第67話

 アンデッドの、最も大きな層を抜けた。そう思っても、すぐまた次の波が来る。斬っても斬っても、大地から湧き出る。出発点から、何歩進むことができたのか。あとどれだけ歩けば、この悪夢の夜を抜けられるのか。

 それでも前へ、ひたすら前へ。聖堂の南西に、絶望的な進軍を続けるリグスたちがいた。


「待ってくれ! 置いていかないで――!」


 百人足らずで出発した集団は、徐々に数を減らしている。

 今また、足を滑らせて転んだ一人が、アンデッドの群れに飲まれて消えた。


「進め! 足を止めるな!」


 脱落者に気を取られたら死ぬぞと、まだ声を出す余力のある将校が兵を叱咤する。前方では、リグスやグレンが必死の形相でアンデッドを叩き散らしていた。

 彼らに希望は見えない。飛来する幽鬼、足下から生える白骨、かつて仲間だった食屍鬼、背後から迫る怨霊の嘆き。このアンデッドの波はどこまでも、地平の果てまでも続いているような気さえする。ひょっとしたら、彼らが知らない内に、世界の全てがこうなってしまったのかもしれない。


「嫌だ! もう嫌だ! 神様!」


 もう苦しませるのは止めてくれ。夢ならば覚めてくれ。いや、いっそひと思いに死なせてくれ。その思いとは裏腹に、彼らの身体は生を求めてあがく。


「ぬぅん!」


 折れそうになる心を奮い立たせ、リグスも戦鎚を振るい続ける。柄を握る手のひらには血がにじみ、鎧の破損、小さな傷は数え切れない。

この瞬間、彼の背中には団員の生命と、生き残った全ての兵の生命が乗っていた。

 とても重く、辛い。脱落者が出る度、彼の心には焼かれるような痛みが走った。この痛みは、自分のためだけに戦っていた昔には知らなかったものだ。


 昔のリグスに、空しくないかと尋ねたあの兵は、リグスにこの苦しみを味あわせたかったのだろうか。

 こんな想いをするならば、大切なものなど始めから無い方が良かった。自分一人で戦って、孤独に生き、孤独に死んだ方がましだった。


「諦めるな!」


 叫んだのはリグス自身だ。


「皆死ぬな! 歩け!」


 彼は半ば、気力だけで戦っている。


「死ぬな!」


 その大声を聞いて、うつむきかけていた兵が顔を上げる。


「死ぬんじゃねぇ!」


 こんな所で死なせてなるか。自身の生き死にを忘れて、彼は怒鳴った。


「おお!」


 そして、リグスが一際大柄な兵士のグールを叩き潰した時、背後で悲鳴が聞こえた。


「――ウェッジ!」


 顔だけ振り向いて、リグスは叫んだ。

 遅れそうになっていた後方の集団と、リグスが率いる前の集団の間に、一体のレイスが滑り込んでいる。一瞬、後方集団の足が止まり、前の集団との差が開く。


 だが、先頭のリグスは止まれない。自分が止まったら、皆死ぬのだ。

 二つの集団の間に、アンデッドの人垣ができていく。


「ウェッジ! おい!」


 敵に紛れて見えなくなっていく部下の名前を、繰り返しリグスは呼んだ。


「いけません団長!」

「――!?」


 槍を持ったグールが、後ろに気を取られたリグスの胸を突く。その穂先を、代わりに受けた者がいる。


「――……ぐふッ」


 みぞおちから背中まで、槍で突き通されたその者の口から、血があふれる。長年の苦労を思わせる、白髪交じりの髪。最も長い時間、自分と戦ってきたその後ろ姿を、リグスはよく知っている。


「グレン……? ――グレン!」


 それでも彼らは、前に進み続けるしかなかった。



「団長! 団長! ――くそッ!」


 アンデッドを切り払いながら、ウェッジもまた、リグスを呼んでいた。

リグスたちの集団と彼らは、完全に分断されてしまった。彼ら――、ウェッジの側には二十ほどの兵、そして、クルツの姿がある。

 数十歩の距離にリグスたちがいるはずだが、姿は見えず、声も届かない。アンデッドの群れと呻きが、全てをかき消してしまう。


「立て直せ!」


 だが、一端止まった勢いを押し返すのは困難だ。敵の波に押されて、進軍の方向がずれる。このままでは――。


 先頭でアンデッドをかき分けていたリグスがいなくなったことで、ウェッジたちの集団はまとまりを失い、ばらばらになり始めた。そうやって孤立した者から、アンデッドの爪が襲う。


「しっかりしろ!」


 倒れそうになる兵の手を引いて、ウェッジは進んだ。彼の周囲には、もう数人しか残っていない。後は、全てアンデッドだ。抜け殻のようだったクルツでさえ、この状況下である。長剣を抜き、グールと戦っている。


「皆、もう少しだ!」


 もう少しだと言ってみたが、何の根拠も無い。死者の腕が、己の腕をつかむ。それを振り払って、ウェッジは足を前に出した。

 手を引いていた兵の体が、ずしりと重くなる。死んだのか。手を離すと、そこにアンデッドが群がっていった。


「クルツ! 走れ!」


 雇い主を敬って呼ぶ余裕すら無い。だが、ウェッジはまだクルツの護衛であり続けている。見捨てて逃げれば、まだ生き延びる可能性があるだろうに、どうしてそれをしないのか、それはウェッジ自身にも分からなかった。

