのは、あなたですか」

「否定はしない」


 ディヒラーは笑った。しかし、この笑いすらも幻術が見せているものなのか。


「ディ、ディヒラーだと!? 女狐の手先が、そこにいるのか! ――むぐぅ」


 アルフェは足に力を込め、ルゾルフの顔を泥の中に埋めた。場が混乱する。伯には黙っていてもらおう。


「我々と、戦いますか?」

「ふむ……」


 アルフェが聞くと、ディヒラーは片手であごを撫でた。お前たちが何者であれ、ここで殺した方が良い気もすると、ディヒラーは言った。


「しかし、殺してしまうのはもったいない」

「余裕だな、爺さん」


 フロイドは剣を構え、アルフェは無言で体内の魔力を高めた。

 ディヒラーは余裕に見えるが、実際、この男は余裕なのだ。アルフェたちに害を為そうと思えば、彼にとってそれは容易な事だろう。だが、恐れを見せれば、幻術はより深く、アルフェたちの五感に入り込む。だからこそ、アルフェとフロイドは強気な態度を崩さなかった。


「娘、もう一度聞く。お前は、どこから来た」


 さっきから、ディヒラーはアルフェにばかり注意を向けている。アルフェの足元にいるルゾルフも、自身の背後を取っているフロイドも、脇で腰を抜かしている宮宰も、ディヒラーの視界に入ってすらいない。

 そもそも、この男はどうして、わざわざ自分から正体を明かすような真似をしたのだろうか。

 この男は、興味を引かれて姿を見せたと言った。恐らくは、アルフェに興味を引かれて。それは一体どういう意味なのか。アルフェが考えていると、感嘆したかのようにディヒラーがつぶやいた。


「珍しい術式だ」


 アルフェとフロイドは、同時に眉をぴくりと動かした。


「その目……。お前の、その目の光は、魔術によるものだな」


 ――目?


 意表を突かれたアルフェは、目を大きく開いた。その瞳は、いつものように碧く輝いている。

 ディヒラーもまた、アルフェの目を凝視し、何か得心がいったように頷いた。


「……ふむ、心術か……。しかも、最高位の。無茶をする者がいるな」

「な――」


 アルフェは驚愕した。

 彼女にかけられた心術の話に触れたのは、バルトムンクの歴史学者ゲートルードに次いで、この男が二人目だ。アルフェは片手で、目を隠すような仕草をした。その指の隙間から、ディヒラーが笑っているのが見える。


「そんなものを抱えているのだ。娘よ、お前もいずれ、尋常の出自ではあるまい」

「あなたは……、何を知って……」

「知らずとも、見る者が見れば分かる。それは、そういう術式だ。内在する魔力といい……、お前の方が、その愚か者よりも、余程面白い」


 ディヒラーは、ルゾルフの方をあごでしゃくってみせた。


「この歳になって、こんな出会いがあるとは……。どうしようかな。攫って帰るか?」


 その言葉を聞いたアルフェの背筋に、どうしようも無い悪寒が走った。相変わらず、ディヒラーは笑っている。


「しかし……、儂の脚本も、お前たちのお陰でご破算になった。それに免じて、ここは潔く退くとしよう」

「――! ま――」


 アルフェは待ちなさいと言いかけて、口をつぐんだ。何かを知るこの男を引き留めようとする気持ちと、恐ろしいものに早く居なくなってもらいたいという思いが、彼女を迷わせた。

 しかし、アルフェの意志など関係なく、次の瞬間、ディヒラーの姿は無くなった。アルフェとフロイドのどちらも、瞬きすらしていないのに、始めから存在しなかったものであるかのように、男の姿は完全に消えた。


