第79話

 やたらつばの広い、黒いとんがり帽子。同じく黒の、これでもかと身体の線を強調した、露出の多いドレス。


「……ネレイア・ククリアータ」

「こんばんは。……ネルって呼んでくれる約束じゃなかったかしら。アルフェちゃん」

「……」


 ネレイア・ククリアータ、それがこの女の名前だ。淡い紫がかった瞳が、とんがり帽子の下からいたずらっぽくアルフェを見つめている。アルフェの方は、ネレイアの問いかけに何も答えず、椅子に座った魔女を見下ろしていた。


「そんな約束はしとらんとさ」


 フロイドが、肩をすくめつつそう言った。


「ああ、フロイド。あなたも、こんばんは」


 ここまでのやり取りからも分かる通り、アルフェたちとネレイアは面識がある。この町を拠点に活動している有力な冒険者同士、依頼でかち合うことが既に何度かあったのだ。

 「水の魔女」の異名通り、この女は水にまつわる魔術を専門に扱う。その精度は有力諸侯に抱えられている上級魔術士にも勝るとも劣らない。おそらく、現在バルトムンクにいる幾百の冒険者の中でも、一、二を争う実力の持ち主だろう。


「フロイド、お姫様をこんないかがわしい所に連れてきたらダメでしょう?」


 そう言ってグラスを傾けたネレイアの両手首には、魔術を補佐するためのブレスレット状の魔術具が装着されている。そこにはめ込まれた薄青の宝玉が、水面のように揺らめく光を放っていた。


「ふん」


 連れられてきたのは俺の方だと言いたげに、フロイドは鼻を鳴らした。


「こんばんは」


 アルフェがぼそりとつぶやいた。その短い台詞を言い終わるか終わらないうち、彼女はもう歩き出している。


「あら、相変わらずつれないわね。……じゃあ、フロイドだけでも、寂しい私の相手をしてくれない?」

「俺は――」

「置いていきますので、どうぞご自由に」

「おい」


 この魔女は悪人ではない。仕事で関わる分には信用できる方だが、逆に馴れ馴れし過ぎるので面倒だ。相手をすると長くなると判断したアルフェは、雇われの男を身代わりにすることに決めた。帰り道くらいは、夕闇に紛れて気配を消して歩けばいい。


「ふふふ。本当にいいの……? 私が朝まで借りちゃっても。コレは、あなたのモノじゃないの?」


 この町の多くの冒険者と違い、ネレイアは、アルフェとフロイドのどちらが主で、どちらが従か知っている。爪の整えられた中指で、紅い下唇を押さえながら、魔女はまた妖しく微笑んだ。


「人を物扱いするな」


 フロイドは憤っているが、別に構わない。アルフェはそう思った。


「ええ、朝まででも昼まででも、好きにお使い下さい」

「え……?」

「……」


 しかしアルフェの返答を聞くと、ネレイアは意表を突かれた声を出し、フロイドは微妙な顔で黙り込んだ。


「……何か?」


 その視線と沈黙の意味が分からず、アルフェは彼らを交互に見て訝しんだ。


「……じゃあ、この男は私が朝まで“使う”わよ? いいの?」

「構いません。お酒でも何でも、好きに飲ませて下さい」

「え……?」

「……」


 アルフェとネレイアの会話はどこかかみ合っていない。フロイドは変わらず沈黙している。ネレイアはちょいちょいとフロイドを手招きすると、小声で耳打ちした。


「不思議だわ。分かってないのかしら」

「俺に聞くな」

「……? だから何ですか。何かあるなら、はっきり言って下さい」

「え? そ、それはね。……本当に分からないの? ……言っていいのかしら。あのね、私が言いたかったのは、“使う”っていうのが、もっと別の――」

「もういい、黙れ魔女」


 なぜか少しうろたえているネレイアと、彼女の言葉を押しとどめたフロイド。それを見て、アルフェは訳も分からず瞬いた。


「じゃ、仰せの通りにしようか。俺はこいつと飲んでいく。まあ、飲むだけだ。あんたは一人で戻るんだろ?」

「え、ええ」

「先のことは、明日いつもの場所で打ち合わせるってことでいいな」

「はい」

「またね、アルフェちゃん」


 ネレイアがひらひらと両手を振る。アルフェは何か釈然としない流れを感じたものの、特に問題は無いと考えたので、二人を置いてその場を立ち去った。


「あなたの教育が足りてないんじゃない?」

「斬るぞ」


 離れながら、ついでに後ろからそんな会話が聞こえたが、その意味もアルフェにはよく分からなかった。


 ――バルトムンクの失われた結界に、放棄された聖堂……。


 少し歩くと、ネレイアに会ったことはアルフェの頭の中から消えた。彼女の頭の中に再び持ち上がったのは、その前に歴史学者ゲートルードと話した内容だ。


 七百年前、八大諸侯の一つとして強勢を誇っていたバルトムンクは、突如として衰退を始めた。その原因は、バルトムンク領を覆っていた結界の消失だ。

 不思議なことに、事件の重大さの割には、このできごとに関する詳しい史料はほとんど残っていない。しかし、結界が消失したことと、それに伴う魔物の大量発生。その後に起こった難民の大移動と、領土を巡る戦争。それらが帝国全土に相当の混乱をもたらしたということは、紛れもない事実なのだ。これらの事を、ゲートルードは喜々として語っていた。


