第71話
ウルムにある大聖堂の一室。そこはこの大聖堂を預かる、主教の寝室である。
天蓋付の寝台を始めとするきらびやかな内装は、質素倹約を旨とすべき聖職者には似合わない。その部屋で今、一人の神殿騎士が長剣を片手に、床に横たわる死体を見下ろしていた。
その死体は、主教の――いや、主教だったものの残骸だ。
「た、隊長。それ、どうして――。どうなって――」
部屋にはもう一人の神殿騎士の姿があった。装束からして、正式の騎士ではないようだ。それに何より、その騎士の声は、女のものだった。
「……ふー。――落ち着け、こいつはもう動かない」
「ほ、本当ですか? な、何で、何で主教様がアンデッドなんかに……」
一筋の白煙を残して、主教の残骸は崩れ去っていく。信じられないことに、このウルム大聖堂の主教は、ワイトとも呼ばれる強力なアンデッドと化していた。それを今、この神殿騎士が滅したのだ。
「この感じ……、昨日今日じゃないぞ、こいつが死んだのは。主教がアンデッドになったなんて、民に知られたらえらいことになる」
「ど、どうするんですか?」
「……この部屋は浄化して封印だ。主立った教会職員は拘束、尋問しろ。事情を聞き出せ。……それ以上は俺達にはどうにもならない。帝都に使いを出して、指示を仰いでおけ。当然、兵とここの奴らに口止め――は、無駄だよな……。くそッ!」
彼の見立てでは、主教が不死者と化したのは、少なくとも数ヶ月は前のことだった。どうしてこの大聖堂の教会関係者たちは、そんなに長い間、自分の上司がアンデッドに成り果てていたことに気づかなかったのだろうか。
重い病気と聞いていた主教の部屋に入った瞬間、騎士にはここがアンデッドの住処と化していることが分かった。それほど禍々しい魔力が、この部屋には満ち溢れていたのだ。
「ただでさえ、教会の立場が不安定だって時に――」
先日、このエアハルト領では領邦を揺るがす一大事があった。新しい伯の弟が、地方領主の一人によって殺されたのだ。辺境近くで軍事演習を行っていたその弟を、地方領主の軍勢が襲撃。居合わせた傭兵なども巻き込んで、大規模な戦闘となった。数千の人間がいたはずなのに、そこから帰ってきた者が数えるほどしかいないという惨劇になったから驚きだ。
そして教会が頭を抱えたのは、そこに大聖堂の助祭長らが関係していたという事実である。
いや、それが本当に事実かどうかは、実のところ分からなかった。何しろ証言者がいないのだ。しかし少なくとも、新しい伯はその証拠を見つけ出してきて、地方領主と教会を対象とした、領内の大規模な粛清を行っている。これからこの領における教会の地位は、危ういものになっていくに違いない。
「そ、それが済んだら私たちも帝都に戻れますか?」
「戻れる訳ないだろうが。俺たちには任務があるんだぞ」
「そんなぁ」
女が情けない声を出した。
彼らが受けた任務とは、この大聖堂の査察である。ここに籍を置くシンゼイという助祭長が、帝都の大聖堂から“あるもの”を盗み出した。それを追ってこの町に到着した矢先の、この出来事である。
どうせ欲に目がくらんだ助祭長が、金になりそうな宝物か何かをくすねたのだろう。彼はこの部屋に足を踏み入れて、主教の成り果てた姿を見るまで、その程度に考えていた。
この神殿騎士に言わせれば、この任務は体のいい厄介払いのはずであった。査察隊という仰々しい名前はついているものの、練度も士気も低い、ごくささやかな部隊の小隊長。何かと目障りな自分を、帝都から引き離すための方便に過ぎない。大方自分の直接の上役あたりが思いついた案だろう。彼らはいつも、そういう婉曲な手を使う。
――何を盗まれたかも教えられないで……、それで物探しができるかよ。
