第55話

 年に一度の舞踏会――。今日という日は、エアハルト伯の居城が外に向けて広く開かれる、一年でも数少ない機会だ。城の広間はいつにもまして美々しく飾り立てられ、そこにまた、調度に負けじと着飾った、裕福そうな男女がひしめいている。


 踊りたい者のためには、楽隊が一心不乱に音楽を奏でていたし、食いたい者のためには、あちらこちらにうずたかく積まれた果実や、テーブルに並べられた、贅を尽くした料理がある。

 それらに特に興味を示さず、カードや駒取り遊びに興じている者も多い。しかし最も多いのは、ただ延々と噂話をしている者たちだ。


 一見、彼らはそれぞれのグループの中で、思い思いに好きな話をしているように見えた。だが、ただの噂話にも「流行り」というものがある。耳を澄ませば、ほとんどの人々が、似たような話題で盛り上がっているのが分かるだろう。


「例の『劇場の幽霊』の話は、お聞きになりましたか?」

「もちろん。どこに行っても、今はその話でもちきりです」


 そう、今、特に市内の人々の心をとらえているのは、先日劇場で起こった幽霊騒ぎだった。

 治安の行き届いたエアハルト領、しかもその中心都市のウルムにおいて、これほど人々の不安をかき立て――興味を誘う話題というのは他になかった。


「先日は災難でしたな。もう、お加減はよろしいので?」

「え、ええ、別段。確かに災難でしたが、私自身は怪我をしたわけでもありませんし……」


 ホール内にいる、特に大きな集団の中央に、口ひげを生やした壮年の軍人風の男が立っていた。

誰かに話しかけられるたび、戸惑ったようにぎごちない返事をしているのは、彼自身がこういった話題の中心になることに慣れていないからだ。それでも生来の几帳面な性格から、彼は聞かれたことに、いちいち真面目に返答していた。


「その後にあらぬ疑いをかけられて、詰問を受けたことも、まあ、仕方の無いことと割り切っております。私もユリアン様のお立場ならば、そうせざるを得ないでしょう。……しかし、娘の方が――」

「ああ」


 脇で話を聞いていたもう一人が、いかにも気の毒といった風に、ちょっと眉をひそめてから言った。


「オーラフ様は、お嬢様と観劇中に、例の“あれ”にでくわしたとうかがいました」


 そう、この壮年の軍人は、先日の劇場で起こった“惨事”の中心人物だ。彼は娘と二人で観劇に出かけ、そこで例の幽鬼と出くわしたという、まさに時の人である。


「はい。あれ以来、すっかりふさぎ込んでしまって……。部屋からもあまり出たがりませんでした」

「今日は? 娘さんはいらっしゃっておりませんの?」


 そう勢い込んで聞いた貴婦人も、さっきの男も、別にその娘を気遣って聞いているのではなさそうだ。金も暇もある彼らにとって、このように刺激的なニュースは滅多に無い。彼らの瞳には、隠しきれない好奇の色が浮かんでいた。


「い、いえ、奥様。連れてきております。気晴らしをするには、こういう場の方が良かろうと思って、無理を言って連れてきました」


 と、男が示した方向を見れば、彼の娘がご婦人方に取り囲まれている。ちょうどそこから、きゃあという短い悲鳴が響いた。


 ――そしてその幽霊が、奇妙な言葉を発しながら、私のすぐそばまで迫ってきましたの。

――まあ! なんて恐ろしい!

