第56話

「アルフェちゃん、それじゃ今日はよろしくね」


 そう言ってアルフェに白い歯を見せたのは、ジェイスという名の若い傭兵だ。彼は、自称「リグス傭兵団の最もいい男」である。その称号に恥じず、盛装に身を包んだ彼は、客観的に見てもなかなかの男前と言えた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 アルフェもジェイスに挨拶を返した。会場の前で待ち合わせと言う体をとって、今回見せかけのパートナーを組むこの二人は、城の前で合流したのだ。


「すみません、遅れてしまいました。クルツ様は?」


 舞踏会は、もう半刻ほど前から始まっている。街の通りの人混みが大変なものだったので、クルツの館から出発したアルフェの馬車はなかなか進まず、遅れてしまった。


「別に大丈夫さ。アルフェちゃんも見ただろ?」


 ジェイスの指摘にアルフェはうなずく。ここに来るまでの間に何度も気がついた。一見華やかに見える城内のそこかしこに、警備の兵が巧妙に隠されているのだ。この前訪れた時よりも、兵の数はむしろ多くなっている。アルフェはそれを気配で感じていた。


 今夜は、アルフェたちはクルツと無関係の客として出席し、遠巻きから彼を守る。とは言っても、今夜の城は厳戒態勢だ。


 ――だから別に、俺たちが気を張る必要はねぇんだ。俺たちが行くのは、あくまで念のためだ。


リグスはそう言っていた。

 この舞踏会には、領邦内の主立った名士はもちろんのこと、領外からも多数の賓客が招かれているという。そんな場に、刺客を侵入させるような手抜かりを、まさかあのユリアン・エアハルトがするはずがないと。


「中に入ったら、俺たちは二手に分かれよう。その方が効率的だ」


 会場に続く道を歩きながら、ジェイスが真剣な表情で囁いた。


「え……? でも、私たちはパートナーということになっているのですから、一緒にいるべきでは?」

「大丈夫だよ。舞踏会でパートナーとだけ踊る方が不自然さ。大体こういう場所には、皆新しい恋人を探しに来てるんだから」


 ジェイスは力説している。

 リグスがこの男をアルフェのパートナーに選んだ理由は、完全に見た目重視だ。アルフェと並べて、違和感がない程度に釣り合いがとれそうな男が――もっと言えば、貴族の舞踏会に参加しても、女性陣を怯えさせずに済むような人相の男が――傭兵団にはこの男しかいなかったからだ。


団長として、リグスの判断は正しかったかもしれない。

しかし、ジェイスは傭兵団の他の仲間からは、「リグス傭兵団で最も軽い男」と呼ばれている。どちらかと言えばクルツなどと同類の、軽薄な部分が目立つ彼は、滅多に踏み入れる機会のない上流階級の社交場の空気に、すっかり舞い上がっていた。


 ――団長も、そんなに気を張る必要はないって言ってたしな。少しくらい羽目を外しても、大丈夫だろ。


 隣にいるアルフェは、見た目だけなら最高だが、中身は己の数倍強い。手を出したら、命がいくつあっても足りない。

 それよりも、あわよくば貴族の令嬢をお持ち帰りして、味見の一つもしてみたい。今、彼の脳内の大半を占めているのは、そういう考えだった。


「そういうもの……なんですか?」

「ああ、そうとも。疑われないように、こういう場所じゃそれらしく振る舞った方がいい。と言うわけで俺は、ちょっと別の子に話しかけるかもしれないが、あくまで演技だから気にしないでくれ。仕事のことは忘れないから」


 アルフェは、自分自身に向けられる直接的な欲望には敏感なところがあったが、所詮はまだ、男女のことに通じていない子供である。彼女はジェイスの思惑には気づかずに、彼の言い訳を信じてしまった。


