第81話
大聖堂に近づいたところで、馬が前に進まなくなった。
まるで、これ以上は一歩も前に出たくないとでも言うように、手綱を握っているフロイドの手を振りほどこうと、四つの脚を踏ん張って抵抗している。
「どうする。“彼”はもう行きたくないってよ。……おいこら、噛むな」
フロイドは馬の攻撃を避けながら、雇い主の意向を尋ねた。しかし、素直に引き返したいと態度に表せるだけ、ひょっとしたらこの馬が一番利口なのかもしれない。そう思うと、フロイドの顔にも苦笑が混じった。
「……仕方ありませんね」
「うん? おい、だからって何も――!」
馬の首に手を伸ばそうとしたアルフェに対して、フロイドが少し焦った声を出した。
「……?」
「――っと」
「何を慌てているんです?」
「いや、何でもない。俺の勘違いだ。気にしないでくれ」
黒い毛並みにそっと手を添えたアルフェを見て、フロイドは言いかけた言葉を打ち消した。
非情なあんたのことだから、言うことを聞かないこの馬を、さっさと始末するつもりかと思ったのだ、とは、さすがのフロイドも口にしない。
「……怖がらせてごめんなさい。少し、ここで待っていて下さいね」
アルフェは馬を撫でながら、小声で話しかけている。
その、自分の雇い主のものとは思われぬ優しい声色に、フロイドは形容しがたい複雑な表情をした。
一方、馬はそれで気持ちが落ち着いたようだ。“彼”は調子よく鼻面をアルフェの顔にこすりつけようとしている。フロイドはさりげなく手綱を引っ張ってそれを止めた。
できるだけ魔物に襲われないようにと、手頃な廃屋の一つに馬を隠すと、二人は道行きを再開した。
大聖堂が近づくにつれ、魔物の気配はいよいよ濃厚なものになっていく。入り口の階段に立った所で、アルフェは何度か拳を握り開き、フロイドは長剣の鞘を払い、柄につばを吹きかけた。
「あまり、入ったことは無いんだが――」
信心とは縁遠い性格のフロイドは、そう前置きしてからアルフェに聞いた。
「教会ってのは、こんなものだったか?」
彼の頭の中にあるのは、他ならぬアルフェと殺し合った、建設中の聖堂だ。あちらは作りかけ、こちらは朽ち果てているという違いはあれど、両者を比べると、色々な部分が異なっていると言いたいのだろう。
「初期の西方様式……です。多分。ウルム大聖堂は比較的新しい設計ですので、構造が異なります」
「ほう、詳しいな。それもあの学者先生に聞いたのか」
「本で読みました」
二人の声は低く抑えられている。会話をしながらも、五感を研ぎ澄ませて周囲に気を配っていた。
アルフェが目指すのは、例の秘蹟の間にあたる部分だ。クルツとシンゼイは、そこであの“遺物”を用いて結界の秘蹟を行おうとしていた。構造は違っていても、それと似たような部屋が聖堂のどこかにあるはずである。
大聖堂の中は広い。その部屋を探して、アルフェとフロイドは歩き回った。回廊の天井は一部が崩れ落ち、木漏れ日が差している。その光を浴びて、ここでも草が一面を覆っていた。
「……動く気配が無いな」
動かない、とフロイドがいうのは、この建物内のどこかに居るはずの魔物である。
その魔物は、先日のトロルのように二人を襲ってこようとはしないし、侵入者に苛立っている気配も感じない。あのトロルとは別格の存在感が、重苦しく聖堂全体を覆っているのにだ。
「こっちに気付いているのは間違いありません」
「そうだ。……ならば、なぜ?」
「……無視されている?」
「俺たちごときと……? ふん、余裕か。魔物のくせに、生意気なことだ」
ふと、アルフェは回廊の途中にある部屋に入った。放棄する際に家具や調度類は全て持ち出されたようで、がらんどうである。この空間が何に使われていたのか、今では判別のしようもない。
「ここを逃げ出した奴らは、どんな気分だったんだろうな。今まで安全だと思っていた場所が、そうじゃなくなって」
「……」
「結界は、永遠じゃないってことだろう? ……俺たち人間の住む場所は、いつか全部こうなるのかもな」
部屋の入り口に立ったフロイドは、抜き身をぶらさげたまま感傷的な台詞をつぶやいた。アルフェはそれに何も答えず、部屋の中を調べ廻っている。
運べる物は全て運び出されている。あるいは、今いる魔獣が都市の滅亡と何らかの関係があるのかもと思ったのだが、財産を持ち出す暇があったということは、そういうことではなさそうだ。おそらく結界が失われてから、ここに住み着いたのだろう。
「そのほうがいっそ、清々するのかもしれんが……」
「何もありませんでした。行きましょう」
「……ああ」
そして更に探索することしばらく、彼らは聖堂の中心とおぼしき場所に到達した。
「ここですね」
「そうだな。ここだ」
二人の目の前にある金属の枠で補強された大扉は、まだ完全に朽ちてはいない。目を引くのは、扉が太い鎖と錠前で封印されていることだ。
「“入るな”ということでしょうね」
アルフェが言った。
推測が正しければ、この奥に礼拝所があり、さらにその奥には秘蹟の間があるはずだ。執拗に巻き付けられた鎖と複数の錠前は、この場所の重要性を明確に示している。持てる全てを持ち去ったにもかかわらず、聖堂に居た過去の人間たちは、その後に誰かがこの奥に立ち入る事を、これ程までに嫌った。
「どうかな、案外、“出るな”ってことかもしれん」
「え?」
しげしげと鎖を眺めながらフロイドが口にした言葉に、アルフェは驚いて顔を向けた。
「この扉をこうした奴の考えはともかく、どっから入り込んだか知らんが、魔物はこの中にいるんだから……ん? どうした」
