第109話

「……クラウス、そんな事をしても――」

「動くな!」

「……!」

「武器を置け!」


 ネレイアを人質に取られた動揺を面に表さないよう、アルフェは努めて平静を装って話しかけた。しかしその声は、途中でクラウスに遮られる。

 彼は正気だ。その目も、話す言葉もしっかりとしている。この男は、血迷ってこんなことをしているのではない。非力な魔術士のネレイアが狙われたのは、完全にアルフェの不覚だった。どこかにまだ、この男は味方かもしれないという感覚が残っていた。

 フロイドとグラムが目配せをしてくる。アルフェが頷くと、二人はゆっくりとした動作で、地面に武器を置いた。


「そうだ、そのまま後ろに下がれ……!」


 クラウスはネレイアを拘束したまま、じりじりと入り口の方に向かおうとしている。この男の武器は、刃渡りが短めの片刃の小剣だ。それを左手に持ち、右腕でネレイアの首を絞め上げている。左利き……とは限らない。さっきの魔獣との戦闘で、空いた右手を使って魔術を行使していた。

 一呼吸で距離を詰めれば、あの剣を蹴り飛ばすことは可能だ。だがその場合には、失敗してネレイアの命を失う覚悟をしなければならない。ネレイアの命と、この男から得られる情報は、どちらの方が重いのか。自分はどちらを優先するべきなのか。

 アルフェが分析していると、クラウスが、この場にいない人間の名前を出した。


「メルヴィナから聞いてまさかとは思っていたが、あのアルフィミア様がこうなるとは……」

「……! メルヴィナ、あの女性も、やはりあなたの仲間なのですね」


 クラウスはその問いかけを否定せず、少し口角を上げた。

 最早間違いない。あの死霊術士の仲間ということは、クラウスは“あの男”に繋がっている。


「私をあの城から連れ出したのは、あなたでしょう。それがどうしてこんなことを?」

「……時が経てば、状況も変わる」

「……どういう意味ですか?」

「俺はもう、大公の家来ではないということだ……! 城から助けた事を恩に感じているのなら、忘れてもらおうか」


 一人称を変え、急にぞんざいな言葉遣いになったクラウスが、皮肉な笑みを浮かべながら言った。

 確かに、何年も経てば状況は変わる。あの侵攻の夜に、命をかけてアルフェを救ったラトリアの忠臣が、心変わりをする事だってあるだろう。

 しかしそれならば、アルフェの方だって変わった。再会した時に、この男がまた、自分に無条件でかしずくと思う程、アルフェは甘い生活を送ってこなかった。


「大公家の臣ではない。分かりました、それはあなたの勝手です。好きにしなさい」

「何……?」


 相変わらず平静に見えるアルフェの反応に、クラウスは動揺した。

 メルヴィナに、アルフェの話を聞いていたと彼は言ったが、三年前にベルダンに置いてきたひ弱で無知な少女が、今はこのように尊大な態度で、冷淡な物言いをするようになっていると、果たして彼は、本気で想像していたであろうか。


「仮に事情が変わって、誰か別の主人に仕えているのなら、それもいいでしょう。好きにしなさい」


 アルフェは強がりではなく、そう言った。彼女の眼は、爛々とした輝きを放っている。


「言ってしまえば、私にとってそんな事は、どうでもいい事なのです」

「どうでも……だと?」

「そうです、至極どうでもいい」


 アルフェの発言は謎かけでも何でもない。極論すれば、よく思い出せない過去や故郷のことなど、アルフェにとってはどうでもいいのだ。肉親であるはずの母や姉のことですら、今の彼女にとっては、それほど重要ではなかった。

 なぜならば、今のアルフェには、それよりもはるかに優先すべきことがあるからだ。


「私は、“あの男”が何者で、どこに居るのか教えなさいと言っています」


 アルフェが曲がりなりにも失った故郷や自分の記憶に関心を示すのは、それがあの男に繋がっているかもしれないと思うが故だ。そうでなければ、最悪そんなものは永久に手に入らなくても構わない。

 なぜならば、アルフェが自分の力で手に入れた、失いたくないと思う大切なものは、全てあの町と、あの道場と、あの人と共にあった。

 だからアルフェは、それを奪った者を許せない。それだけなのだ。

 何も知らなかったはずの少女が、どうすればこのように変わり果てるのか。

 余りの困惑に、人質を取っているはずのクラウスは、会話の主導権をアルフェに握られつつある。


「奴の居場所を知って、あなたはそれで、どうすると」

「殺します」

「……!?」


 クラウスの表情が険しくなり、人質を拘束する腕に力を入れた。ぎゅっと両目をつぶったネレイアが、小さな呻き声を上げる。

 このままでは逃げられる。以前にエアハルトでメルヴィナを逃がし、ここでクラウスを逃がしたのでは、あまりに間抜けすぎる。ネレイアのこともすっぱりと、どうでもいいと断じて諦めてしまおうか。アルフェの頭にある、彼女の命とクラウスの情報をかけた両天秤は、既にネレイアの命の方が軽いという判断を下している。

 だが、その一線は踏み越えてはいけないと強く叫ぶ声もまた、確実に、アルフェのどこかで響いているのだ。その声はアルフェ自身のものではなく、何故かコンラッドの声となって聞こえていた。


「……その女性を、放してください。私は別に、あなたに危害を加えたい訳ではありません」


 葛藤の挙句、アルフェは柔らかい声色でそう言った。

 クラウスは沈黙している。彼は推し量るようにアルフェを見たあと、フロイドとグラムの位置を素早く確認し、それからまたアルフェに視線を戻した。この男も、アルフェと同じように、何かを天秤にかけている。


