第134話
どんな道具屋でも容易に購入できそうな、不純物の多い灰色の紙。そこに普通の黒インクで、丁寧な文字が記されている。ベルダンに居た頃に届いたクラウスからの手紙と、筆跡は同じだ。
まず、この連絡が本当にアルフェの元に届くのかどうか、それを確認したかった。クラウスは手紙の冒頭に、そんなことを記していた。それが今日まで連絡を寄越さなかったのは、廃都市の大聖堂でアルフェと再会して以来、彼は依然として旅の空にあったからだ。それでもようやく、冒険者組合があり、情報屋のいる都市に腰を落ち着けることができたので、この手紙を送ると。
文中には、彼が帝都にいるとは一言も書かれていない。しかし情報屋は、この手紙は帝都から差し出されたという。それは偽りではない。クラウスは帝都にいるのだ。連絡が遅れたことをアルフェに詫び、文章は続く。
アルフェが師の仇として追い求める男、ハインツという魔術士は、今はラトリアにいる。クラウスと同じように、ハインツもドニエステ王の命令で、結界と関係の深い諸邦を巡っていたが、それは一段落ついたようだ。現在はラトリアの魔術学園に設けられた自分の研究室に戻り、そこに籠って何かをしている。これまでの傾向を見れば、数か月はラトリアに留まっているはずだが、いずれ再び行動を開始するだろう。
そうなった時、あの男が現れる場所の候補は、いくつか考えられる。
――その場所とは……各地にある大聖堂。もしくは……帝都。
大聖堂と、帝都。アルフェは口の中で、その文言をくり返した。
帝国内にある大聖堂は、各八大諸侯領の配置とほぼ重なっている。大聖堂のほとんどは、八大諸侯の居城のある都市の近郊に置かれているのだ。
一部例外もある。アルフェの居るここから、一番近い場所にあるキルケル大聖堂は、どの八大諸侯の居城にもない。ノイマルク首都ブレッツェンと、トリール首都ムルフスブルクのほぼ中間点に築かれている。しかし他は、エアハルト、ラトリア、ハノーゼス、ゼスラントの各領邦の首都、そして皇帝の膝元である帝都に、大聖堂があった。
大聖堂こそ、各地の結界の中心である。結界の力というものが、教会の権威のみならず、俗界諸侯の権力とも密接に相関していることが、この事実からだけでも分かる。
――……という事は、やはりここにも、あの男が来るかもしれない。
キルケル大聖堂がある方角に顔を向け、アルフェは考えた。クラウスに約束させられたように、力を溜めるまではあの男の前に出るのは危険だ。今のアルフェの実力では、ただ返り討ちに会いに行くようなものだ。
だが、今回のようにクラウスに与えられる情報ばかりに頼っていたのでは、あの男の力の輪郭すら把握することができない。少なくとも一度は、遠くから観察するくらいはしておきたい。もしここに現れた時は現れた時だ。心構えはしておいて、どういう対応でも取れるようにしておくべきだろう。
コンラッドを殺した時と、建設中の聖堂に死者の饗宴を引き起こした時、アルフェがあの男と遭遇したのは、どちらもある種、夢幻の中のような場面だった。しかしクラウスの手紙は、あの男が、普通に移動して息をしている、現実の存在であると感じさせてくれるような気がする。
クラウスはクラウスで信用できない部分があるし、この情報を鵜呑みにするのは危険だが、十分に参考になる。廃都市でクラウスを解放したのは、やはり正解だったとアルフェは思った。
だがそれにしても、クラウスは帝都で何をしているのだろうか。あそこには、神聖教会の本山であるミュリセント大聖堂がある。それの調査を担当しているのだろうか。ドニエステに仕えているという事は、クラウスは帝国にしてみれば、敵国の人間ということになる。そんな彼にとっては、帝都は神殿騎士団本部もあり、パラディンをはじめとする猛者がひしめいている、非常に危険な場所だろうに。
彼はそんな危険な仕事を任されるほど、ドニエステ王に重用されているのだろうか。分からない事は、まだまだ多い。
とにかく、ただでさえ偽りの多いこの世の中だ。自分――アルフェにとってはそれすら信用ならないが――、自分以外の誰のことも、本気で信じてはならない。それだけは忘れないよう、アルフェは自らを戒めた。
そして彼女は手紙をたたむと、貴重品と一緒に仕舞いこんだ。
◇
さらに数日が経ち、アルフェはベレンに呼び出された。
しばらくベレンの姿を見ていないと思っていたが、彼は、主君であるノイマルク伯に召還され、首都ブレッツェンまで戻っていたのだという。
砦に帰って来たベレンは、やけに上機嫌だった。
「喜んでくれ、アルフェ君。朗報だ。ルゾルフ様のお許しが出たんだ」
それは、ベレンや砦の文官たちが頭を痛めていたパラディンとの折衝が、上手くいったという話だった。
ここで、アルフェは初めて、ベレンが神殿騎士団と行ってきた交渉のあらましを知った。
パラディンのエドガー・トーレスをはじめとする、キルケル大聖堂に留まっている神殿騎士団の一行は、以前にノイマルク領内で起こった「ある事件」の真相を究明するため、ノイマルク領への立ち入りを求めている。その事件の詳細までは、さすがにベレンは語らなかったが、何か重大な出来事があったのだということは、アルフェにも伝わった。
