第82話
――……今だ!
かっと目を見開いたアルフェは、両腕で魔獣のかぎ爪の一本を掴み、同時に体をひねった。敵の体重と勢いを利用し、そのまま直下に叩き付ける。地面の陥没は礼拝所全体に及び、聖堂のあちらこちらで新たに天井が崩落した。
一部始終を見届けたフロイドは驚嘆した。この衝撃を受けて、無事な魔物がいるはずが――
「何だと……!?」
けたけたと笑いながら、魔獣は再び飛び上がった。その後に数枚の羽が舞い落ち、額の右側にはひび割れが見える。決して無傷ではない。しかし、魔獣よりもはるかに損傷が大きいのは、攻撃したはずのアルフェの方だった。
「ぐッ……!」
かぎ爪を受けた両腕の内側が、痛々しい裂傷を負っている。その裂傷は彼女の体の前面、首元から胸の上部にまで及んでいるようだ。アルフェの革の胸当てと、上着の一部が裂けて、その様子が垣間見える。
遠目からは分かりにくかったが、魔獣のかぎ爪にはびっしりと細かな剛毛が生えていた。剛毛と言うが、それは針よりも鋭く、鋼のように硬かった。それを真っ向から抱き留めた人間がどうなるかは想像できるだろう。いかにアルフェの体が硬体術で強化されているといっても、それは同じだった。
それでも、まだアルフェは戦うつもりだ。爛々と輝く彼女の瞳がそれを物語る。この程度の傷、この程度の痛みで止まるような娘ではない。それはフロイドもよく知っている。
確かに、敵も損傷を受けたことは明白だ。この方法を繰り返せば、いつかは倒せるかもしれないとは思う。
だが恐らく、その前にアルフェが力尽きる。相打ち狙いでも、元の体力が違いすぎるのだ。
それならばそれで、とも思う。逃げようとしないのは、この娘の矜恃のためだ。フロイド自身も敵に背を向けるなどまっぴらである。こういう所に興味を抱いて、自分はこの娘に付いて来たのではないか。
仮にここで力尽きて死ぬのなら、それはこの娘の実力であり、運命だ。それはそれで、この娘は戦士としての誇りを守ったことになる。負けるくらいなら死を選ぶ。負けて無様に生きるより、その方がよほど美しい。
しかし、本当にそうか。
激痛が走っているだろうに、それを無視してアルフェは構えた。その体に魔力が集まっていくのが、フロイドにも分かる。あの娘の闘志は微塵も衰えていない。フロイドもまた、彼女を援護するべく剣を構えた。
本当にそうなのか。
己が迷っていることに、彼は気付いていたのだろうか。
――ヒヒヒヒヒヒヒ。
魔獣の方は、人間の思いなど推し量ろうともしない。
赤子の声でけたけたと笑っていた魔獣は、急にその笑い声を止めた。
ひぃん、と、何かが共鳴するような感覚がして、礼拝所から音が消える。
「くぅ!」「ぐっ!?」
続いて来た、上から押しつぶされるような感覚。礼拝所全体がびりびりと振動し、天井と壁が、またもや剥がれ落ちた。
これは――
「何だこの音は!?」
耳を押さえながらフロイドが叫んでいる。
それは、魔力の籠った凄まじい音としか形容しようがない。音の波が魔力と共に室内に満ち、重圧となって彼らにのしかかって来たのだ。
「くうううううう!」
この音によって空から獲物を弱らせ、一方的に狩りをする。これがこの魔獣本来の戦い方なのだろう。
アルフェも片膝をつきそうになりながら、両耳を塞いでこの攻撃に耐えている。反撃の手段を講じたいが、上空から放たれる脳と内蔵を揺さぶる怪音に対して、地上の人間たちはなすすべがない。
音量はさらに上がっていく。耳を塞いでいても、鼓膜が破れてしまいそうだ。
「――い!」
