第69話
――負けた。
アルフェの一撃で、全身の血液が逆流したような衝撃が走った。
――俺は、負けたんだな。
剣折れ力尽き、今、敵の手が己の首にかかっている。敗北というなら、これ以上完璧な敗北は無いだろう。
自分より、はるか年下の少女に負ける。正直なところ、屈辱だ。悔しさもある。しかし今のフロイドは、素直に自分の敗北を認められた。
「…………は……ははッ……」
フロイドは、少女の目を見て笑った。
これからこの娘は、フロイドの命を奪う。だが、それでいい。フロイドに抵抗する気は無い。むしろ彼は、それを望んですらいる。
負ければ死ぬ。今まで何人も斬ってきたフロイドにとって、それは当然の理だ。負けても生きている。それは、負け犬と言うのだ。
そしてここにいる男、他ならぬフロイド自身こそ、負け犬だった。
何年も前、フロイドはつまらない理由で近衛兵を辞めて、故郷の領邦を飛び出した。
しかしその時は、自分にはまだ、剣の腕があると思えた。その腕を頼みに、彼は諸領を放浪した。今のように裏の稼業に手を汚すようになってからも、まだ自分には、剣が残っていると思えた。
そう思えなくなったのは、この領邦に来て、今の飼い主に出会ってしまったからだ。
ユリアン・エアハルトは、彼より遙かに強かった。どうあがいても届かないと感じさせるほどに。戦いを挑む気にもなれず、フロイドはあの男の前に膝を屈した。その時、フロイドの心の中の剣は、一度折れたのだ。
そして、折れたものは戻らない。戻らない以上、フロイドはあの男の下で、ゆっくりと腐っていくしかない。そう思っていたのに――
「は、はははッ……、がッ――」
苦しい、だが、笑みがこぼれる。フロイドの首を締め上げる相手の腕にも、余力はほとんど残っていない。そのために、自分の苦しみは長引いていると言えるが、それでもフロイドは満足していた。精魂尽き果て、年端もいかぬ少女に、首をつり上げられていたとしてもだ。
――今度は、戦って、死ぬ。だから、俺は負け犬じゃない。
全力を尽くして戦った。剣は折られたが、心の剣は折れていない。戦わずして折れた、あの時とは違う。
「――!? ――ぐほッ!」
しかし、満足して息を引き取ろうとしていたフロイドの首から、少女の手が離れた。支えを失ったフロイドの体が、うつ伏せの状態で地面に落ちる。
――なぜだ……? ……アンデッドに、食わせようってのか?
相手は自分の手を汚すのを、嫌ったのかもしれない。確かにアルフェがわざわざ手を下さなくとも、周囲にいるアンデッドたちが自分を殺すだろう。だが、まあいい。それもまた、勝者の権利だ。
フロイドはばらばらになりそうな痛みをこらえて、わずかに上半身を起こす。それは最期に、自分に勝った少女の顔を、もう一度だけ見ておきたいと思ったからかもしれない。
――……なんだ?
アルフェは立ち尽くしたまま、彼とは別の方向を見つめている。その方向にあるものに、彼女は完全に心を奪われているようだ。わずかに開いた赤い唇が、わなわなと震えている。
――声? ……会話?
そして、正常な呼吸を取り戻したフロイドの目と耳にも、アルフェの心を捉えているものが見えてきた。
「――これで、全員死んだのかな」
「……おそらく」
男と女だ。一組の男女が、この地獄の中を、何気ない調子で会話しながら歩いている。
「……生きている人間の気配は、ありません」
「そうか」
「……」
「これ程大規模な術の行使は初めてだろう。どうだ、メルヴィナ」
「……はい、問題ありません」
戦闘でできた死体の山が、あちらからこちらへの視線を遮っているのだろうか。二人はフロイドたちに気付く様子は無く、“散策”を続けている。
「……よろしかったのですか?」
「何がだ」
「……王命に、背くことになるのでは」
「――ああ、そんなことか。……ここにいた多少の人間が消えても、特に大きな問題にはならない。ただ、元々要らない者たちが、荒野に消えたというだけだ。ユリアンとかいうここの領主も、それほど気にするまいよ」
「……」
「それよりも、これだけ大規模な実験ができたということが、重要ではないかな」
アンデッドは、至近距離を歩く二人を襲おうとしない。いや、気付けばいつの間にか、フロイドたちの近くにいるアンデッドも含めて、皆動きを止めている。
「……では、もうお戻りに」
「何を、そんなに急かせる」
「……」
あれは誰だ。あいつらは一体、何を話しているのだろう。王命とは、実験とは何だ。あいつらが、この状況を作り出したのか。フロイドには意味が分からなかった。
「……お身体に障ります。……以前の傷が、まだ癒えておられません」
「ふん、白々しいことを」
分かることはただ一つ。あそこにいるのは、桁外れの化け物だ。
女の方も得体の知れない、底の見えない雰囲気をまとっている。だが男の方は、それとは比べものにならない。
魔術士だろうか。……強い。ひょっとしたら、ユリアン・エアハルトすらもしのぐほどに。フロイドとは力がかけ離れ過ぎていて、それ位のことしか読み取れない。
怖い。そんな感情が、フロイドの内からわき上がってきた。ユリアンの前に膝を折ったときと同じか、それ以上の感覚だ。生物である以上どうしようもない、生理的な恐怖心が鎌首をもたげる。
――俺は、俺は……。
この恐怖と体の震え。強がってみても、やはり自分は負け犬なのだろうか。あの男たちの正体を詮索する前に、フロイドはそれを思った。
――アルフェは――?