「……。今……」
「何かあったか?」
「…………いえ」
妙な間のあと、アルフェは気を取り直して扉を見た。ここを通らなければ奥へは行けない。それは事実なのだ。
「開けるか?」
アルフェがうなずいたのを見ると、フロイドは剣を振った。その一振りで鎖は弾け飛び、かろうじて支えられていた扉は、自重で音を立てて倒れた。
そこに広がっていたのは、かつて礼拝所だったとおぼしき空間だ。ここもやはり天井が崩落している。目を上げれば青空が見え、床には緑と朽ちた長椅子がある。取れかかっている壁の神像は、この都市と共に見捨てられたのか。
そして――
「あの翼……。なるほど、空から入ったか」
「……」
「引き返すなら今のうち……、いや、もう遅いか」
部屋の中心に、その魔獣は居た。
巨大なかぎ爪になった脚と猛禽のような翼。瞬かない、白く濁った目を持つ人間の赤子の顔。かぎ爪と翼は、その顔から直接生えている。
巣で眠っていたその獣が目を覚まし、アルフェとフロイド、二人の人間を見つめていた。
「ハルピュイア……?」
「……そんな雑魚じゃあない」
受けた者の心をかき乱し、吐き気を催させるような魔力が渦を巻く。
「――すぅ」
深呼吸するアルフェ。フロイドが剣を握る手からも、ぎりりと音がした。
――何であれ。
私の道を塞ぐものは何であれと、不安な心を抑えて、アルフェは心の中でとなえる。震えそうになる身体を、拳を握り、奥歯を食いしばって彼女は止めた。
――…………お師匠様。
怖くない。
――お師匠様、私に力を貸して下さい。
だから怖くない。
「フロイド・セインヒル」
「ああ」
「邪魔者は、叩き潰して通ります」
「了解」
そして、己をにらみつけた少女に対して、魔獣は不気味に微笑んだように見えた。
◇
その魔獣は強かった。
少なくとも、アルフェが今まで戦った魔物の中では、それと比較できるものはいなかった。
「ぬあッ!?」
翼の風圧を受けて、フロイドがよろめく。
人間は、空を飛ぶ魔物に対してどうしても不利だ。自在に空中を動くことができる彼らに対して、地面を這いずり回る人間が有効打を与えるのは、それだけで困難な作業である。
戦いの舞台となっている礼拝所は、屋外と違い限定された空間ではある。しかしドーム状の天井は高く、魔獣が飛び回るには十分だ。
「――、――――!」
人間の声のような、だが全く無意味な音の羅列が、奇妙に艶めいた紫の唇から発せられる。
滞空する魔獣めがけて、アルフェは遠当てを放った。それをひらりと避けて、魔獣は耳障りな声でわめき続けた。
この攻撃をただで命中させるのは至難だ。加えて、遠当ては通常の打撃よりもはるかに威力が落ちる。直撃したとしても、たいして効果は期待できないだろう。
次に考える手段としては、敵がこちらに向かってきた時にカウンターをたたき込む方法だ。
「くッ!」
気まぐれのように、魔獣は急激に高度を下げ、アルフェにかぎ爪による攻撃を繰り出してきた。カウンターを――と考える暇も無く、黒光りする爪が目の前一杯に拡大する。横に跳んだアルフェに代わって、彼女の背後にあった石壁が崩れ去った。
「ちぇぃッ!」
ぎん、と、跳躍したフロイドの横薙ぎが魔獣の頬に打ちこまれる。その斬撃は魔獣の皮膚にはじかれ、歯がみしたフロイドは敵の顔を蹴って距離を開けた。
魔獣は既に、上空に戻っている。
「速いし、硬いぞこいつは……!」
「もう一度です! 今度は目を狙う!」
この攻防は何度目か。やり方を変えて挑戦しているものの、未だにアルフェとフロイドは魔獣に対して有効打を与えられていない。
かみ合わない。近接戦が主体の二人にとって、この種の魔物は相性が最悪と言えた。
それでも、相手の力が彼らよりも劣るのであれば、何かやりようはあったはずだ。しかし今回は、むしろ相手の方が勝っているのだ。それも、はるかに。
――嗤ってやがる……!
向こうもそれを理解している。余裕の表情で飛び回る魔獣を見て、フロイドはこめかみに青筋を立てた。
アルフェの方はまだ冷静だ。彼女は状況を打開するために、頭を回転させてできることを探している。
現状、敵は上空を飛び回って、たまにじゃれかかるようにアルフェかフロイドに向かって突進してくる。他に攻撃方法を持たないのか、それとも持っていて使う必要を感じないのか、とにかく行動パターンは一定だ。
じゃれかかるようなその攻撃が、分厚い石壁をチーズのように削るものだとしても、相手がこちらを侮っていれば隙はある。
いつか、空を飛ぶ虫と戦った。狙うのはあの時と同じだ。突進をいなして相手のバランスを崩し、壁か地面に叩き付ける。
敵の圧力があの時とは桁違いでも、自分もあの時より強くなった。
――だから、できる。
両手を前に構えた彼女を見て、フロイドもアルフェが何かを仕掛けようとしていることを悟ったらしい。
――しかし、できるのか。
何を狙っているにしても、そんな小柄な体格で、あの巨大な魔獣を前にして。
アルフェの強さを身にしみて分かっているはずの彼でさえ、そう思わずにはいられない。
「――、――――!」
できるものならやってみろと、敵もまた思ったようだ。にんまりと微笑んだ魔獣は一際高く上昇し、勢いを付けてアルフェに落ちかかる。
――……できる。
――私ならできる。
――あの人の弟子の私なら!
秒もかからず、アルフェと敵の距離はゼロになった。
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