 ――お亡くなりになった殿方は、幽霊から私をかばってくださって――。

 ――それでどうなったのですか? 続きをお聞かせくださいまし。


 騒然とした広間の中でも、その一角は特にかしましい。

 父親が心配するほど、娘は弱くないようだ。彼女は悲壮な顔を崩さず悲劇のヒロインを演じながらも、誇張するところは誇張して、上手に話を盛り上げている。


「あら! まあ! それでは私、お慰めしなくては!」


 口べたな父親よりも、娘の方がおもしろい話を聞かせてくれそうだ。即座に判断した貴婦人は、そう言ってそそくさと、そちらの方に行ってしまった。

 こんなやりとりが、もう小一時間は続いている。父親は、慣れない役割でにじませた額の汗を、手の甲でぬぐった。


「やれやれ、オーラフ殿も災難ですねぇ」

「彼は軍務一筋だからな。少し目端の利く者なら、これを社交の良い機会にするだろうに」

「……まあ、彼には無理だろうがね」

「おや、卿は相変わらず辛辣ですなぁ」

「ふん……」


 別の方に目を向けると、広間の中でも特に身分が高そうな者が集まったこちらの一団は、幽霊話に盛り上がる人々を遠目に眺めながら、どの顔にも皮肉な笑みを浮かべている。

 自分たちは、あのように低俗なスキャンダルに飛びつく俗物どもとは違う。まるでそう言いたげな表情だ。


「ところで、今夜はユリアン様はお見えになるのだろうか? あの方は、このような催しは苦手のはず」

「伯の名代として、出ない訳にはいかないですよ。それに苦手だろうと、民の人気取りのために、使えるものは使う。そういう方でしょう?」

「ああ、この会を仕切ったというのは、伯の後継としては十分な既成事実だ。ふん、これで、次代の伯侯はあの方に決まりだな。もっとも、まだ決まっていないと考えていた者が、どれほどいるかも疑問だが」

「やはりあの弟では、ユリアン様の対抗馬として、少々器量が足りませんでしたねぇ」


 しかし、この種の人間が好む話題が高尚かと言えば、そんなこともない。幽霊話よりも、彼らがしている政争談義の方がよほど下劣だと、思う者は思うはずだ。


「せめてあの坊やには、もう少し、競ってもらいたかったんですがねぇ。我々に対する、ユリアン様の譲歩を引き出すために」


 そう言って肩をすくめたこの人物は、クルツが催した夜会にも、何度となく出席してきた男だ。ということは、ここにいるのはエアハルト領とその近辺にいる貴族連中か。先日クルツに魔物退治を依頼したのと、同じような手合いだ。


