第108話

 王国軍による侵攻があった際、自分を城から救い出し、ベルダンまで連れてきたクラウスという男について、アルフェは詳しく知らなかった。


 よくある濃い茶の髪と瞳に、中肉中背の、どちらかと言えば細身の体格。見た目は特徴の無い普通の青年だ。聞いたことは無いが、恐らくアルフェの姉と同年くらいだろう。

 いつも自信の無い表情をしていて、アルフェの部屋の窓から見える訓練場で、彼は毎日のようにアルフェの姉にたたきのめされていた。だからきっと、あの人は弱いのだろうと、アルフェはそう思い込んでいた。

 その人物が、あの時、アルフェを陥落寸前の城から連れ出した。そして今また、彼は強力な魔獣と単独で戦っている。

 魔獣のかぎ爪をかわしざま、左手に握った片手剣を振るい、敵の脚を斬りつけている。遠目から見ても機敏な動きだ。魔獣が中空に飛び上がると、彼はそれをにらみあげながら、素早く右手を差し出した。爆破の魔術が光球となってその手を離れ、魔獣に向かって飛んでいく。避けられはしたものの、天井に当たって起きた爆発はかなりのものである。


「アルフェ!!」


 すぐ隣から聞こえたフロイドの怒鳴り声が、アルフェを正気に戻した。それで瞬時に、アルフェは今やるべき事を思い出す。


「フロイド! グラム!」

「おう!」

「御意のままに!」

「あの男を助けます!」


 死なせるなと叫んで、アルフェは走り出た。

 あの魔獣と単独で戦えているだけでも驚くべき事なのだが、やはりクラウスは苦戦している。あの男には、聞きたいことが山ほどあった。死んでもらっては困るのだ。


「オオオオ!」


 オークらしい吠え声を上げて、グラムが手斧の一挺を投擲する。それは竜巻のごとく回転しながら飛んで、クラウスに飛びかかろうとしている魔獣のこめかみに突き立った。その程度でこの魔獣は沈まない。だが、突然の乱入者は魔獣に動揺を与えたようだ。体勢を立て直すために、魔獣は再び中空へと舞い上がっていく。

 アルフェとグラムは、魔獣の注意を引くため前に出た。その間に、フロイドはクラウスの側に寄っている。クラウスが片膝をつくのが見え、ネレイアが彼にも防御魔術を施したのが見えた。

 魔獣との再戦にあたって、アルフェは色々と想定し準備してきたが、こうなってはもう勢いに任せる他無い。アルフェは直観的に、矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。


「フロイド、そのままその男を守りなさい! グラム!」

「はっ!」

「投擲で援護!」

「心得ました!」


 グラムの投げ斧は重い石弩を上回る破壊力と命中精度を備えているが、斧は一挺しか残っていない。そこで彼は、シャツを引き裂き、一瞬で即席のスリングを作りだした。

 礼拝堂には瓦礫が散乱している。投石ならば弾には事欠かないという訳だ。そしてその投石は、魔獣の行動を阻害するという点においては十分役立った。

 アルフェは魔獣の飛行ルートを予測しながら、大きな瓦礫に脚をかけて跳躍した。

 魔獣と衝突するかしないかのギリギリの所、彼女が狙ったのは魔獣のこめかみに刺さったグラムの斧だ。


「ふっ!」


 上手くタイミングを合わせ、鋼のグリーブで斧の刃を蹴り込む。スカンと小気味良い音がして、魔獣の皮膚表面に走るひび割れが大きくなった。


 ――キャァアアアアア!


 いや、皮膚だけでは無かったようだ。人間の赤子のような鳴き声を上げて、魔獣の航跡が乱れた。その片目からは、血液めいた赤い体液が流れだす、。

 勢いはこちらにある。そう確信したアルフェは、地面に降り様すぐに走り出した。

 ネレイアに治癒術をかけられているクラウスが、膝立ちのまま、走るアルフェを目で追っている。その瞳に浮かんでいるのは、隠しようも無い驚きだ。

 壁にこすれるように衝突した魔獣の上に、アルフェは飛び乗った。初戦の時にあれほど恐怖を感じたこの魔獣から、今はそれほど圧を感じないのは、もっと恐ろしいロザリンデとの戦いを経験したからだろうか。

 はじけた外壁の欠片が、次々と顔にぶつかるのも構わない。魔獣の翼の根本に取り付いたアルフェは、その猛禽のような片翼に両手をかけ、脚を敵の頭部に置いて踏ん張り始めた。この体勢になれば、やるべき事は決まっているのだ。空さえ飛べなければ、この魔獣の戦力は半減する。音による攻撃も、防御魔術を施した今ならば耐えられる。

 翼の付け根がミチミチと音をたてる。礼拝堂の外壁を削るようにしながら、きりもみをして魔獣が落ちていく。笑顔で牙をむく、銀髪の少女。墜落の瞬間、アルフェはその反動も利用しつつ、魔獣の翼をもぎ取った。