「そうですか」


 アルフェの同意を取り付けてからの、ジェイスの行動は素早かった。二人が広間に通されると、彼はそれじゃあと言って、脇目も振らずに他の娘のところに走っていった。


「……」


 一人になったアルフェは、きょろきょろと広間の中を見回した。


 ――クルツさんは、どこでしょうか。


 偽りのパートナーは消えたが、今日は踊りに来た訳ではない。それは些細な問題だ。

 まずは、別々に会場に入ったはずの、護衛対象の雇い主を見つけなければならない。クルツの馬車は、アルフェが乗っていたものよりもかなり先行していた。彼はすでに、この広間の中にいるはずだ。しかし、さすがにこれだけの数の人がいるとなると、見つけ出すのは難しいだろう。


「――あ」


 そう思っていたのだが、クルツは意外とあっけなく見つかった。広間の中央で、若い女性を腕に抱えてくるくると回っている男。あれは間違いなく、アルフェの雇い主だ。

 一緒に踊っている令嬢は、リグスが言っていた、どこかの領主の娘だろうか。だとするときっとその領主は、この領邦でも有力な貴族に違いない。彼女は場にいる女性たちの中でも、ひときわ豪華なドレスと装飾を身につけている。


 アルフェは少し、拍子抜けしてしまった。どうやら、護衛は本当に必要なさそうだ。

 例えば自分なら、この場でクルツを殺すことはたやすい。そう、殺すだけならば。しかしこれだけの衆目がある。周囲に配置された警備兵の数も、いつぞやの晩餐会とは段違いだ。ここにいる出席者の中にも、手練れは混じっているだろう。


 ――それに。


そして何より、あの男がいる。


 ――直接見るのは、三回目ですが……、


 踊っているクルツのさらに奥、広間の高みに目を向けると、そこではユリアンが、挨拶に並んだ人の列をさばいている。


 ――やはり、強い。


 そうしていても、この距離でさえも、全く隙が見つけられない。あの男がいる前で狼藉を働くのは、どんな凄腕の刺客でも、絶対に無理だ。仮にクルツを仕留めることに成功しても、帰り道がなければ意味が無い。


 どうやら本当に、今自分がやるべきことは無いようだ。そう見極めると、アルフェにも心の余裕ができた。彼女はユリアンとクルツの兄弟から目を外して、会場を見渡した。


 ――これが、舞踏会……。


 天井に豪華なシャンデリアがきらめいていて、その下で人々が踊っている。あちこちで男女が語らい、笑みを浮かべる。

初めて劇場に行った時もそうだったが、高揚感と言えば良いのか、期待感と言えば良いのか、会場内にはそういった、形容しがたい人の熱のようなものが渦巻いていた。


 一度、舞踏会というものに出てみたい。先日アルフェがリグスに語った言葉は、本心である。

 アルフェはこれまで、舞踏会に出たことがなかった。

――踊ることは、多分できる。城にいた頃、日課で練習だけはしていた。だけれども、本番で誰かと踊った経験は一度も無い。


 アルフェはクルツにもう一度目を向けた。彼はさすがに御曹司らしく、華麗なステップを踏んで踊っている。

ラトリアがあんなことにならなければ、自分もいつか、故郷の城で舞踏会に出たのだろうか。

 そこまで考えて、アルフェの顔に浮かんだのはさみしげな苦笑だった。故郷のことは、たまにこうやって思い出すが、どうしても懐かしいと思えない。それよりも、自分にとって大切な思い出は、コンラッドたちと過ごしたあの街にある。


 そう思うと突然、こんなところで、こんなことをしていていいのかという衝動に、アルフェは駆られた。師の敵の正体さえも、まだ知ることができていないのに、自分は回り道ばかりしている気がする。


 ――お師匠様……。


 心の中でその名前を呼ぶと、胸が強く締め付けられる。

 早くあの男を見つけ出して、殺してやりたい。八つ裂きにして、コンラッドの味わった痛みの――自分が味わった悲しみの一部でいいから、分からせてやりたい。


「お嬢さん、よろしければ私と一曲いかがですか?」


 何人かの男が、思い詰めた様子の儚げな少女の前に立ち、そういう台詞を吐いた。しかし話しかけられた本人は、物思いにとらわれて、話しかけられたことにすら気付いていない。