そう、何しろ助祭長が盗んだものが何だったのか、それすら出立する彼には教えられなかったのだ。それでも、ケチな任務には違いあるまい。そう思っていたのだが――
「だがこれは、俺たちだけの手に負える問題じゃない……」
神殿騎士の最上位、パラディンの誰かが出張ってきてもおかしくない一大事だ。
帝都への急使を手配したあと、彼は部下たちに、大聖堂の教会職員の尋問を指示した。事があまりに大きくて、新任の小隊長にはこのくらいしかできることがない。使いが帝都に届けば、きっと応援の部隊の二、三個は即座によこしてくれるだろう。
「はぁー……」
こそ泥を捕まえに来ただけだったはずなのに、思わぬ事態になってしまった。アンデッドに遭うのは久しぶりだ。しかもあの時と違って、悩ましい要素が多すぎる。彼はバルコニーに出て、空を見上げて一息ついた。
もうすぐ秋だ。うだるような暑さも過ぎ、吹く風が肌に心地いい。流れる雲を眺めながら、ぱちりと、腰に付けたナイフの鞘の留め金を外す。それを手でもてあそびながら、彼は今後の方針について考えた。
「隊長、何してるんです」
「……ん? 別にいいだろ。休憩だよ」
「へへへ、じゃあ、私もお供しますよ」
部下の女が、彼の横に寄ってきた。この女は、彼の副官ということになるのだろうか。女を、しかも、正式な騎士でない者を副官につける。これも、上役たちの婉曲な手の一つなのかもしれない。
「“へへへ”じゃねぇよ……。……なあ、お前はどう思う?」
「何がです?」
「あの不死者さ」
「めっちゃ怖かったですよね! それに、隊長があんな強いなんて思いませんでした!」
「緊張感ねぇなぁ……」
「剣でバシュッって! 光がワッて! ……あんなの訓練所で習いましたっけ?」
「独学だよ、独学」
「へー、仕事熱心なんですね」
「……違う。強くなりたかったんだ。――って、何言わせてんだ。話を逸らすなよ」
「え?」
「あのなぁ……」
副官の脳天気に調子を狂わされながらも、彼は話題を元に戻した。
「主教がアンデッドになるなんて……。しかもここは、教会の中だぜ?」
結界のど真ん中だと彼は言った。ここは、魔物とは最も縁遠い場所のはずなのだ。
「うーん、そうですねー」
副官の髪は、女にしては短く切りそろえられている。男所帯の騎士団にあって侮られないようにという意図らしいが、それがかえって、彼女を幼く見せていた。腕を組んで唸るその姿は、どうにも締まらない。
「――あ! そうだ! 小耳にはさんだんですけど、ここ以外でもこの町で、アンデッドが出た場所があるらしいですよ」
「――何? 本当か?」
「ええ。あそこの大通りに劇場があったじゃないですか」
「ああ、あのバカでっかい」
「あの劇場は凄いんですよ! なんと五階建てなんです。そう言えば見ました? この町って街灯があって――」
「話を元に戻せ」
「そこに幽霊が出たって、みんな噂してます」
「幽霊だと? マジか……? 大体どっから聞いてきたんだ、そんな噂」
「露店のオバちゃんが言ってました」
「任務中に買い食いなんかするなよ……」
部下の奔放さに、神殿騎士はため息をついた。が、しかしそれは有力な情報だ。結界の中にアンデッドが出るなど、通常はありえない。しかもそれが二度となると、この領邦の結界に何かが起こっているとも考えられた。
その劇場を調べてみるべきだろうか。だが、それは難しそうだ。彼に与えられている権限は、あくまで教会の査察権、それも非常に弱いものだけである。
「……隊長、それ、いっつもやってますよね」
「あ?」
「それです」
「ああ……、これか?」
騎士の手には、ナイフの鞘が握られている。
考えごとをする時、彼は自然とその鞘に手を伸ばしている。
「癖なんだよ」
「ナイフですか? 見せてくださいよ」
「……別に構わないが――」
