第68話
身体能力ではアルフェに分がある。前回と同じく、フロイドはそう見た。
なぜかは知らないが、この娘はこの小柄な体で、フロイド以上の速さ、攻撃の重さを持っているのだ。束ねた鋼のようになるまで鍛え上げた男の肉体よりも、野原で花飾りでも作っていそうな娘の細腕の方が勝る。フロイドのような戦士にとっては、なんとも笑えない冗談だ。
魔術士がたまに使う、身体強化の魔術と似たようなものかもしれない。しかしあれは、他の魔術が通じない時に用いられる、もっと限定的なものだ。元の力を増幅すると言っても限度がある。そしてこの娘は明らかに、その限度を遙かに超越した速さで動いている。
先天的に魔力の強い者には、まれにこういう人間がいると聞いたことがある。ユリアン・エアハルトのような英雄級の怪物がそうだ。この娘もそういう怪物の一体ということだろうか。
だが戦闘経験は、フロイドの方がずっと上だ。アルフェの攻撃は、“速い”が“荒い”。身体能力に振り回されて、技術が追いついていないイメージだ。経験と技術の差で、フロイドは彼我の身体能力の差を補った。最小の動きで少女の攻撃をかわし、確実にカウンターを仕掛けていく。
しかし、避ける。避けられたフロイドが小気味よいくらいに避ける。目が良い。それとも、勘が鋭いのか。
「うおッ!?」
アルフェの手刀が脇腹をかすめる。今のは危なかった。しかし同時に繰り出したフロイドの片手薙ぎも、アルフェの右肩を浅く裂いている。
血が流れるが、お互いに止まらない。
――楽しい! 楽しいぞ!
白い歯を見せ、フロイドは戦い続ける。
この感覚。久しく忘れていた。自分は今、純粋に戦いを目的として戦っている。食い扶持を稼ぐためでも、誰かに仕えるためでもない。ただ、剣の高みを求めるために。その感覚は、初めて彼が圧倒的な強者に会ったときに粉々にされた――、諦めてしまったものだ。
こんな娘が、それを思い出させてくれるとは。
俺はまだ、強くなれる。この敵を殺して、強くなる。
フロイドにとって、今のこの瞬間は、まぎれもなく数年に勝る価値があった。
――なあ、お前も楽しいだろうッ!?
心の中で、彼は相手にも同意を求めた。
次第に燃え移る炎に照らされて、アルフェの宝石のような瞳が、まるで自ら輝いているかのごとく爛々と光を放っている。そしてその目は瞬きもせずにフロイドを見つめ、彼に向かって小さな手を差し伸べてくる。――彼の体から、心の臓をえぐり出そうとして。
この時が、永遠になればいい。彼は切実にそう思った。
しかしどんなに楽しいひとときも、やがては終わるものだ。
「――ふんッ!」
後ろに飛びすさり、いったん距離を取ったフロイドめがけて、アルフェはその辺にいた小太りの食屍鬼の胸元をつかみ、強引に投げつけてきた。
「――!」
大の男の体が、回転しながら水平に飛んでくる。フロイドは姿勢を低くして、飛んでいく食屍鬼の下をくぐったが、それが大きな隙となった。
かがんだフロイドの目前に、銀のグリーヴを履いたアルフェの脚が見える。彼女は左足を踏み込んで、右足で上段蹴りを放った。
「――それがッ!」
――“荒い”って言うんだよ!
さらに身を低くし、一歩踏み込む。
高く上がったアルフェの股の間をすり抜け、フロイドは敵の背後に回った。
蹴りの撃ち終わりに、アルフェは振り向こうとする。しかしその時には、フロイドの剣が大上段に引き上げられていた。
少女の驚愕した表情が見える。
「死ねや!」
フロイドは存分に力を込めた切り下ろしを、その顔に見舞った。
――!?
アルフェが左腕を差し上げ、頭の前に持って行く。反射的に腕で受けようとしているのか。
が、しかし、腕ごと両断すれば関係ない。フロイドはかまわず、地面すれすれまで、己の剣を振り下ろした。
「何……?」
次に驚かされたのは、フロイドの方だった。
彼は完璧なタイミングで、回避しようのない一撃をみまったはずだった。剣を振り切った瞬間、フロイドの頭の中には、頭を割られた少女の死に様が描かれていた。しかし、アルフェは生きている。
右手で左腕をかばいつつ後退するアルフェの額には、大量の脂汗が浮かんでいる。
フロイドはちらりと、己の剣の刀身に目をやった。
血。手応えはあった。――しかしそういえば、命中の瞬間、岩か金属のような、硬質なものに刃が当たったような感触がした。
アルフェは鋼のグリーヴの他に、何かの革でできたブレーサーを付けていた。それが自分の斬撃を防いだのか? いや、あれに鎖が仕込まれていたとしても、それくらいは両断できる。そんな生易しい一撃を繰り出したつもりは――
フロイドはまじまじとアルフェを見た。
少女の息が荒い。
その左腕から、血が滴っている。ブレーサーは完全に切り裂かれて、しかし、左腕はまだ、彼女の体につながっている。
――その腕で、止めたのか。
フロイドは理解し、唖然とした。先の硬質な手応えは、他ならぬアルフェの腕から伝わったものだ。骨の手応えともまた違う。彼女のただの皮膚と肉が、フロイドの剣を止めたのだ。
筋肉も鍛えれば、鋼と同じ堅さになるという。しかし、それはあくまで比喩の話だ。だがあの一瞬、どういう原理かは知らないが、アルフェは自身の左腕を、“本当に“鋼と同じ堅さにした。
現にフロイドの剣には、まるで金属の柱を切りつけでもしたように、大きな刃こぼれが浮いている。
「……つくづく、楽しませてくれるな」
