第138話
落石に足止めを食らい、土地の娘に抜け道の案内を申し出られたルゾルフは、とりあえずその抜け道とやらがどんなものなのか、確認してみることにした。連れているのは宮宰と、わず供回りだけだ。兵の大半は、今も街道で待機し、落石の撤去にあたっている。
「こちらです。足元にお気を付けください」
後ろに立つルゾルフたちに注意を促すと、侍女の恰好をした娘は集団の先頭に立って歩き始めた。
街道脇の森に入ると、枝に太陽の光が遮られ、一段と周囲が薄暗くなった。加えて足元の悪い森の中を、娘は淀みのない足取りですたすたと歩いていく。兵の多くは、森の雰囲気にも娘の様子にも内心で薄気味悪さを感じていたが、ルゾルフは気にしていないようだった。
「こちらを通った方が、森を抜けるのには近道なのです。私の村の住人は、いつもここを使います。少々暗いですが、しばらくのご辛抱ですから」
振り返った娘は、そう言って微笑んだ。その、人の心を蕩かしてしまうような微笑に魅入られたように、兵たちの不安も消し飛んでしまった。既に老人で、色に全く興味の無い宮宰だけが、はて、こんなところに村などあっただろうかと首を傾げている。
しばらく歩いたが、森は深くなっていくばかりだった。これが本当に近道なのだろうか。そもそも、方角からして間違っている気がする。宮宰だけでなく、何人かの兵もそう思い始めた。宮宰は主君に耳打ちした。
「ルゾルフ様、あの娘は本当に信用していいものなのでしょうか」
「うん? 何を疑うことがある。お前も案外、人を見る目が無いな」
ルゾルフは、髭をいじりながら目の前にある娘の尻を眺めて、至極ご満悦そうだ。
「見ろ、あの尻――、ではない。あの気品のある歩き姿だけでも、あの娘が真っ当な人間だということが分かる。見ろ、お前も」
「仰るとおりです。しかし、いくら何でもこれは……。道と言えるのかどうか」
確かに、彼らが進んでいるのは獣道とすら言い難い、ただの草地である。時折、兵が足を滑らせて、うわっという声が上がった。
「心配するな。なるほどこの道では、輜重は通ることはできんかもしれん。だが、一日かそこら食事を抜いたところで、戦えなくなる兵は兵ではない。それは気にせんでもよかろう」
「仰るとおりです。ですが……」
いつもはルゾルフの言葉に反論したことのない宮宰だったが、今日はどうも歯切れが悪い。ルゾルフは宮宰の懸念を笑い飛ばした。
「ははん、さてはお前、慣れぬ森の空気に臆したか? だが戦場では、この程度のことは日常茶飯事だ」
そうは言うが、ルゾルフにとっても、これは初めての実戦だった。しかし彼の場合は宮宰と違い、この森の中の行軍を、探検気分で楽しんでいる気配がある。ルゾルフはそのように、どこまでも短絡的で、楽観的な人物であった。
「多少薄暗いからといって怯えるな。それとも、死霊でも出ると思っているのか?」
「死霊……。いえ……」
「死霊が出るなら、逆に見てみたいものだ。私が直々に退治してくれる」
「……死霊、でございますか。……ルゾルフ様、死霊とは申しません。ですが、もしやあの娘は、本当に人間ではなく、まも――」
「何か、ございましたか?」
娘が立ち止まり、ルゾルフと宮宰を振り返って見つめている。
もしやあの娘は、魔物の類いではないのか。そう言いかけた宮宰の台詞は、やけに良く響く娘の声に、中断されてしまった。
「何か、ご不審な点でも、ございましたか?」
ゆっくりと、娘が尋ねる。その碧い瞳が、薄暗い森の中で、まるで夜行生物のように光っているように見えた。
「い、いや」
ルゾルフですら、思わず上ずった声を出した。
娘はまたしても優しく微笑むと、再び歩き始めた。
「ちょっと待って下さい」
そんな風に供回りの兵の中から声がしたのは、森に入って四、五十分も歩いてからだったろうか。どうしたと宮宰が聞くと、兵は言った。
「一人いません」
「いない?」
「俺の後ろを歩いてた奴が、居なくなりました」