壊すなよと言って、彼は副官にその鞘を手渡した。鞘からナイフを引き抜いた彼女は、不思議そうな顔でその刀身を見ている。
「何これ。変なナイフですね」
「魔物から作ったそうだ。ソードスパイダーの脚だってさ」
「え? 虫? ……キモ」
「聞こえてるぞ。――もう返せ」
「作った“そうだ”って、隊長が倒した魔物じゃないんですか?」
副官はナイフを彼に返さず、その青みがかった刀身を太陽にかざしている。
強力な魔物を倒した時のトロフィーとして、その一部を武具にすることはたまにある話だった。そうだろうと思って、彼女は上官に聞いたのだ。
「……知り合いが、倒した魔物だ。そいつが残したものだよ」
「……あ。すみません……」
「ん? 違う、形見とかじゃない。そんな顔するな」
「そうなんですか……?」
「ああ。……そいつはな、俺の――友達だったんだが」
「隊長、友達いないじゃないですか」
副官の頭に拳骨を食らわせて、彼は続けた。
「いなくなったんだ、急に。……どうしてかは知らないが」
そこで言葉を切った彼の様子を見て、副官はまた神妙な表情になっている。それに気づいた神殿騎士は、気にするなと言って、寄りかかっていたバルコニーの手すりから背中を離した。
「この話はもういいだろ。それより、俺は別件でこの町に用があるんだ。ここをお前に任せていいか?」
「え、だめですよ。私、全然役に立たないですもん」
「その自信はどうなんだ……?」
「用って、何なんですか?」
「個人的な事情だ。――ついてくるなよ?」
そう言って、神殿騎士は部下たちを残し、大聖堂を出て町に向かった。
町並みは整っていて、治安の良さを感じさせる。副官の言っていた通り、帝都くらいでしか見かけない街灯もあって、裕福だということもよく分かる。ただ、どことなく活気がなかった。
この領邦ではつい先日、先代のエアハルト伯が病没し、嫡子のユリアンが新しい伯に就いた。しかし例の事件のこともあって、都市の中はまだ自粛ムードにあるようだ。就任に伴う華々しい式典などは、先送りにされていると聞いた。
「ついてくるなって言っただろうが」
「私、隊長の副官ですから」
念を押したのに、神殿騎士の一歩後ろを副官の女が歩いていた。
彼が町に降りてきた理由は、ごくごく私的な事情に基づくものだ。任務にかこつけてそんなことをしている自分というのは、あまり部下に見られたいものではなかった。
しかし、この女は言って聞くような性格をしていない。
「……どうしてもって言うならついてこい。だが、絶対に他言するなよ」
「恥ずかしいところでも行くんですか?」
「……そんなもんだ」
「え、マジですか?」
不慣れな土地で、二人は少し遠回りをしてしまったが、数刻後には目的の場所についていた。
「……なんですかここ。……治癒院?」
隊長は病気なんですかと聞いてくる副官を放って、彼は治癒院の扉をくぐった。下町の治癒院。しかし彼が会いに来た人間がここにいるということは、通行人に聞けばすぐに分かった。
「探したぞ、ステラ」
果たしてその人物は、治癒院の扉の先に居た。焦げ茶の自分の髪とはあまり似ていない、亜麻色の髪をした少女。
「お兄ちゃん……」
「え、お兄さん? 隊長が? ――てことは、この子があの?」
「ステラ、無事だったんだな」
彼はこの都市に、自分の妹がいるという噂を聞きつけてきたのだ。治癒術を身に着け、その修行だと言って家を飛び出してしまった妹。世間知らずで考えなしだが、治癒術の腕だけは確かな彼女は、どこにいても噂になる。
「私を連れ戻しに来たの?」
「……そうだ。当たり前だろうが。俺がいない間に家出なんて――、それも、こんな所まで一人で。盗賊にでも襲われたらどうするつもりだったんだ?」