 ――……メルヴィナ。あの女性は……。


 そう、手がかりらしきものは得たのだ。それを追うために、今はクルツのそばにいるのが最善だと判断したではないか。そう思って、彼女は心を落ち着けようと努めた。


 感情の波が静まると、アルフェの周囲に音が戻ってきた。流れている音楽が、さっきまでと変わっている。明るい拍子の曲が、いつの間にか、ゆっくりとした艶のある曲になっていた。

 そこで彼女は、広間で一人、ぽつんと立っている自分に気付いた。皆、己の話し相手に気をとられて忙しい。このごみごみした状況で、自分などを気にする人間はいないだろうが、悪目立ちするのは避けなければならない。そう思ったアルフェは壁際へと移動した。


「――ふう」


 短く息を吐いて、彼女は思った。

 この舞踏会は、いつまで続くのだろう。警戒する必要が無いというのは、逆に疲れる感じがする。話し相手もいないし、特にすることがないから、食事でもしていようか。ぼんやりとしていたアルフェの耳に、近くにいた一団の話し声が入ってきた。


「見た? エベール家のハロルド様が来ていらしてよ」


 アルフェが目を向けると、そこでは一つのソファーを取り囲んで、きゃいきゃいと婦女子たちが騒いでいる。アルフェよりも少し上くらいの年の少女たちだ。


「本当? でもあの方って、先月婚約されたって聞いたわ」

「え、そうなの? ……じゃあダメね」


 どうやら彼女たちには、特定のパートナーはいないらしい。誰を誘うか、あるいは誰に誘われるか。彼女たちはそんなことを話している。

 舞踏会に出席する男女は、皆新しい恋人を探している。先のジェイスの発言は、アルフェに向けた方便とばかりは言い切れない。

通常、裕福な家柄の子弟ほど、親同士の話し合いで婚約相手が決まる。しかしこういう場所で当人同士が出会い、それがきっかけになることだってそれなりにあるのだ。顔も知らない相手と婚約するよりは――。少女たちがこの舞踏会にそんな望みをかけるのは、無理からぬことでもあるだろう。


「――ユリアン様は、踊られないのかしら?」


 そして、出席している若い男の家柄や容姿についてひとしきり語った後、少女たちの一人がそう言った。


「貴女、お誘いしてみてはいかが?」

「でも、とってもお忙しそうですし……、断られたら、きっとしばらく立ち直れないわ」

「わ、私は、あのお顔で冷たく断られるのが、むしろいいと思うんですけど」

「……貴女、変わってるわね」


 主催者だから、必ず踊らなければならないという作法はない。しかし、ユリアンも若い男だ。しかも未婚である。婚約者もいないとなれば、クルツがそうしているように、何曲かは踊ってみせるのが自然だろう。

 そうなると、年頃の婦女子たちが次に考えるのは、その相手が誰になるかという話だ。


 常に厳めしい表情を崩さないが、ユリアンの顔立ちは整っている。その上に、この領邦の実質的な最高権力者となれば、少女たちが騒ぐのも道理だった。

 いや、それ以上に、ここでユリアンと踊れば、自分が未来のエアハルト伯の妃という道も、なくはないのではないか。彼女たちは皆、そんなあわよくばを狙っている。


「お父様も、ぜひユリアン様をお誘いしろって言ってました!」


 そしてその“あわよくば”を狙っているのは、彼女たち以上に、彼女たちの両親の方なのだろう。腹芸のできない素直な娘が一人、そんなことを言って他の者たちの苦笑を買った。


 ――ユリアン様は、人気がおありなのですね。


 アルフェは彼女たちのおしゃべりを、なんとなく聞いていた。しかしそこに共感はない。

 アルフェにとってユリアンは、“自分より強い人間”という認識しかないのだ。憧れの対象ではなく、超えるべき目標、障害とでも言うべきか。男性としての魅力という観点から、彼女はユリアンを、いや、ほとんどの男を見たことがなかった。