「……消えた、のか?」


 剣を構えたまま、フロイドが言った。その声には、まだ緊張がみなぎっている。

 相手は最高位の幻術士だ。消えたように見せかけて、そこに残っていることは当然考えられる。だが、何分かその場で警戒を続けたが、何も変化は起きなかった。


「この人たちを、軍に帰しましょう」


 早口でアルフェが言った。ディヒラーが去ったと断じることは出来ない。しかし、隠れた彼を暴き出す方法も、アルフェたちには無い。

 アルフェはルゾルフに乗せていた足をどかし、倒れた兵に活を入れていった。フロイドは、剣を構えたまま警戒を続けている。


「ぎゃあ!」


 叫び声がして、アルフェたちはその方向を向いた。


「何を――! 何をしている!」


 叫んだのは宮宰で、何をしていると言ったのはルゾルフだ。

 何を思ったのか、宮宰が、足元に落ちていたルゾルフの剣を拾い上げて、主君に斬りかかろうとしている。


「止めなさい!」


 しかしアルフェが止める前に、宮宰は剣を振り下ろした。

 がきりと音がし、剣は鎧に止められた。宝剣の力は鎧の魔術を打ち破ったようだが、金属鎧としての本来の性能が、ルゾルフの命を守った。

 そして、流石に二太刀目を振るう暇は与えない。アルフェは宮宰の手首が折れる勢いで、彼の手から剣を弾き飛ばした。


「うわああああ! うああああ!」


 宮宰は、痛みとは違う理由でわめき続けている。両手をばたつかせて、まるで、目の前に映る恐ろしい何かを振り払うように。


「ッ! ディヒラーか! おい、止めろ!」

 フロイドが、ルゾルフと宮宰を同時に制止しようとしている。アルフェは再度、全力で周囲を警戒した。宮宰はディヒラーの幻術にかけられたのだ。


 ――ほんの土産だ。


 耳元で、アルフェは誰かにささやかれた気がした。またしても、彼女の背中にぞわりと悪寒が走り抜ける。


「貴様、貴様は! 恩知らずめ! 何のつもりだ!」


 ルゾルフは、放心状態の宮宰を滅茶苦茶に罵っていた。



 トリール伯ヨハンナは、首都ムルフスブルクの自邸においてくつろいでいた。

 広大な私室には、彼女以外に誰も居ない。人は全て遠ざけてある。ここは彼女が唯一人目を気にせず、伯としての仮面を脱いで居られる場所だ。

 しかし、その私的な空間に、ノックの音が響いた。眼鏡をかけて本を読んでいたヨハンナは、億劫な顔をすると、本を置いて言った。


「どうぞ」


 失礼しますと言って入ってきたのは、侍女だった。長い銀髪の、非常に美しい見た目をしている娘だ。しかしこのような娘は、使用人の中にはいなかったはずである。ヨハンナは、すぐに侍女の正体を見破って、醒めた目をした。


「爺や……。相変わらず、悪趣味ね」


 侍女は、その娘らしい外観に似つかわしくない、歪んだ笑みを浮かべた。


「帰ったぞ、ヨハンナ」


 声も完全に少女のものだ。だが、付き合いの長いヨハンナには分かっている。この侍女は、ヨハンナの臣下ライムント・ディヒラーの幻影である。


「その格好は何?」


 ヨハンナの声には、辟易したものが含まれていた。

 このディヒラーという男は、決して自分の本当の姿を見せることがなく、いつも誰か別人の姿をまとっている。護衛の兵であったり、侍女であったり、本当に、見かける度に姿が違う。実を言えば、主人であるヨハンナですら、彼の真実の姿を知らなかった。


「爺やにしては、珍しいものに化けたのね。……それは、爺やの理想の女の子?」


 ヨハンナは、休息を邪魔されたついでに皮肉を言った。

 ディヒラーが扮している少女の姿は、銀髪碧眼の、まるで人形のような完全無欠の美しさである。実際に存在しない空想の人間に化けるのは、この男にしては珍しい。


「面白いものを見つけたからな。遊びよ」

「面白いもの……? そんな事よりも、頼んだことはやってきてくれたの?」

「失敗した」

「失敗ですって。……何でもないことのように言うのね」

「元々、儂にはさして興味は無かったからな」


 ヨハンナがディヒラーに頼んだことというのは、仇敵のノイマルク伯ルゾルフをそそのかして、パラディンを襲撃させる計画のことである。

 パラディンのエドガー・トーレスがノイマルク領内の調査を希望し、教会との歩み寄りを狙ったノイマルク筆頭将軍のベレンが、エドガーに接触して交渉が実現しようとしていることを聞きつけ、ヨハンナはその状況を利用した。


「うまく行けば、それでこの戦争は終わったのに」

「失敗は失敗だ。諦めるがいい」


 ヨハンナの残念そうな口ぶりとは逆に、ディヒラーは飄々としている。


「失敗は、予想外の邪魔が入ったからだが……、どのみち、ベレンとパラディンがそう簡単に争うとも限らなかった。……ヨハンナ、一つ言っておく。そんなに策を弄してばかりでは、いつか足元をすくわれるぞ」

「爺やが言うこと?」

「ふふ……」


 相変わらず、ディヒラーの仮装には隙一つ無い。今の笑いも、少女が妖艶に微笑んだようにしか見えなかった。


「失礼します、ヨハンナ様」


 会話の途中、今度は執事がヨハンナの部屋を訪ねて来た。これは間違い無く、実在する執事本人である。ディヒラーと話していると、ヨハンナは一々そういう事まで気にかけなければならない。

 執事は手紙を持ってきたようだ。彼はヨハンナの前にいる銀髪の侍女に、何ら注意を払っていない。手紙を載せた銀の盆を持って、真っ直ぐヨハンナの前に進み出てくる。銀髪の侍女にぶつかると見えたところで、執事は侍女の姿をすり抜けた。