「まあ、ユリアン様の矛先が向けられるのは、まずはヘルムート卿あたりだろう。あの方もそれを知っているから、クルツ様にずいぶん投資をしたようだ」

「ははは、どうやらそれも、無駄に終わりそうですな。――そういえば、あなたはヘルムート卿の館で開かれた夜会にも出席したそうですが」

「耳ざといですねぇ。ええ、その通りです。それが何か?」

「一つ、おもしろい騒ぎがあったとか」

「……ああ、クルツ様の連れていた愛人が、どこの姫君かは分かりませんが、たいそう美しかったですねぇ。そのことですか?」

「それも気になる話題ですが……、そちらではなく」

「……まったく、本当に卿は、どこから情報を仕入れていらっしゃるのですか?」

「では、クルツ様が暗殺されかかったというのは?」


 彼は答える代わりに、口元に思わせぶりな笑みを浮かべた。


「やはり……。しかし、どこの誰でしょうか。クルツ様のお命を狙う者など」

「そう言っている君だったりしてね」

「まさか、違いますとも」

「……あの方には、命を狙うほどの価値もないからな」

「また卿はそのように辛辣なことを――。……おや、ユリアン様です」


 広間に流れていた音楽が止まった。

 一同が顔を上げると、広間の高みにユリアン・エアハルトが姿を現したのが見えた。満座の拍手を受け、彼は軽く片手を上げてそれに応えている。


「相変わらず、地味なお召し物だ。まあ、仕立ては悪くないが……、このような場でくらい、着飾ればよろしいのに」

「それよりも、あの鉄面皮の方が問題では?」

「そのあたり、妾の子としては自覚が足りないのかもしれませんねぇ」

「ふふふ、貴公、それは失言ですぞ」

「おっと、怖い怖い。どうか内密に願います」

「あの腰巾着の姿が見えませんが」

「『魔術研究所』の所長殿ですか? あれも平民出です。こういう場所には不似合いでしょう」


 座についたユリアンが、この会に対する慶びのことばと、病床にある伯の快気を願うことばを並べている。

 男たちはしばらく話を止めて、その声に耳を傾けた。


「ふん、当面はおとなしくしているさ。帝国は難しい局面だ。新しい伯が、いずれ我々に泣きついて来るのを待てばいい」


 ユリアンの祝辞が終わると、そう言った男は、手に持った杯を掲げて、そのまま優美な動作で中身を干した。


 音楽は再び流れだし、広間にざわめきが戻る。

 ユリアンに挨拶するための列ができ、人の流れは多少変わった。


「難しいと言えば、大公領について、その後をお聞きになった方は?」


 そして彼らの話の内容も、次へと移った。

 南の大公領の失陥――。二年ほど前には、あれほど騒がれた話題だ。その時は、すわ王国と帝国の全面戦争の始まりかと、ここに居並ぶ者たちも恐々としていたのだが、それ以降、特に大きな動きもなく、今日に至っている。


「例のドニエステの『魔王』は、まだラトリアに滞陣しているのか?」

「そのあたり、よく分からないのですよ」

「卿でもですか?」

「ええ、ほとんど情報が漏れてきません。……ただ――」


 男は一同を見回すと、一段と小声になり、そして続けた。


「……ガルシュタット伯が、ラトリアの統治に加わっているという噂はありますが」

「それは! ……彼は帝国の臣でしょう?」

「……大公の血縁でもあったはずだ」


 これは彼の、とっておきの情報だったようだ。場に、隠しきれない驚愕の色が走った。


「……いや、しかし、それで分かりました。なぜラトリアの城が、ああもたやすく墜ちたのか」

「内通ですか? なんのために?」

「その理由は色々とあるのでしょうが……。例えばガルシュタット伯には、大公妃に懸想しているという噂がありました」

「初耳です。しかしまさか。いかに大公妃が月の精に例えられた美しさだろうと、もう四十近い年齢のはず。そのために戦を仕掛ける愚か者もおりますまい」

「ふふ、それは分かりませんよ?」


 そこで男が浮かべた笑いは、当人の品性が透けて見えるかのような、下卑たものだった。


「大公妃だけではないだろう。あそこには、その血を継いだ一人娘がいたはずだ」

「ああ、あの、剣をよくするとかいう?」

「私は数年前、ラトリアでその娘を見たことがありますよ。男子が生まれなかったことを、大公は相当悔しがっていたそうですが、あれなら亡き大公も浮かばれるでしょう。外見はともかく、中身は虎だと皆が評しておりました」

「そんなじゃじゃ馬な娘が、大公妃の代わりになるのかな?」

「それが、見目は良いのです。あれだけは母親譲りですねぇ。――おや、どうしました? 何をそんなに考え込んでおられるのです」


 さっきまで話に加わっていた一人が、会話のある部分から、急に押し黙っていた。疑問ありげに、しきりに首をかしげるその姿に、別の男が声をかけた。


「あ、ああ、いえ。……一人、でしたか?」

「は?」

「大公の娘です。……二人だったように、思うのですが」

「……? 何を言っておられる。大公の一人娘の話は有名だろう」

「そうですな。……おや? 不思議だ。確かに二人娘だと、誰かから聞いた覚えがあるのですが」

「どこか、別の家の話と勘違いされておられるのでは?」

「あれほどの大家です。二人を一人と間違えることはないでしょう」


 他の者も次々に、大公の娘は一人だけだと口にした。自分以外の全員から否定されても、男はまだ少し納得がいっていない様子だったが、しばらく考え込んでも思い出せなかった様子で、一同に詫びた。


「……ふーむ、そうですね。済みません皆さん。私の思い違いだったようです。話の腰を折ってしまいました」

「構いませんよ。まあ、どちらにしても、ラトリアが墜ちた今となっては、取るに足らない話ですしね」


 またも、皮肉な笑いが男たちの顔に浮かぶ。

 こうしてあちこちで繰り広げられるうわさ話は、この夜が明けるまで続くのだろう。

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