 ――……? 今……。


 そのユリアンと、目が合った気がした。ただの、気のせいだろうか。


「じゃあ、クルツ様でもお誘いしたら?」

「ふふ、それもいいかもしれませんね。でも、私はご遠慮いたします」

「あら、どうして?」

「貴女だって分かってるでしょう?」

「クルツ様は絶対誘うなって、お父様が言ってました!」

「……貴女、もうちょっと歯に衣を着せなさい」


 アルフェはユリアンを注視したが、ユリアンは何事もなかったように客の応対を続けている。

 気のせいだったようだ。あれだけの挨拶の人間に取り囲まれて、この距離から自分を見つけるなど、いくらあの男でも、そこまでの注意力があるはずが――。そう思っても、アルフェはうなじに冷や汗が流れるのを感じていた。


「まあ、仮にユリアン様が奥様を迎えられるとしたら、きっと領外の方でしょうけどね」

「それは確かに、そうですわね。きっと帝室に連なる方とか――、もしかしたら、違う国のお姫様とか?」

「他の八大諸侯のご令嬢っていうのも、ありじゃないかしら」

「まあ、その辺が妥当ですわよね。ノイマルク侯とか……、トリール侯とか」

「そこを、ただの中堅領主の娘と結婚したりしたら、ロマンチックだと思うんだけど?」

「それ、もしかして貴女のこと?」


 若い娘の話は移ろいやすい。自分が相手にならないとしたら、どんな令嬢がユリアンの結婚相手として相応しいか、彼女たちは、今度はそんな話題で盛り上がっている。


「そう言えば、ユリアン様はラトリア大公領に遊学されたことがあるのよ。知ってた?」


 しばらくユリアンの方に気を奪われていたアルフェは、その言葉で再び、少女たちの会話に耳を向けた。


「そうなの?」


 そう聞き返した娘と同じように、アルフェもそうなのかと驚かされた。


「何年前だったかしら……。短い間だったから、知らなかったでしょう」


 ふふんと得意げに鼻をうごめかしたその娘は、少女たちの中ではかなりの事情通のようだ。


「ラトリアには大きな学園があるでしょう? そこで学ばれたそうよ。このお城にある魔術研究所も、そこを参考にした部分があるんですって」

「ふーん」

「何よ、興味ないの?」

「あんまり」

「じゃあ、こういうのはどう?」


 学園や研究所がどうこうと言っても、普通の若い娘の興味を引くことはできない。それならばとばかりに、事情通の娘は話の方向を切り替えた。


「遊学っていうのは建前で、実はユリアン様は、ラトリア大公のお姫様と婚約される予定だったんですって」

「それって本当なの? ラトリアのお姫様っていったら――」


 ――……お姉様?


「あ、ユリアン様が退席されるようですわ」


 アルフェにとって興味深い話題が出たというのに、折り悪くと言うべきか、ユリアンが椅子から立ち上がったことで娘たちのお喋りは中断された。


「結局、どなたとも踊られませんでしたわね」


 娘の一人が、残念そうな声を漏らした。その言葉通り、ユリアンは一通りの来客に挨拶をすると、誰の手を取ることもなく広間を出て行こうとしている。


「まだお相手をお決めになるつもりは無いっていう事かしら」

「まあ、今年は伯が御危篤なのだから……」

「それならなおさら、ご結婚を急ぐべきじゃ――、え!?」

「嘘!?」


 令嬢たちがざわめいた。

扉の前に立ったユリアンが意味ありげに立ち止まり、首だけで振り返ると、彼女たちの方をはっきりと見たからだ。

他にもユリアンの視線に気付いた者が、その方向にあるものを探って騒然としている。


「え? もしかして私!?」

「私よ! どうしよう、お父様に報告しなくっちゃ!」


 あたふたと慌てる彼女たちに、客たちの注目が集まる。それを放って、何事もなかったかのようにユリアンは扉の奥に消えた。


 ――……


 一方、アルフェは黙ったまま、ユリアンが去った方を見つめていた。


 ――……やはり。


 先ほどの感覚は、気のせいでは無かったようだ。今度は確実に眼が合った。

 アルフェに招待状を送ってきたのは、やはり何らかの意図があってのことだったようだ。

 ユリアンが出て行った扉は完全には閉じきらず。少しだけ隙間が空いている。


 ――……呼ばれている。


 そう、アルフェは確信した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る