そして、アルフェはどうなのだろう。自分を破った少女は、あのような絶対的な恐怖を前にしたとき、どんな表情をするのか。
「あ……」
フロイドは息をのみ、心を奪われた。
彼の視界には、何が映っていたのか。
フロイドが見上げた先、そこにあるアルフェの横顔は喜びに満ちあふれ、今までフロイドが知っていた、どんなものよりも美しかった。
◇
――あの男だ。
間違いない。一言声を聞いただけで、アルフェにはそれが分かった。そしてそれきり、それ以外のものは見えなくなった。
――あの男がいる。
胸が狂おしいほどに高鳴る。心臓が暴れて、口から飛び出しそうだ。腕の痛みも、腹に刺さった剣も気にならない。
焦がれていた、アルフェがずっと探していた人間が、今、あそこにいる。それは決して、幻ではなかった。
「まあいい。……クラウスから連絡があった。他の“遺物”を見つけたそうだ。ここのものよりも、幾らか期待が持てる」
メルヴィナと話しているあの男の顔。今度ははっきりと見える。
一年前、アルフェの最も大切な人を殺した男。
飛び出していきたい。飛び出して、あの顔を引き裂いてやりたい。
しかし、出れば死ぬ。一年前よりも、アルフェには相手の強さがよく理解できた。
「……では、私は先に行くとしよう。お前はここの、後始末をしておけ」
あの男が、陰の中に去っていく。それを今は、見送らなければならない。そのことがたまらなく悔しく、辛い。この胸を、掻きむしりたいほどに。
――憎い。
――お前が、憎い。
――今すぐ、殺してやりたい。
――お前のせいで、あの人は――。
様々な思考と感情が、アルフェの中に渦巻く。
しかし今、彼女が一番強く感じているのは他ならぬ――
「喜び」だった。
この一年、あの男について、何の手がかりも得られずにいた。
その中で、アルフェが一番恐れていたことがある。それは彼女が、自分の中にあるあの男への憎しみを、忘れてしまうことだった。
それを忘れることは、即ち、あの人を忘れてしまうこと。
ステラに、リーフに、リグスに、クルツに。色々な人と会い、共に過ごす中で、自分の中に、これほどのものがあったのかと思えるほど、彼女の中で色々な心が動いた。楽しいと思うこと、悲しいと思うこと、切ないと思うこと。
しかしその感動はいつも、罪悪感と共にあった。
あの人を死なせた自分が、そんなことを感じていいのか。何よりもこのふれあいが、自分の中から、大切な、大切な憎しみを奪ってしまうのではないか。
――でも。
自分の中にはまだ、これほど生々しい憎しみがある。
それを思い出すことができて、彼女はとても嬉しかった。
◇
男の姿が消えた後、しばらくうつむいて立っていたメルヴィナが、杖を大地に突き刺した。
それだけで、その場にいた全てのアンデッドが、糸を切ったように崩れ落ち、動きを止めた。
次の瞬間には、メルヴィナの姿も闇に消えている。
「……ふ」
地平の際が、白み始める。
太陽が昇り、聖堂の瓦礫と死体の山を、光が照らす。
「ふふ……」
その口から漏れる笑いは、何を意味しているのか。
朝を迎えた草原の中で、全てを塗りつぶす憎悪が、少女の何かを変えていった。
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