「それはどういうことだ」
「分かりません。いつの間にか消えました」
その兵と宮宰が、奇妙な問答をしている。ルゾルフも足を止めて話を聞くと、兵の中の一人が、気付かぬ内に姿を消していたということだった。
「小便でしょうかね」
品の無いことを言うこの兵は、さっきの落石現場でルゾルフの怒りを買った無礼者だった。しかし小用にしては、消えたという兵は少し待っても戻ってこず、呼びかけても返事すら無かった。まさか逃亡兵かと、やがてルゾルフは鼻息を荒くしだした。
「そんな、このような場所で、逃げる意味など……。道に迷っているのでは?」
宮宰は困惑している。彼は、おいお前と言って、無礼者の兵をつかまえた。
「何ですか、宮宰殿」
「お前が探してこい」
「一人で、ですか?」
「何だその態度は。……だがまあ、そうだな。何人か連れて行け」
「了解しました」
敬礼すると、無礼な兵は他に四人の兵を連れて、居なくなった兵の捜索に出かけた。案内の娘は、兵たちの姿が見えなくなると、ルゾルフと宮宰に言った。
「あまり、道を逸れない方がよろしいのですが……」
「……? それは、どういうことだ」
ルゾルフが聞いても、娘は答えず、意味ありげに微笑み返すのみだった。
休憩を兼ね、残りの人間は行方不明者を捜しに行った五人を、その場で待った。だがやはり、誰も戻ってくる気配は無い。苛立ったルゾルフは、宮宰に当たり散らし始めた。
「どうして帰ってこない! いくら何でも遅すぎるだろう!」
「そ、そう仰いましても……」
「おい、お前とお前!」
新たに二人、捜索を打ち切って戻ってくるようにという伝令役を出したが、その二人も戻ってこなかった。
これはおかしい、何かが起きているのではないかと、兵たちは明らかに動揺し、ささやきあっている。
――フロイドは、上手くやっているようですね……。
そんな中、一人だけ顔色を変えずに平然としている案内の娘――アルフェは、作戦がそつなく進行していることに安堵していた。
侍女の格好をしたアルフェは、自分がルゾルフたちの前に姿を現すより先に、兵卒の仮装をしたフロイドをノイマルク軍に紛れ込ませていた。あの、無礼な物言いをする兵がそれだった。
最初に行方知れずになった兵も、そのあとに捜索に出された兵も、フロイドが森の中で密かに始末しているはずである。始末と言っても、兵の命はできるだけ取らないようにという依頼条件だから、昏倒させてその辺りに寝かせてあるはずだ。この森に魔物はいないから、それでも多分死なないだろう。
この調子で徐々に護衛を減らしていって、ルゾルフと宮宰が心細くなった頃合いに、アルフェが「もう一押し」する予定だ。
ベレンとフロイドが立てた、いきなりアルフェが軍勢の中に暴れ込むという計画よりも、こちらの方が余程スマートであると、この作戦の立案者であるアルフェは、内心で自画自賛していた。
「ルゾルフ様、一度、引き返した方がよろしいのでは……」
「う、うむ。そうだな……」
「――まさか、恐ろしくなられたのですか?」
そのためには、もうちょっと怖がってもらわないといけない。アルフェは、引き返すことを検討し始めたルゾルフと宮宰を、挑発するような言葉を投げかけた。
「私の村では、年端もいかぬ幼女ですら、一人でこの道を通ります。……それなのに、まさか――」
「そんな訳があるか!」
アルフェの薄ら笑いを受けて、ルゾルフは憤然と言い返した。
「出発するぞ!」
「え、しかし、捜索に向かった者たちは……」
「足を引っ張る者を、いつまでも待っていられるか!」
ルゾルフは、アルフェを追い越す勢いで歩き出した。
宮宰が慌て、その後を追う。ルゾルフと宮宰の指揮に見切りをつけた兵たちは、自分たちの判断で、何名かを本隊への伝令に出し、何名かをここに残して捜索隊を待つという決断を下した。だが、細かく分散してくれるなら、かえってアルフェの思うつぼだ。