 バルトムンクの結界は、どうして失われてしまったのか。

 アルフェが投げかけた根本的な問いに対して、ゲートルードは次のように答えた。


 ――私も、それが知りたいのです。


 繁栄によって傲慢になり、堕落したバルトムンクが、神の恩寵を失った。教会の文書はそう記録している。信仰によってしか、人類はこの世界において生きる場所を維持できないのだと。

 しかし、本当にそうなのか。実際には何か、別の原因があったのではないか。繰り返し自問する老学者の瞳には、アルフェたちの姿は映っていなかった。


 アルフェはゲートルードほどには、歴史的真実に関心を持てない。

 ただ、バルトムンクの結界が消失した原因というのは気になる。“あの男”が結界の秘蹟を求めているなら、そこに何か、手がかりになるものがあるかもしれない。

 結界を管理している教会は、結界に関わる儀式の全てを民衆から秘匿している。しかもシンゼイたちの口ぶりから考えると、大聖堂の主教ほどの地位にある者ですら、その内容を完全には把握していないようだった。

 聖俗にまたがる強い権力を持ち、神殿騎士団という巨大な戦力を保持している教会。その中枢に接触して、“あの男”の狙いを調べる伝手などアルフェにはない。だから彼女は、まずこういう形で結界に関する調査を行っているのだ。


 必要な物をそろえたら、すぐにでも出発しよう。そう決めてうつむき加減にしていた顔を上げたアルフェの耳に、通りの左右にある酒場から、酔客とその相手をする女たちの嬌声が聞こえてきた。


 ――皆、お酒が好きですね。


 アルフェは呆れるというよりも、不可解だという感想を抱いた。

 さっきのネレイアは会う度に酒を飲んでいる気がするし、フロイドもアルフェと離れて行動している時は、飲んでいるようだ。たまに酒の匂いがする。エアハルトでは、傭兵隊長のリグスも、いつも飲んでいた。


「……楽しいのかな」


 自分も酒が飲めたら、晴れやかな気分になれるのだろうか。

 そんな事を考えながら、アルフェは橋を渡って宿に戻った。



 そんな事があった日の翌朝、早速アルフェはバルトムンクの廃聖堂に向かうための準備を始めた。


「長旅になります。そのつもりで準備して下さい」

「分かった……」


 打ち合わせ場所に使っている空き家に現れたフロイドは、青白い顔をしていた。明け方までネレイアに引き回されていたらしい。彼は時たま眉をしかめてこめかみを押さえながら、アルフェの指示を聞いている。


「峡谷を抜けてから、森の中を歩くということになるでしょうが……、古代の街道跡も残っているそうです。それほど移動には不自由しないでしょう」


 歩いて三日か四日くらいで済むだろうか。アルフェがそう言うと、フロイドが口を挟んだ。


「なあ、それなんだが、馬を仕立てるのはどうだ」

「馬?」

「前から言おうと思ってた。一々歩きで何日も移動するのは馬鹿らしいだろう。馬を使えば、旅程をかなり縮められる」

「そういう事ですか」


 フロイドの提案には一理ある。馬は旅人の最大の友だ。広大な帝国領土を、商人は当たり前のように馬で移動するし、冒険者が個人で馬を所有しているケースも多い。ここまで徒歩での旅を貫いてきたアルフェだが、歩くのが嫌いではないというだけで、そこに大きなこだわりがあったわけでもない。

 だが――


「……馬は、高価なのでは?」

「それが気にならんくらいには稼いでるだろうが」

「ん……」


 確かにそうである。今のアルフェは、冒険者として、かなり高収入の部類である。テントや背嚢など、旅回りの品をいくつか魔術的な品に換えることができるくらいには。これらの道具は、駆け出しの頃は指をくわえて見ているだけだった。

 しかしどうしてもまず出費のことが気に掛かってしまうのは、その時期の貧乏生活が、アルフェの中で尾を引いているからだろうか。

 だが今は、金より時間の方が大切だ。多少の出費を気にして、重要な機会を逃す方が大問題である。


「分かりました。……でも」

「でも?」


 費用面はそれで解決したものの、アルフェが気になっていることがもう一つ。


「……私は、馬に乗れません」


 彼女はかつて、騎士のテオドールが所有していた白馬に乗せてもらおうとして、振り落とされたことがある。それ以来、馬に乗ってみようとは考えたことが無かった。


「なるほど。じゃあ、馬車ならいいだろう。俺が手綱を握る」

「あ、それなら……」


 馬車はもっと金がかかるだろうかという思いを打ち消して、アルフェはうなずいた。

 それから彼らが馬車の用意やそれ以外の打ち合わせを済ませ、解散しようかという頃合いに、フロイドが別の話題を切り出した。


「そうだアルフェ、一応伝えておきたいんだが」

「何ですか」

「あの魔女は、俺たちに頼みたいことがあるみたいだ」

「頼みたいこと?」


 何かと思えば、それは昨日会った“水の魔女”、ネレイア・ククリアータの話題だった。


「ぼかして言ってたから、詳しいことは知らん。だが、あいつはどうも、俺たち――いや、あんたに倒して欲しい魔物がいるらしい」

「魔物……? あの方が、自分で手を下せば良いのでは?」

「俺もそう言った。何せあいつは魔女だからな。だが、できない事情があるんだと。まあ、あの口ぶりなら、本当に頼むときは直接あんたに伝えに来るだろうさ」

「……? よく分かりませんが……、一応は聞きました。でも、今はこちらが最優先です」

「もちろんだ。承知している」


 ネレイアがアルフェに何を頼みたいのかは知らない。しかしアルフェにとっては、自分の目的の方が優先される。フロイドに馬車の支度金を与えて、アルフェは彼と別れた。

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