フロイドが何かを叫んでいるのが、アルフェの目に映った。しかし魔物の発する音にかき消されて、何を言っているかまでは聞き取れない。ただぱくぱくと、大きく口を動かしているようにしか見えなかった。
「――おい!」
音の重圧の中をにじり寄ってきたフロイドが、片手でアルフェの肩を掴んだ。
「おい! 聞こえるか!」
耳元で力の限り怒鳴られて、ようやく彼の言っている内容がアルフェにも判別できる。
この状況下で、フロイドはアルフェに何を伝えようとしているのか。この状況を打開するために、何か提案したい策でもあるのか。
「提案があるぞ!」
やはりそうなのか。しかし、そう思ったアルフェに彼が叫んだ言葉は、予想外のものだった。
「撤退しよう! こいつには勝てない!」
「な――!?」
「間違い無い! 続ければ死ぬ!」
「まだ、勝負は――!」
ついていない。アルフェの言葉は、魔獣の放つ音にかき消された。至近距離でも会話が不能なほど、いや、むしろ自分の声すら聞き取れないほど、音は大きくなっている。
それでもアルフェは、あの敵を倒す方法を探した。フロイドは怖じ気づいたようだが、彼女は始めからこの男をあてにしていない。逃げたいなら、一人で逃げればいい。戦意を失った者がここにいても邪魔なだけだ。
「――!」
アルフェは両耳から手を放した。彼女の肩を掴み、まだ何かを訴えている男の手を振り払って、上空の魔獣を見、それから奥の壁を見据えた。
――逃げたいなら逃げればいい!
視界が振動する。体内のあちこちの血管がちぎれていくような感覚がする。
――私は独りでも、戦える!
次の瞬間、アルフェは壁に向かって駆け出していた。
◇
「早く退かなければ――! ――ちッ!」
剣士の声は、もはやアルフェに届いていない。舌打ちをしたが、それは自分の耳にすら届かなかった。
あの魔獣は、まだ力の底を見せていない。この攻撃も、魔獣の力の一端に過ぎないはずだ。撤退しなければ死ぬ。自分も死ぬが、それ以前にアルフェが死ぬ。
それはそれで、美しい死に様なのかもしれない。潔く敗北を認め、死を受け入れることは。
だが、本当にそうなのか。
制止するフロイドの手を振り払って、アルフェは駆け出した。それも、壁に向かって。
上空に居る魔物に対してそんな事をしてどうするのか。考える間もない速度でアルフェは壁に近づき、跳躍した。そして彼女は壁を蹴り、再び上昇し――
「きゃあ!」
あんな跳躍が可能だというだけで、アルフェの技は賞賛されるべきだったかも知れない。しかしそんな無茶をしてみた所で、あの魔獣相手には、勢いも何もかも不足していた。いともたやすく、魔獣は翼でアルフェを迎撃した。
アルフェの体が、無防備な状態で天井近くの中空から落ちる。それを追って高度を下げる魔獣が、口を大きく開けたのが見えた。その中に生えた鋭い牙。
「――!」
我知らず走り出していたフロイドは、食らいつく魔獣の口からかすめ取るようにアルフェを抱き留めた。
受け止めた時の感触がぐったりしていた。アルフェの意識は飛んでいる。
――撤退だ!
フロイドは迷わなかった。少女を肩に抱えたまま、彼はまた走り出す。
出口は近い、――だが遠い。彼はアルフェほどの速さでは走れない。魔獣は地面をえぐったあと、軌道を修正して彼らに迫る。
焼け石に水だが、走りながら後方に剣を投げた。それを魔獣がはじいた音が聞こえないのは、魔獣がそれを避けたからではなく、先ほどの攻撃のせいで、彼の聴覚が一時的に麻痺していたからだ。
――南無三!