 前回あれだけ苦戦した魔獣だったが、力のバランスが変われば、意外と呆気なく決着がつくものだ。翼を奪われ地面に堕ちた魔獣が、完全に息の根を止められるまでは長くかからなかった。あちこちから体液を吹き出し絶命している魔獣の横に、返り血を浴びたアルフェとグラムが立っている。


「お怪我はありませんか? アルフェ様」

「軽傷です。……あなたは?」

「ご心配には及びません。見事でした」


 言葉通り、今回は戦闘に参加した全員が、傷すらほとんど負わなかった。グラムが魔獣のこめかみに刺さった斧を抜いたのを見てから、アルフェはフロイドたちの方を振り向いた。


「周到に準備した割に、出番が無かったな。楽をできるのはいいが」


 そう言って肩をすくめたフロイドの前には、まだ片膝をついているクラウスがいる。

 ネレイアによる応急治療は終わったようだ。アルフェはクラウスと眼を合わせながら、その眼前につかつかと歩み寄った。


「くッ!」

「いいから、じっとしてろよ」


 慌てた様子でクラウスが身じろぎすると、フロイドが剣の刃を彼の首筋に当てた。それを、腕組みしたアルフェが冷たく見下ろしている。


「久しぶりですね、クラウス。二年……、いえ、三年ぶりくらいでしょうか」


 白々しく、アルフェが言った。


「ア、アルフィミア、様……」

「ああ、やっぱりあなたはクラウスなのですね。人違いかと思いました。……今まで、私を置いて、どこに行っていたのです」

「アルフィミア様、私は……」

「その名前で呼ばないで下さい。私は、アルフェです。……あなたが最初に、そう呼んだのでしょう?」


 アルフェの様子が、普段と明らかに違う。冷淡を通り越して、冷酷な表情が彼女の顔に浮かんでいる。ゆっくりとした調子で、彼女は跪く青年に話しかけている。事情を全く知らないネレイアは、狼狽えたようにアルフェを見て、フロイドもまた、己が剣先を当てている男ではなく、アルフェの顔色を注視していた。


「お待ちくださいアルフェ様……! 私が、アルフェ様のお側を離れたのには、理由があります。どうか、お待ちを……!」


 釈明しようとするクラウスは、何故かアルフェを恐れているように見える。彼にしてみれば、ずっと前に別れたはずの無力な令嬢が、有り得ないほどに豹変して、唐突に目の前に現れたのだからやむを得ないか。


「理由……。お姉様を探すためという理由ですか?」

「……はい」

「嘘おっしゃい」


 低い声と同時に、アルフェが右足をかけていた一塊の岩が、音を立てて粉々に砕かれた。

 冷酷に見える表情の裏で、その実彼女は高揚感を抑えるのに必死だった。ようやく、全ての事情を知っていると思われる男を掴まえたのだから、興奮せずにいられるだろうか。


「あなた、“あの男”の事を知っているのでしょう」

「あの男……?」

「ベルダンで、私を襲ってきた男です。知っているでしょう」

「……!」


 クラウスの目が大きく開くのを、アルフェは見逃さなかった。

 アルフェの念頭には、コンラッドを殺したあの魔術士の姿がある。思い出す度に、アルフェの心は憎しみに染まる。何もかも壊してしまいたくなるような衝動に駆られる。

 そしてあの男は、エアハルトの聖堂に現れた時、確かにクラウスの名前を口にしていた。


「あの男がベルダンにやって来る前、私に逃げろと手紙を寄越したのは、あなたなのですから。……あの男は何者ですか。ドニエステ王国の者ですか。……あなたと、あの男の関係は?」


 クラウスは何を考えているのだろうか。彼はじっと目を伏せて、アルフェの問いかけを聞いている。


「あの男が何者なのか、どうして私を狙ったのか。それに……、メルヴィナという女性についても、聞きたいことがあります。あなたの知っている事を、全て私に教えなさい」

「…………いいでしょう」


 長い沈黙のあと、クラウスが顔を上げた。その顔は、何かを覚悟した顔だ。


「私は――」


 クラウスが口を開いた。その時、死んだはずの魔獣の方から何かが破裂したような物音がし、アルフェとフロイド、グラムの三人は、一瞬そちらに気を奪われた。

 魔獣は間違い無く死んでいる。だが――


「動くな!」


 視線を元に戻すと、今の一瞬の間にクラウスが立ち上がっている。

 不覚を取ったことにアルフェたちが気付いても、もう遅い。


「武器を捨てろ! この女が死ぬぞ!」

「うっ……!」


 ネレイアが後ろ手にされ、その喉首にクラウスの剣が突きつけられている。

 アルフェは歯噛みし、クラウスを睨みつけた。

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