この娘が人間かもしれないという考えは、フロイドの中から消えた。
「アルフェ、お前は本当に、素晴らしい女だ」
「ふーッ、ふーッ!」
彼の称賛は、彼女の耳に届いているのか。
少なくとも、息を荒くし、獣のように牙をむき出したその顔からは、闘志は全く失せていない。
しかし戦況は明らかに、フロイドに有利に傾いた。
深手――、とは言えない。それでも、その左腕は、もうこの戦いでは使えまい。フロイドの目が、そう語っていた。
◇
――危なかった。
喘ぎながら、アルフェは思った。危地をくぐり抜けた冷や汗と、痛みによる脂汗が抑えられない。
全力の硬体術で左腕を強化しなければ、今の一撃で、アルフェは多分体ごと両断されていた。
斬られた左腕が、熱い。骨には届いていないようだが、指を動かそうとすると鈍い痛みが走る。この腕は、もう使えない。
やはり、この男は強い。ユリアン・エアハルトには及ばないまでも、これ程の腕前の剣士と殺し合うのは初めてだ。
それに、敵はこの男以外にもいる。大量のアンデッドたちは依然として、アルフェの周りを取り囲んでいるのだ。仮にこの男を倒したとして、この腕でこの包囲を抜けられるかどうか。
既に、この男との戦いに大分時間を取られてしまった。戦っているうち、聖堂からかなり離れた場所まで移動してもいる。
聖堂の南西に向かったリグスたちは、もうかなり遠くまで進んだはずだ。――彼らは無事に、アンデッドの群れを突破することができたのだろうか。
「ふー……」
気になることは多い。だが、全てはこの男を倒してからの話である。
アルフェは左腕の痛みを頭から消し去り、呼吸と魔力を整えた。
――どうすれば……。
この状況を挽回する方法を、アルフェは考えた。
アルフェの目の前にいる剣士は、クルツを狙う暗殺者の一人だったはずだ。どうしてか知らないが、それが今は明らかに自分を狙っている。加えて、この戦いが終わった後のことなど、相手は考えてもいないようだ。
相手が片手に提げている剣を見る。片刃の長剣。比較的細身の刀身が、緩やかに湾曲している。恐ろしい切れ味だが、マジックアイテムではない。戦闘中に、男が割り込んできたレイスを斬ったのを見たが、あれは魔力ではなく、技術で斬っているようだった。
そして男は、ここに来るまでにも、アンデッドを相当斬ってきたはずだ。刃こぼれが多い。
ならば――
動かない左腕をだらりと下げ、アルフェは右手だけで構えをとる。にぃ、と、男の口角がつり上がった。
それを合図に、二人は同時に前に出た。
男の剣先が、地面から擦り上がって、アルフェの脇を狙う。もう二、三度、アルフェはこの動きを見た。それだけ見れば十分だ。既に剣筋は見切っている。
アルフェが狙うのは男の剣だ。硬体術で強化した一撃を剣の腹に命中させれば、鋼の剣とて折れるはず。
悟られないように、アルフェは男の目を見つめたまま、そらさなかった。恐怖に負けて剣を見れば、読まれる。
刃の軌跡が、アルフェの髪をかすめていく。同時に男もまた、アルフェの攻撃をかわした。この光景も、何度も見た。
通り過ぎていった剣は、すぐに上から戻ってくるはずだ。まるで一つの動作のように、男はそれを行っていた。
そしてそれこそ、アルフェが待っている動きだ。アルフェは大きく上体をひねり、頭上から落ちかかる剣を、手刀で迎撃した。
ぎぃん、と、鋼と鋼を打ち合わせた音が鳴り響く。
「甘いッ!」
男の刀身の、先から三分の一ほどが、アルフェにたたき切られて飛んでいく。しかしそれを、男は気にも止めなかった。地面と水平にした剣を両手で構えて、相手はアルフェの腹に突き出した。
これも読まれていた。ではどうする。読まれていたなら――
「――なッ!?」
男の剣の切っ先が、アルフェの腹に食い込む。食い込むが、突き抜けない。剣先がまともであれば、硬体術があったとしても、腹を裂かれてアルフェは即死しただろう。だが、剣は浅く刺さっただけだ。急所も、外している。
痛い。でも、そんなことは知らない。
「アアアアアアッ!」
男の動揺の隙をついて、アルフェはもう一度、手刀を振り下ろした。今度は根元から、男の剣がぽっきりと折れる。腹部に響いた激痛をこらえて、アルフェは右足を大地に踏み込んだ。
「…………。ごほぁッ!」
彼女の一撃を受けて男の体が五体満足でいられたのは、彼の鍛えた体と、何よりアルフェの体力と魔力が消耗していたからだ。
男は口から反吐を吐いて、たたらを踏んで後退した。しかしまだ、致命傷ではない。
「――ぐッ、はッ」
息の根を止める。男の首を、アルフェの右手がつかんだ。彼女の左腕からはおびただしく血が流れ、腹からは剣が生えている。それでも男とアルフェ、どちらが勝利したかは明白になった。
残された魔力は多くない。アルフェは立ったままつかんだ男の首を、ほとんど素の力で、ぎりぎりと締め上げていく。
「ぐ……」
男の手が、柄だけ残った剣を取り落とした。彼は両手でアルフェの右手をつかみ、懸命に引き剥がそうとしている。アルフェの方も、歯をむき出して右手に力を込めた。
「がッ……」
男がむせる。両腕が力なく、ぶらりと下がった。――もう一押しで、死ぬ。
「…………かはっ」
――死ね。
「…………は……ははッ……」
アルフェがそう思った時、男は彼女の目を見て、満足そうに笑った。
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