第80話

 フロイドが一日で調達してきた馬車は、とても質素なものだった。基本的に木製で、幌のない荷台は、どこかの農家ででも使っていたような年季の入った品物だ。


「急ぎで用意した上、金が足りなかったからな。これで勘弁してくれ。質はそう悪くないと思う」


 フロイドはそう弁明したが、アルフェは十分だと思った。荷台にはかなりの物が積めそうだし、車輪は鉄で頑丈に補強されている。これを使えば、移動の負担は大幅に減るだろう。


「その代わり、馬は一番良いのを選んだぞ。まさかあんなはした金で、これ程の馬が手に入るとは思わなかった」


 フロイドは、荷車に繋いだ黒毛の馬を満足そうな目で眺めて、その首筋を撫でている。その“はした金”を出資したアルフェとしては、そうですかとうなずくしか無かった。


「見ろよ、この引き締まった腿が――。それに、この毛並みが――」


 この馬の優れた部分を列挙するフロイドをよそに、アルフェは馬の大きな瞳を見つめた。馬は長いまつげをぱちくりとさせて、短くいなないた。馬の善し悪しを判別する知識はアルフェには無いから、フロイドの言っていることを信用するしかない。


「確認しますが、あなたは走らせることができるんですよね?」


 フロイドの言葉を途中で遮って、アルフェは尋ねた。背中にまたがるにしても御者台から操るにしても、それなりの技術が必要なはずだ。買ってからそれを聞くのは、いささか遅いかもしれないが。


「ああ、当然だ。俺を誰だと思ってる」

「知りません」

「俺はこれでも、昔はハノーゼスの親衛――」

「親衛?」

「あ、ああ……、いや」


 妙に上機嫌で、口数を多くしていたフロイドは、ようやく喋りすぎたことに気がついたようだ。ばつが悪そうに首を掻くと、アルフェから目をそらした。


「出発しましょう」

「……そうだな」


 乗ってみると、馬車での旅は徒歩よりはるかに楽だった。

 フロイドが御者席に座って手綱を握り、アルフェは荷台の荷物の上に腰を下ろしている。

 都市バルトムンク周辺は峡谷地帯であるが、今回の目的地までは、数百年前に作られた街道の跡が残っている。雑草が繁茂し、石畳はところどころ損壊しているものの、それほど揺れは感じない。

 それでもアルフェは、どちらかと言えば自分の脚で歩く旅の方が好きだったが、今はそういう好き嫌いを言う時ではない。重要なのは目的の達成であり、手段はそのためにある。


「どう! どう! よし行け!」


 きつい傾斜を乗り越える所でフロイドが声を発し、荷台がごとりと大きく揺れた。

 好き嫌いと言えば、男性は皆、馬が好きなのだろうか。移動の暇に飽かせて、アルフェはそんなどうでも良いことを考えた。

 このフロイドという、戦いにしか喜びを見いだせないような人間でさえ、馬を手に入れてから何だか興奮している。そう言えばテオドールとマキアス――、アルフェがベルダンで友人だった二人の騎士も、馬の世話を念入りにしていた。


 ――どうしてテオドールさんの馬は、私を振り落とそうとするんでしょうか。


 いつか彼らとした会話が、アルフェの頭の中に蘇った。


 ――それはな、お前がジュリオール……こいつに恨まれてるからだよ。馬は頭がいいんだ。されたことはちゃんと憶えてる。


 ――恨まれる? 私、何もしてません。言いがかりを付けないで下さい、マキアスさん。


 ――俺たちが初めて会った時、こいつの背中に変な粘っこいキノコやら、妙なもんを乗せたじゃないか。


 ――あ。


 ――“あ”、じゃねぇよ。ははは。


 テオドールとマキアス。久しぶりに思い出したその名前と顔を振り払うように、アルフェは首を振った。自分があの二人に会うことは、もう無い。


 それから一日がかりで峡谷の合間を抜けると、平地に出た。旧バルトムンク領は、全体がこのような峡谷に囲まれた、盆地状の地形になっている。その中央に、今回目指している廃都市と廃聖堂があるはずだ。

 途中、アルフェたちは何度か魔物の襲撃に遭った。鎧袖一触で蹴散らせるようなものばかりだったが、とにかく数が多い。やはりここは結界の外なのだと、彼らが改めて思い知るには十分だった。

 バルトムンクの結界が消えてから、七百年が経っているという。こんな所に、かつて人が生活を営んでいたとは信じられない。しかし、あちこちに残る朽ちた家々が、それが現実にあったことを知らせていた。


