第43話

 遠目からでも分かる肌の青白さ。あの女が、初めてアルフェを訪ねて来た時もそうだった。その時は、彼女の顔をまともに見たわけではないが――。

 ――いや、あれは間違いなくあの時の女だ。直観的に、アルフェはそう確信した。

 あの時は確か、女はフードを被っていた。だから、腰に届きそうな程に長い女の黒髪を、アルフェは今、初めて見た。


「それにしても黒髪とは、本当に珍しいな」


 クルツがもう一度つぶやいた。

 黒い髪は、この帝国では珍しい。黒髪の人間は、滅多に生れることがないと聞く。実際にアルフェも、主教の桟敷に座っているあの女以外に、黒い髪の人間に会ったことが無い。地域によっては、闇を連想させる不吉なものとして、黒髪の子供を嫌う風習さえある。


「君の恋人でなければ、彼女は一体?」

「しばらく前から、ウルムの大聖堂に滞在しております。主教の客人だと聞いていますが、詳しいことは……」

「主教の? 主教は今、ご病気なのだろう? 誰ともお会いにならないと聞いているが」

「ええ、その通りです。病状が重くなられてからは、私ですらほとんど。……しかし、あの女は別なのです。頻繁に主教様の部屋に出入りをして……。実際、今日あの女を連れてきたのも、主教様の命です。でなければ、このように重要な場に女を伴うなど……、あ、いや、失礼。あなた様のことではないのです」


 シンゼイの言葉は、聞きようによっては、アルフェを連れて来たクルツへの皮肉とも受け取れる。失言に気付いたシンゼイが慌てて訂正し、クルツは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「ふん、では、彼女も教会の人間か。主教の客人というなら、そうなんだろう」

「いや、俗人だと思われます。あのように忌まわしい髪色の女が教会に属しているとは、今まで耳にしたことがありませんので……」

「“思われます”とは、ずいぶんと他人事だな。そんなことも聞いていないのか?」


 素性も知らない女を連れてきたのかと、今度はクルツが驚き呆れた表情をしている。シンゼイは戸惑った様子で、言い訳にならない言い訳をした。


「何しろ、本当に無口な女なもので……」

「無口ねぇ」

「あの女性は――」


 思わず口に出して、アルフェははっと我に返った。

 助祭長の言葉を遮ったアルフェを、意表を突かれた顔をしたクルツとシンゼイが見ている。それまでほとんど話さなかったにも関わらず、どうしてこの娘は、前触れもなく会話に割り込んで来たのだろうと。

 しかしアルフェの声色と表情には、男たちにそう言わせないだけの、異様な急迫さがこもっていた。


「な、何か?」

「あ――、すみません。……あの女性の、名前は?」


 そんなことを、なぜにそれほど真剣な顔で聞くのか。助祭長は解せない様子だったが、さりとて彼に質問に答えない理由もなかった。そしてシンゼイもさすがに、自分の連れの名前だけは承知していたようだ。


「メルヴィナです。それが?」

「メルヴィナ……」


 知らない名前だ。故郷を出る前も、その後も、全く耳にしたことはない。改めて、アルフェはメルヴィナという女に目を向ける。

 いつの間にか第二幕が終わり、舞台には分厚い幕が下ろされている。他の桟敷では、さっきまで繰り広げられていた陰鬱な場面から解放された人々が、身体を伸ばし、同じ桟敷の人間と談笑している。

 それでも、メルヴィナはうつむいて座ったまま、ピクリともその場を動かない。まるで何かを、深く考え込んでいるかのようだ。

 クルツもそれを見て、不思議そうに言った。


「どうしたのかな、彼女は。もしかして、お連れは気分でも優れないのでは? シンゼイ殿」

「さあ? いつもあんな調子ですがね。やたらに暗いと言うか……、主教の客人に言う言葉ではありませんが、陰気な女です」

「ご婦人にそのような物言いをするのは、どうかと思うがね」


 助祭長は、主教と近しい彼女に対し、含むところでもあるのだろうか。随分と棘のある言い方をした。

 そしてそれをクルツが柔らかくたしなめたのは意外だった。先ほどのシンゼイの失言に対する意趣返しだろうか。


「どちらにしても、お連れの話から妙に話題が逸れてしまった。引き留め過ぎるのも良くない。シンゼイ殿、今夜はわざわざすまなかったな」

「いえ、とんでもございません。では、私はこれで。……いずれ、何か進捗がありましたら、ご連絡を差し上げます」

「ああ、頼んだ」


 一目でそれと分かる、教会所属の者に特有の辞儀をしたシンゼイが、桟敷から引き下がっていく。クルツは自ら扉を開けて彼を見送った。

 扉が開いた時、廊下に立っているリグスが、中の様子を見て怪訝な顔を浮かべた。彼はアルフェから漂う不穏な空気を感じ取ったようだ。


「さあ、今日の仕事はこれで終わりだ。あとは、芝居の方を楽しませてもらうとしようか。アルフェさんも、気楽にしてくれて構いませんよ」


 二人きりになった桟敷の中で、ひじ掛け付きの椅子に深く腰を下ろしたクルツが、脚を組んでそう言った。

 第三幕が始まっている。だが、舞台の光景は、もはやアルフェの頭の中には入ってこない。アルフェはまだ、主教の桟敷に座っている黒髪の女を注視している。


 ずっとうつむいていたその女が、ゆっくりと顔を上げた。シンゼイが帰ってきたのだ。シンゼイは席に着こうとしない。二言三言、二人は言葉を交わしたようだ。女が立ち上がる。