「そんな怖い顔したってだめだよ。私、自分の治癒術を困ってる人のために使いたいの。教会で修行ばっかりしてたって――。あそこの人たちは、結局みんなお金儲けしか考えてないじゃない!」
「俺がどんだけ心配したと思ってんだ!」
そこから始まった兄妹げんかを、副官はあわあわと眺めていた。
「ま、待ってください、お二人とも。ここは治癒院なんですから、静かにしないと――」
「……そうだな。お前の言う通りだ。ステラ、お前も大人しく――」
「私は帰らないから」
「この――!」
ステラの鼻息は、まだ荒い。また頭に血が上りそうになる兄を前に、頬を膨らませて憤っている。その様子を見て、兄の方は逆に少し冷静になったようだ。
「……ふぅ。……ステラ、本当に皆心配したんだ。お前が本当に困ってる人の力になりたいってのは分かったよ。でも、一回帝都に帰ろう」
「……」
「帝国内を回るって言っても、お前ひとりじゃ魔物とも戦えない。今まで無事だったのは、運が良かっただけだ」
「……でも」
「お前みたいな女の子が、一人で旅をするなんて、そんなこと普通じゃありえない。もしお前が怪我でもしてみろ。そしたら、俺は自分を許せない。死んだ父さんや母さんにだって、どう言い訳すればいい。……な?」
「……うん」
兄が本心から心配していることが伝わったのか、ステラは徐々にしおらしくなっていった。それでも彼女は年ごろの娘らしく、何とか兄に反論しようと口を開いた。
「……でも、女の子一人でも、アルフェちゃんみたいに――」
「………………何?」
「え?」
「隊長?」
妹が口にしたその名前を聞いて、彼の表情がにわかに厳しくなった。彼のあまりの変わりように、ステラと副官は、二人とも大きくうろたえた。
「お前、なんて言った」
「え? え、アルフェちゃんっていう子が、冒険者をしてて、その子も一人で、旅をしてたから――」
兄の剣幕にたじろいだステラは、この町で友人になった少女のことを、自分たちに鮮烈な印象を植え付けて、そして突然消えてしまった少女のことを、たどたどしく説明し始めた。兄はなぜか、その話を黙って、非常に真剣に聞いている。
「……それで、その娘は、それからどうなったんだ?」
「……分かんない。リーフ君……、別の友達は、この町から“いなくなった”って――」
「……」
最後の方は、ステラは少し涙声になっていた。ステラが語り終えた後も、神殿騎士は、まだ何かを考え込んでいる。
「いなく、なった……」
「――? お兄ちゃん?」
「……そのリーフって奴はどこに住んでる」
「え……、こ、工房区の――」
どうして兄はそんなことを聞くのだろうか。理由が分からないまま、ステラはその質問に答えた。
「……」
「お兄、ちゃん?」
「――カタリナ」
「はッ、はいッ!」
彼は副官の名を呼んだ。直立した彼女に、彼は命令を下す。
「緊急事態だ。隊の指揮権をお前に渡す。大聖堂の教会職員の尋問が済み、応援に引き継ぎ次第、お前は兵を連れて、帝都に戻れ」
「了解しました! ……は? え、えっと、じゃあ隊長は?」
「俺は単独で任務を継続する。アルフェというその娘が、何かを知ってるはずだ。俺は、そいつを追う」
「へ? ど、どうしてそうなるんですか? ちょ、隊長?」
「お兄ちゃん? 何言ってるの……?」
「ステラはお前たちが連れて帰れ。首に縄をつけても、絶対家に帰すんだ!」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん! マキアスお兄ちゃん!」
騒ぐ副官と妹を置いて、彼は治癒院を足早に出ていく。
神殿騎士団教会査察隊隊長、聖騎士マキアス・サンドライト。彼の片手には、例のナイフを収めた鞘が、しっかりと握られていた。
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