「……私以外には、見えていないの?」


 執事が出て行ったあと、ヨハンナは聞いた。


「お前の目に映っているからと言って、他の者も、お前と同じものを見ているとは限らん、ヨハンナ」

「目眩がするから、止めて欲しいわ」


 ディヒラーに対するヨハンナの声が、厳しくなっている。

 この老人は、ヨハンナの曾祖父の時代から、トリール伯家に仕えていると言われている。その時点から、既に老人だと言われていたそうだ。つまり、ディヒラーは赤子の頃からヨハンナを知っている。トリールにとってディヒラーの知識や戦力は欠かすことが出来ないこともあって、どことなくディヒラーは、ヨハンナよりも上から物を言う事が多い。

 今の手紙の内容は何だと、ディヒラーの目が聞いている。


「ノイマルクの宮宰が、ルゾルフに処刑されたそうよ」

「ほほう」

「反逆罪ですって。釈明の機会も与えなかったようね。首が晒されて、何人か連座しているわ」

「愚かなことだ……」

「これで、ノイマルクの宮廷内はもっと混乱するわね。……爺やがやったんでしょう」

「どうかな。もう一つは?」


 手紙は二通あった。一通はノイマルクの内情を知らせるもので、もう一通は別のところから届けられたようだ。


「例の話は、上手く進んでいるわ」

「用意がいいな」

「……策が失敗したなら、次の手を打つだけよ。私は、あの愚か者とは違うわ」

「ははは」


 ディヒラーの今度の笑いは、堪えきれないものが、つい漏れてしまったという感じだった。


「何が、可笑しいの」

「お前は、あの愚かなノイマルク伯と、自分が違うと思っている。だが儂から見れば、お前も似たようなものだ、ヨハンナ。下らない欲に突き動かされて。全く、哀れな生き物たちだ」


 まるで、ヨハンナと自分が違う生物であるかのように、ディヒラーは語った。

 ヨハンナはディヒラーをにらみつけ、不満を隠さない声で言った。


「じゃあ、爺やは何のために生きているのよ」

「儂か。儂は魔術士だ」

「答えになってないわ」

「……魔術士は皆、同じ願いを持っている」


 ある程度究めた魔術士ならばなと、ディヒラーは付け加えた。


「魔術を、極め尽くしたいということ? それが、そんなに高尚な目的かしら」

「違う」

「何が」

「儂は、確かに幻術を極めつつある。極めようとも思っている。だが、それとは違う目的が、儂にはある」


 飽くなき知識欲、探究心、そういうことを言っているのではないのかと、ヨハンナは思った。彼女はもうそろそろ、この老人との会話を打ち切りたいと感じていた。


「分からないのだ、儂には」

「え?」


 一瞬、少女の姿をしたディヒラーが、ひどく寂しそうな目をした。


「魔術を究めれば究めるほど、分からなくなっていくことがある。そして、分からないからこそ、求める。魔術士とは、そういうものなのだ。儂は幻術を極めた。だが、そのせいで分からなくなった」

「回りくどい言い方は止めて、いい加減、はっきりと言ってちょうだい」

「…………全ての者の目に映る儂の姿は、儂が自由に操ることができる」


 この老人は、何を言い出したのか。

 そんな事くらい知っている。彼ほどになれば、自分の姿どころか、他人の姿だろうと、世界の景色だろうと好き勝手に操れる。それはさぞかし愉悦を伴うことだろう。そんな風にヨハンナが思っていると、「だがな」と、ディヒラーが言った。


「……だが、だがそのせいで、儂は、自分の目に映るものが信じられなくなったのだ」

「……」

「他の者の目に映っているものも同じだ。儂はいつの間にか、人間の目に映るもの、感じるものが、何一つ信じられなくなった。そんなものは、儂が好きにいじり回せる。どうにでも変えることが出来る。……ならばそれは、果たして元から、“真実”と言えたのだろうか」

「“真実”……? 急に、子供みたいなことを言い出すのね」

「しかし魔術士とは、そういうものなのだ、ヨハンナ。世界に干渉し、出来ることが増える度に、信じることが出来なくなっていく。儂は幻術を極めたが故に、見るものを信じられなくなった。同じように、心術を極めた者は、人の心が信じられなくなる……。死霊術を極めた者は、生も死も信じられなくなる……。だから、信じられる真実が欲しい。そういうことなのだ。分かるか、ヨハンナ」


 分からないわと、冷たい声でヨハンナは言った。その声をほとんど無視し。ディヒラーは続ける。


「だから、儂は知りたいのだ。見たいのだ。うつろわない“真実”を」


 お前の醜い欲に協力するのは、そのためだ。自分は変わらない真実を見たいだけだと、ディヒラーはしきりに繰り返す。段々とその言葉が、切実な響きを帯びてきた。


「儂は見たいだけだ。うつろわぬこの世の真実を……。そして、その一つが、あそこにある……! あの、大聖堂の奥にあるのだ……!」


 ディヒラーが叫ぶと、彼が創り出していた銀髪の少女の幻影は、一瞬だけひどく歪んだ。

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