 足がもつれ、前のめりに倒れる。その時、彼は命綱の剣を手放してしまった。


「クルツ――! ――!?」


 起き上がる時に、ウェッジは妙なものを見た。

 アンデッドの間をすり抜け、黒い影がクルツに迫る。食屍鬼――、いや、人間だ。


「このッ!」


 その人間は、グールとつばぜり合っているクルツに、側面からぶちあたろうとした。ウェッジはとっさの判断で、その人間に体当たりをかます。地面に転がって、すぐに二人とも立ち上がった。


「何なんだお前は!」


 見たこともない、黒ずくめの男。だが、敵だ。

 何も答えずに短刀を構える男の目は、一直線にクルツを狙っている。


「――まさか……、暗殺者か!? こんな――」


 まともではない。こんな時、こんな所にまで、クルツを殺しにやって来るとは。


「な――、わ、私も――!」

「来るんじゃねぇ!」


 ウェッジはクルツを怒鳴りつけた。そうしながら、また突っ込もうとする男を体で止める。

刺客の体は、既にぼろ雑巾のようにズタズタだ。一人でここまで抜けてきたのなら、そうなるのも当然だろう。それでも、クルツを狙おうとする執念だけで、この男は動いている。


「お前も……! 死ぬぞ……!」


 その言葉は刺客とクルツ、両方に向かって言った。

 刺客を羽交い締めにしたウェッジは、腰から引き抜いたナイフを相手の腹に刺す。それでもウェッジを引き剥がそうとする男の力は、まるで万力のようだった。死の間際の馬鹿力としか思えない。


 歯を食いしばり、ウェッジは相手の首筋に、ナイフの刃を持って行く。顎下にあてがうと、それを横に、一気に引いた。


「――う!?」


 鮮血を浴びながら、すぐさま刺客から離れようとしたウェッジの腕を、今度は逆に男の方が離そうとしない。ウェッジは目を見張った。


「今、私が――!」


 クルツの声だ。来るなともう一度叫ぼうとしたが、刺客の片手が、ウェッジの口を塞いだ。息が絶える前に、刺客の口がにやりとゆがむ。その亡骸の重みに耐えかね、ウェッジは地面に倒れた。

そこに、アンデッドが覆い被さってくる。


「ウェッジ――!」


 暗くなる視界の向こうに、自分の名前を呼ぶ者がいる。リグスではない。


「ウェッジ! 今助けるぞ!」


 クルツだ。

 顔を覆ったスケルトンの骨の隙間から、あの男が自分に駆け寄ってくるのが――、そしてその背後からも、山のようなアンデッドが迫ってくるのが見える。

 クルツの手が、ウェッジに差し伸べられる。


 ――意外だ。あの坊ちゃんは、俺の名前を知っていたのか。


 そんな事を最期に思い浮かべて、彼らは死体の波に消えた。



「――シィッ!」


 兵営に着いた火は、ますます燃え広がっている。その、屍と炎の地獄と化した兵営の中に、フロイド・セインヒルの気合い声が響く。

 下段からの擦り上げが避けられると、それは流れるように、肩口を切り下げる斬撃へと変化した。しかしその一撃も、娘は紙一重のところで見切ってかわす。


 空気を裂いて、娘の前蹴りが飛んでくる。鋼のグリーヴを付けたその脚は、かすってもいないのにフロイドのシャツの端を裂いた。

 娘の喉を狙って突く。剣先が届くころには、もうその場所に相手は居ない。常人離れした速度だ。


 全力の攻撃をかわされた悦びに、フロイドの背筋を快感が走り抜ける。

こんな悦びを戦いの中に感じられるのは、いつ以来だろうか。


 グールが一体、フロイドの視界に入った。邪魔をするなとばかりに、次の瞬間には、胴が両断されている。

 他にも二人の間に割り込んだアンデッドは、全て切り伏せられるか叩き潰された。

 二人だけだ。この世に自分と、この娘だけ。こんな気持ちは、恋した相手にも抱いたことがない。

 炎に照らされ、死体の山の上で戦う二人は、まるで踊っているようにも見えた。


「腕を、上げたな……!」


 何度目かの対峙の時に、フロイドは口を開いた。正直な感想である。娘はこの前よりも速く、強くなっている。あの時は、こいつは毒に犯されていた。今は体調が万全だからだろうか。いや、それを差し引いても、わずかな期間で、この娘は確実に成長している。


「約束だ」

「……は?」

「今度会ったら、名前を名乗ると約束した。――俺は、今から斬るお前の名前が知りたい」

「……そんな約束を、した覚えはありませんが」


 氷でできたような冷たい声だ。そして、その声の中にも殺気がある。つくづく素晴らしい。


「頼む、名前を、教えてくれ」


 今から殺す相手の名前を、今から殺されるかもしれない相手の名前を、自分の魂に刻みつけておきたい。フロイドのその言葉は、懇願に近かった。

 熱のこもった男の台詞に対して、娘はあくまで、冷淡に言葉を返す。この少女はフロイドのことなど、どうでもいいと思っているのか。それ故に何のてらいも無く、その名前を告げた。


「……アルフェです。では、もういいですね」


 その言葉に続いて、だから死ねと、フロイドは言われた気がした。


「アルフェ……! アルフェか。……アルフェ。……よし」


 剣先を突きつけたまま目を閉じて、フロイドはその名前を何度も何度もかみ砕く。それに伴い体の芯から湧き上がってくる武者震いを、彼は必死で押さえた。


「アルフェ」


 お前にも、この想いと悦びが伝わるだろうか。


「死ぬのは……、お前だ!」


 叩き付けるような殺気と共に牙をむき、フロイドは剣を構えた。

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