「あれじゃないのか?」


 町を出発してから三日目、フロイドに言われる前に、それはアルフェの目にも見えていた。


「ダルマキアの城壁……。あれが」


 そうつぶやいたアルフェの衣服は、道中で倒してきた魔物の返り血で、あちらこちらが黒く汚れている。フロイドもそれと似たようなものだ。


 ダルマキア、それが旧バルトムンクの中枢都市の名前である。

 歴史学者ゲートルードによると、ダルマキアを囲む城壁は、古代の遺構を利用して築かれたものらしい。現代の建築とは異なる、独特の様式を持つ壁が、ほとんどツタに覆われてしまっているのが見える。


「……こんな所に、本当にあんたの望みのものが有るのか?」

「……」


 フロイドには、自分がどうしてここに来たのかを、詳しくは教えていない。この男にはただ、聖堂跡を目指すとだけ伝えてある。


「まあ、俺はあんたの命令に従うが……。馬車はどこに止める?」


 市門は閉ざされていて、これもツタに覆われている。ここからは、馬車での移動は難しそうだ。どこか侵入できるところを探すしかないだろう。


「彼を残していったら、魔物に襲われます。野営地を作って、荷台だけ置いて行きましょう」

「彼?」

「馬です」

「……なるほど。“彼”ね。了解」


 それからアルフェたちは、市壁の外側にあった小さな家に荷物を運び入れ、拠点にした。隣に馬小屋のようなものがあったから、かつては宿か、衛兵の詰め所などに利用されていた建物なのかもしれない。

 最低限の食料と探索用の道具などを馬の背に乗せると、二人は朽ちた城壁の隙間から廃都市の市街へと侵入した。


「大きいな……。ウルムよりも、大きいかもしれん」


 ほとんど森と一体になってしまった都市の様子を見て、フロイドはエアハルトの中枢都市の名前を出した。


「で、聖堂の位置は分かっているのか?」

「あの歴史学者は、都市は聖堂を中心に取り囲むように設計されているはずだと言っていました。中央を目指します」

「……あの爺は、どうやってそこまで調べたんだ? まあしかし、それしかないのか。それが外れれば、手当たり次第……だな」


 アルフェは小さくうなずいて歩き出した。馬のくつわを取ったフロイドが、それに従う。彼らは民家の間を抜けて、まずは大通りらしい広い道へと出た。

 都市は森と一体になっていると言ったが、木々はそれほど密生していない。アルフェたちが立っている通りからは、かなり遠くまでが見渡せた。この道は門から真っ直ぐ、おそらくは都市の中央部に向かって伸びていると思われた。


 通りの左右の建物は、経年劣化により多くが崩れている。七百年前というと、帝国が形作られた初期の話なのだからそれも無理からぬことだろう。かつては漆喰の白壁が並んでいたはずの道には、落ち葉が幾層にも積み重なっていた。

 堕落し、神の恩寵を失った都市。捨てられ、人々の記憶から忘れ去られた街。そこが今は、自然の作り出した静謐に包まれている。


「魔物の気配が、しないな」


 しばらく歩くと、フロイドがつぶやいた。


「そうですね。マナは濃いのですが」

「やはり、腐ってもここは結界の中心だ。まだ力が残っているのか?」

「……どうでしょうか」


 フロイドの言う通り、ここにはあまり魔物の気配を感じない。

 もっともそれは、警戒を緩める理由にはならない。この魔力の濃密さは、人間の代わりに魔物が繁栄するには十分なものだ。それに城壁の外側までは、当たり前のように魔物が襲ってきたのだ。敵は今も、息を潜めて自分たちの様子をうかがっている。そう考えるべきだ。臨戦態勢を維持したまま、二人は廃都市の中央部を目指した。


 都市の中央に近づくにつれて、二人は言葉少なになっていく。彼らが足を止めたのは、ほとんど同時だった。


「……なるほど、雑魚の気配がしない訳だ。この先に何か居るぞ」

「かなり……、いえ、相当強力な魔獣です。縄張りだったようですね」


 前方を見据えたまま、低い声で喋る二人の額には、わずかに汗が浮いている。馬が何かを嫌がるように、身をよじった。


「あそこに見えるのが、例の聖堂だな? ……どうやら、その辺りらしいが」


 二人がいる位置から数百歩の距離には、半壊した教会のような建物が見える。崩れてもなお荘厳さを失っていないその建造物が、この街の大聖堂であるということは、遠目からも理解できた。

 ただし、そこに何かが居る。気配から察するに、道中の魔物やこの前戦ったトロルとは、比較にもならない。

 この二人で勝てるかどうか。いやむしろ、戦って、生き残れるかどうか。フロイドが思わず、そう考えてしまうほどに。

 それでも行くつもりかと尋ねるように、彼は横に立つアルフェの横顔を流し見た。


「行きましょう」


 アルフェの額に、汗はもう見えない。相手が何であれ、引き返すという選択肢は持たない。傲岸不遜とも言える態度で歩み出す少女の背中に、男は、それでこそだとつぶやいた。

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