出口に届くか届かないかのところで、彼は前方に倒れ込むように跳んだ。音は聞こえずとも、振動は伝わる。二人の上空すれすれを飛んでいった魔獣は、二人を追い越して上の壁にぶち当たったようだ。一拍遅れて、大小の瓦礫が土埃と共に降り注いだ。
「首を洗っとけ!」
魔獣は壁に突き刺さってもがいている。
フロイドは捨て台詞を吐くと、乱暴にアルフェを小脇に抱え直し、そのまま一目散に逃げ出した。
◇
疾駆する蹄の音がする。
頬にあたる風と雨粒、そして、ざらついた毛皮の感触。自分はどうやら、馬の背中にいるようだ。前に居る人の気配、その人間に手綱を握られて、馬は一心に駆けている。
自分は――
「――っ!? きゃ!? こ、れは――!?」
まどろみから抜けたアルフェは混乱した。
フロイドが駈る馬の背中に、彼女はうつ伏せの格好で乗せられている。
「止まって! ――止まりなさい!」
わめきだした雇い主に、フロイドも気付いたようだ。逃げることに集中していた彼は、そこでようやく速度を落とす気になった。
「これは――、敵は!?」
「待ってくれ、今止める」
どうどうとフロイドが呼びかけると、やがて馬は足を止めた。
「どういうことです!」
「あんたが気絶したから撤退した。覚えてないか」
いきり立つアルフェを前にして、フロイドは彼らがここにいる経緯を説明した。
ここはダルマキアの廃都市から、かなり離れた森の中だ。敵対心を刺激された魔獣から逃げるため、馬を拾ってなりふり構わず走っていたら、こんな所まで来てしまった。
「そんなの――!」
私は許していない。そう言いかけてアルフェはやめた。確かにあの時、自分の意識は飛んでいたのだ。この男がそうしなければ、自分は魔獣に食われていただろう。撤退の判断は正しい。
「そんなの……」
「間違ってたか」
「……いえ」
アルフェは冷静さを取り戻したようだ。普段の彼女ならば、不利を悟れば自ら退くという判断も下せただろう。しかし、あの時は成果を急ぐあまり、無謀な行動をとっていた。
「間違っては、いません。あ――」
ありがとうございます。その単語は、アルフェの口から出かかった所で消えた。
「……何だ?」
「……いえ。……ここは、どこでしょうか」
「あの町から、そんなには離れていないと思うが……。あんたが気を失ってたのは、二時間くらいだ。あの鳥は、かなり気が立っていたようだからな、とにかくここまで逃げてきた」
「……」
「……戻るか?」
フロイドのその言葉は、もう一度あの魔獣と戦いに戻るかという意味だ。そう言いながら、彼は地面に立ったアルフェの腕を見やる。あれほど酷い裂傷が、もう治りかけていた。
「……いいえ、バルトムンクに帰ります。体勢を立て直しましょう」
一度冷静になると、アルフェにも状況がよく見えてきた。
今、何の策もなくあの魔獣と再戦しても、自分は勝てない。鍛え直すか、それ以外の対策を講じるとしても、一旦バルトムンクまで引き返すのが得策だろう。
「分かった、なら道を探そう。荷物は置いてきてしまったが――」
ほとんど手ぶらで、彼らは逃げてきていた。参ったように頭を掻きながらも、フロイドは来る時使った街道跡を探そうと動き始めた。
「……私を」
「ん?」
アルフェに声をかけられ、フロイドは振り向いた。
「私を殺すこともできたでしょう」
さっきは危うく礼を言いかけたものの、この男がどういう人間か忘れてはいけないと、アルフェは自分に釘を刺した。これは、自分を殺すことにあれほど執着し、命までかけた男なのだ。
しかし、それにしては不可解だ。フロイドは気絶したアルフェを見捨ててもよかったし、あるいはその後に自らとどめを刺してもよかったはずだ。なのに、そうしなかった。
「ああ……」
「どうしてそうしなかったのですか」
「……そうだな」
フロイドはアルフェを見て、それから視線をそらした。彼の目には、胸当てが弾け飛んで、前が開いた彼女の鎖骨が映っていた。
「そんな事をしても、無意味だからな」
そう言って道探しを再開したフロイドの背中に、アルフェは理解出来ない様子でつぶやいた。
「何をしたいんですか? あなたは」
「さあな」
フロイドのその回答は、自分をはぐらかすためのものだとアルフェは受け取った。
「何がしたいんだろうな、俺は」
しかしアルフェに問われるまでもなく、自分の行動の理由が分かっていないのは、他ならぬフロイド自身の方だった。
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