そしてノイマルク伯ルゾルフは、神殿騎士団の要求を、これまではすげなく突っぱねる姿勢をとっていた。せめて交渉の材料として使用するよう、ベレンたちが賢明に勧めても、頑として首を縦に振らなかった。
だが、それが急に態度を変えたらしい。
「ひょっとしたら、ウィルヘルミナ様や宮宰のおとりなしがあったのかもしれない。いや、文官の皆の頑張りのお陰か。とにかく、ルゾルフ様がお許しくださるなら、あとは簡単だ……!」
ベレンは興奮した面持ちで、開いた左手に右こぶしを打ち付けている。思わずアルフェの知らない名前や役職を口走るあたり、ベレンは舞い上がっていると言っても過言では無い。
対称的に、アルフェは覚めた表情をしていた。
「それで、私に何か?」
「トーレス卿が領内を訪れる。そうなると、君にも頼みたい仕事が出てくる」
「護衛ですか?」
「そうだ。トーレス卿は秘密裏に来領することになった。彼らが調査したがっている事件は、騎士団としても大っぴらに公開できるものではないし、それは当然だ。それともう一つ、トリール側の動きを警戒してということもある」
トリール女伯ヨハンナは、パラディンを筆頭とする神殿騎士団を、膠着した戦況を打開するための切り札と考えていたはずだ。そんな彼女としては、これをきっかけにノイマルクと神殿騎士団が歩み寄る事態は避けたいだろう。したがって、トリール側にこのことが漏れれば、何らかの妨害工作を仕掛けてくる場合がある。
いや、むしろ必ず仕掛けてくるに違いないと、ベレンは確信的に語った。それを跳ね返すためにも、アルフェたちにも警戒の任についてもらいたいと。
この要請を受けると、ますます本格的にノイマルク・トリール間の戦争に首を突っ込むことにならないだろうか。ベレンの説明を聞いて、アルフェは考えた。しかし、パラディンの一人を間近に見られるというのは、彼女にとっても魅力的な話だった。あくまで目立たないように、随行の兵の中に紛れての護衛ならということで、アルフェは要請を受け入れることにした。
「分かりました、お引き受けします。……でも、こんな手間をかけてまで、騎士団は何を調査しに来るのですか?」
アルフェはベレンに尋ねた。引き受けるとなると、できればその部分は明らかにしておきたい。
ベレンは一度唸ったが、彼も話さざるを得ないと考えたようだ。他には漏らさないでくれと小声で釘を刺し、ベレンは言った。
「前に、このノイマルク領内で、パラディンの一人が何者かに殺されたんだ」
「……!? 本当ですか」
「ああ、本当だ」
アルフェは驚いた。彼女にしては珍しく、驚愕の色が表情に出ている。
アルフェが直接知っているパラディンは、都市バルトムンクで戦った、末席のロザリンデ・アイゼンシュタインだけである。その末席の彼女ですら、途方も付かない実力を持っていた。あれを基準に想像すると、他のパラディンにも、そう簡単に死ぬような人間はいないだろう。
ベレンは、“何者かに殺された”と言った。殺したのは人間だという口ぶりだ。強力な魔獣か何かならともかく、人間がパラディンを殺す。殺害という行為の法的、倫理的な是非以前に、物理的にそんなことが可能な人間など、そうはいないはずだ。
「神殿騎士団は再調査させろとうるさいが、言われるまでも無く、我々もその件については、かなり調べたんだ。でも、あの時点では特に何も分からなかった。――ああ、ちなみに俺は犯人じゃない」
ベレンはそんな失言じみた冗談を言った。アルフェはもちろん笑わない。
しかし確かに、パラディンを殺すことが可能な者という基準で犯人捜しをすれば、ノイマルクにはベレンくらいしか候補が居ない。もし他にいるとしたら、パラディン以上の力を持つ者が、特に世間に知られず、この帝国内をうろついているということになる。世に隠れた強者は多いと言っても、それにだって限度がある。
――まさか、あの男が……?
アルフェは師の仇を連想した。あの男は、既にノイマルクにも現れて何かをしていったのか。アルフェとしては、そう考えたくもなる。
アルフェの思考を余所に、ベレンは言葉を続けた。
「パラディンが殺された場所は、本当に何もないところだ。近くに小さな村があるだけで……、ほとんど野原の真ん中なのさ。だから、目撃者も一人もいない」
それでも、騎士団はその現場を再調査する事にこだわっている。アルフェはふと、疑問に思った。
「……どうしてそのパラディンは、そんな所に行ったのでしょうね」
「知らないな。だが、この調査で彼らが満足してくれれば、キルケル大聖堂からも、遠からず引き上げてくれるだろう。民や兵たちの動揺も解けるし、ルゾルフ様のお怒りも、それで完全に鎮まる」
とりあえず今は、それが重要だとベレンは言った。交渉の成果に心を捕らわれている彼は、事件の真犯人には余り興味が無いようだった。
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