気配からして、フロイドは近くでアルフェたちの様子を見ている。引き返す者、残る者から順に、あの男が処理してくれるだろう。アルフェはルゾルフの後を追った。
そうやって二時間もしないうちに、出発した時には三十名はいたはずの兵が、いつの間にか十名足らずに減っていた。日も落ちてしまい。松明の周り以外は真の暗闇だ。ルゾルフもかなり心細そうになってきたし、そろそろ頃合いだとアルフェは思った。
「ルゾルフ様! 一人戻って来ました!」
「何!」
しかしそこで、不測の事態が発生し、あっさりとタネがばれてしまった。
「森の中に、誰か居ます! 他の奴らが襲われて……!」
「何だと!? 本当か!?」
泥だらけの兵が、息を切らして戻ってきた。その報告で、消えた兵たちが見知らぬ人間に襲われたということが判明してしまった。この兵は運良く沼地にはまって、不審者の襲撃を回避することができたのだという。フロイドがしくじったのだ。
「やはり、これは何かの罠です、ルゾルフ様。この娘も仲間に違いありません!」
タネが分かれば、そうやってアルフェにも疑いがかかるのが自明だ。アルフェとしては、ルゾルフを恐怖に陥れるためのさらなる脚本も用意してあったのだが、こうなっては仕方が無い。
「娘、これはどういうことだ! ……おい、何を笑う!」
「ふふ――。……愚かな貴方たちがおかしくて」
「な、何を……」
アルフェは口元に手の甲を当てて笑った。こうなったら、即興でなんとかするしかない。前にエアハルトの劇場で見た演劇では、悪役の女性役者はこんな風に笑っていた。精一杯演技を続けるアルフェに、兵の一人が怒鳴りつけた。
「どうも怪しいと思えば……。貴様は、人間では無いな!」
円陣を組んでルゾルフと宮宰をかばう兵たちは、既にアルフェを敵と見なし、武器を構えている。
ルゾルフは宮宰と一緒に、兵に囲まれたまま、声も出せずに震えていた。恐ろしさの余り、彼がまとっていた虚勢という名の鎧は剥がれてしまったようだ。それを見て、まだいけるとアルフェは思った。ここからのアルフェの演技力次第では、まだ持ち直せる。
「そう、私は人間ではありません」
「やはりか……! ならば、貴様は一体なんなのだ!」
「そう、私は人間では無く……」
「では無く……!?」
「……人間では無くて――。ええと」
「だからなんだ! その先を言え!」
「……ちょっと待ってください」
アルフェは、兵たちを手で押しとどめるしぐさをした。
腕を組み、どうしようかとアルフェは思った。いいところまで来たのに、適当な台詞が思いつかない。
魔物じみた扱いをされるのは慣れているが、「私は魔物です」というのは、この場面では陳腐な気がする。そう言ったくらいで、彼らを十分に怖がらせることはできるだろうか。
「私は、魔物――」
「やはり魔物か! そんなところだろうと思ったぞ!」
「いえ、違います。訂正します」
自分なら、魔物程度では怖がらない。しかも魔物というのは、彼らの予想の範囲内のようだ。驚きに欠ける。
「幽鬼ならどうでしょうか?」
「どうでしょうか、だと? 嘲る気か……?」
「やっぱり、これもありきたりですね」
アルフェは悩んだ。フロイドが失敗したせいで、とんだことになってしまった。何もかも、あの男が打ち合わせ通りにやらないのが悪い。
このように、ここに来て変な役者根性を見せているアルフェだったが、相手をしている兵やルゾルフたちは、娘の支離滅裂な回答に十分に混乱していた。
「んん……」
「貴様は一体何者なんだ! 早く答えろ!」
「んんんん…………」
しばらく悩んだが、それでも良い答えは思い浮かばない。と言うことは、結局――
「え? ――がはッ」
アルフェの姿がかき消える。次の瞬間、彼女に背後を取られた兵が、後頭部に掌底を食らって昏倒した。
結局、アルフェは思考を放棄して、取りあえず全員ぶちのめすことにした。
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