「……あなたは、ドニエステ王国がラトリアに侵攻した理由を、知っているか?」

「……知りません。……それが、私の質問に関係していると?」

「そうだ」


 しかしその理由が何かとまでは、クラウスは口にしなかった。またしばらく迷ってから、彼は落ち着いた声で言った。


「……この女を解放する。……話し合おう。俺たちには、協力できる余地がある」


 アルフェは内心ほっとしながら、クラウスの言葉に頷いた。

 それを確認すると、クラウスがネレイアの喉元に当てていた剣をゆっくりと離す。ネレイアは首を押さえながらフロイドの後ろに隠れた。


「止めなさい」


 クラウスを拘束するため動こうとしたフロイドとグラムを、アルフェは一言で止めた。逃げ出そうと思えば逃げられる距離が、クラウスとアルフェたちの間には空いている。しかしこの男は、今しがたの約束を守ろうとしているようだ。


「そちらが戦いを求めないなら、俺もむやみに剣は向けない」


 男二人を見て、クラウスはそう言った。


「人質を取るような者を信用しろと?」


 グラムは、クラウスに対する嫌悪をむき出した表情をしている。人質という手段が、グラムには相当気に入らなかったようだ。

 クラウスは、喋るオークがこの場にいることに対して、特に違和感を覚えていない様子で答えた。


「先に剣を突きつけてきたのは、そちらのほうだ」


 それをやったフロイドに、悪びれる様子は無い。地面に置いた剣を拾って腰に差しながら、フロイドがクラウスに尋ねた。


「お前はアルフェと、どういう知り合いなんだ?」

「……それはこちらの台詞だ。お前たちのような……」


 クラウスは改めて、アルフェ以外の三人を、上から下まで見回している。言葉に詰まったあと、彼は眉をひそめてから言った。


「お前たちのように得体の知れない者たちが、どうしてこの方と一緒にいる」

「“色々”あったのさ」

「色々……?」

「それはいいです」


 男たちに自由に話させると埒があかなくなる。アルフェは強引に彼らの会話を打ち切り、本題に入るように促した。


「クラウス、先ほど“協力”と言いましたが、あなたは今、一体何をしているのですか」

「……あなたが言った通り、俺は今、ドニエステ国王の指示で動いている」


 ぴしりと、礼拝所内の空気が変わった。

 変えたのはもちろんアルフェだ。全員の視線がアルフェに集まったが、表向き彼女は平静だった。


「それで……? 続きをお願いします」

「ここに俺が派遣されたのも、その一環だ。あなたの言う男も、俺は知っている。あなたの言う男とは、魔術士のことだろう。凄まじい力を持った」

「……そうです。その通りです」


 早く続きを言えと、アルフェの内心は、まるで煮えたぎるようだった。


「あれは、ドニエステ国王の側近だ」

「……名前は?」

「ハインツと呼ばれていた。呼ばれているだけで、本当の名前かは分からない」

「ハインツ……」


 普通の名前だ。どこにでも歩いていそうな、ごく普通の。しかしアルフェはその名前を、あの男の心臓を握り潰すまで、心の中で大切に覚えておこうと思った。


「あなたはどうしてドニエステに? ……それに、私たちは協力できると言いましたが」

「……」

「クラウス」

「……ドニエステがラトリアに侵攻した理由は、あなたたち姉妹だった」

「…………わたしたち?」


 一瞬、アルフェにはクラウスの言っている意味が理解できなかった。

 アルフェたち姉妹を目的に、一つの王国が隣国に侵攻する。それは一体何の冗談なのだろうか。


「どういう、意味ですか」


 まず、その言葉は何かの比喩だろうかと疑った。二人の少女を目的に他国への侵攻を行うというのは、童話でもあるまいし、理由としてあり得ない。


「……そのままです。ドニエステ国王は、あなたたち姉妹のどちらかを手に入れるために、ラトリアへの侵攻を企画した」

「……本気で言っていますか?」

「疑うのも無理はありません。ですが、事実です」

「何のために?」

「分かりません。……俺が今、ドニエステに仕えているのはそのためです」

「……理由を調べている、とでも言いたいのですか?」


 クラウスはうなずいた。

 いつの間にか、クラウスの言葉遣いは元通りアルフェを敬ったものになっている。事情を飲み込めていない他の三人は、立ったままアルフェとクラウスの話を聞いていた。


 アルフェはクラウスの発言の内容について、頭の中で考えをまとめようとした。

 ドニエステ王国は、アルフェと姉のどちらかを狙って、ラトリアに侵攻した。それはあまりにも荒唐無稽な話に聞こえる。しかし、クラウスの顔は真剣だ。この男の正気を疑うべきなのだろうか。それともやはりこの男は裏切り者で、適当な話を並べ立てて、アルフェを煙に巻こうとしているだけなのだろうか。

 だが――


 ――確かに、あの男はベルダンに、私を狙って現れた。私をどこかへ連れ去ろうとしていた。


 それをコンラッドが、命を賭けて防いだのだ。その事は、アルフェも知っている紛れもない事実だった。


 ――では本当に、王国が私とお姉様を?


 ハインツというあの魔術士は、ドニエステ国王の側近なのだという。あれだけの魔術の遣い手なのだから、それは容易にうなずける。では、たかが娘二人を、軍事行動に訴えてまで求める理由とは何か。アルフェの疑問は、また同じ場所に立ち戻る。


「そう言えば……」


 そこで、アルフェははたと何かに気が付いた顔をした。


「あなたがここに来たのは、ドニエステ王の指示だと言いましたね。それはどういう意味ですか?」

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