――もしや劇の終幕を待たず、これで帰るつもりだろうか。そう思った時、言葉は既に、アルフェの口を突いて出ていた。


「申し訳ありません。少し、席を外させて下さい」

「ん? ……ああ、なるほど。分かりました。どうぞ」


 ――化粧直しにでも行きたいのだろう。そう見当をつけたか、突然職場を離れたいと言い出した護衛を、雇い主は特に引き留めようともしなかった。

 アルフェは自分で扉を開けて、桟敷の外に出る。外に立っていたリグスが、驚いて声を出した。


「どうした? 何かあったか」

「すみませんリグスさん、少し中を代わってください」

「え? そ、そりゃ、少しくらいなら……」

「お願いします」

「あ、おい――」


 うろたえるリグスを後に置いて、アルフェは小走りに人気のない廊下を進む。

 あのメルヴィナという女は、アルフェの知らない何かを知っているはずだ。それをここで、みすみす逃すわけにはいかなかった。



「失礼しますよ」


 野太い声とともに桟敷の重たい扉が開いて、大柄な傭兵隊長がのっそりと入ってきた。

 頬杖をついて舞台を見ていたクルツは、ちらりと彼に目を向けて言った。


「なんだ隊長。どうしたのだ?」

「アルフェが席を外したので。クルツ様をお独りにするわけにはいかんでしょう」

「ふん、……私も子供ではないんだ。そこまで神経質になられると、侮られているような気分だよ」

「まあまあ。――ところで、アルフェと何かありましたか? あいつにしては、妙に焦っていましたが」

「女性には、男に言えない事情というものがあるのだ。そういう時には、何も聞かないのが紳士の作法だ。野蛮な貴公には、理解できんだろうがな」


 皮肉交じりのクルツの言葉に、リグスは少し考え込んだあと、得心がいったようにうなずいた。


「ああ、なんだ、便所ですか」

「いちいち口に出すな」

「了解です」


 リグスはてっきり、クルツがアルフェの尻でも触ったかと思っていたのだ。しかし、それならそれで、この坊ちゃんがこうして五体満足でふんぞり返っているのはおかしい。納得したリグスは、黙って雇い主の後ろの暗がりに立った。

 するとクルツが、彼にしては珍しいことを言い出した。


「どうした隊長。せっかくなのだ、座ればいい」

「……は?」


 舞台から視線を外さず、クルツは空いている席を指さしている。いったい何の気まぐれだろうかと、リグスは訝しんだ。


「……やめときますよ。無礼を働いてしまうでしょうからな」

「どうせ我々以外には、誰も居ない。たまには構わん。それに、隊長は芝居など見たことはあるまい? 教養を付けるために見物してはどうだ」


――生意気なガキだ。相変わらずの見下した口調に、気分を悪くしたリグスであるが、彼がそれを面に表すことはない。


 自分の半分くらいの歳の小僧に、あごで使われる。それも、こんな世間知らず、苦労知らずのガキに。情けないとは思うが、これが自分の稼業だ。この金づるを手放せば、世渡り下手な自分は、またいつ次の雇い主を見つけられるか知れない。

 数十人の男たちを食わせていくには、何よりも金、それもかなりのまとまった金が要る。平時に冒険者の真似をして食つなぐことにも、限界がある。団員の口を干上がらせないためには、大人に対する物言いを知らないこの坊やとも、腰を低くして付き合わなければならないのだ。


「仰る通りです。俺には芝居の良し悪しなんぞ分かりません。ですから、隣は遠慮させてもらいます」

「……そうか」


 リグスはやんわりと断りを入れた。クルツもそれ以上、強いて勧めようとはしてこない。


 先の言葉通り、リグスには演劇の良さなど分からない。物心ついた時から傭兵として生活してきたリグスに、そんなものに心を傾ける余裕などなかった。

 席の後ろに立っていても良く見えないが、演劇は滞りなく進行しているようだ。騒がしい音楽が鳴り、役者たちがわめく声が聞こえる。


「……一人で観ても、つまらんものだがな」


 音楽にかき消されて、前に座るクルツの独白は、リグスの耳には届かなかった。 



 クルツとリグスがそんなやり取りをしていたころ、アルフェは劇場の廊下を駆けていた。幕が開いている今、廊下に人影はほとんどない。えんじ色の絨毯の上を走るアルフェの無作法を、とがめる者もいなかった。

 この辺りの廊下には、同じ様な桟敷のドアが並んでいる。クルツの桟敷は四階、主教の桟敷は三階席にあった。分かるのはその程度で、初めての劇場に土地勘などない。適当にあたりを付けて、アルフェは勢いよく扉の一つを開いた。


「きゃっ!?」

「な、何だ君ィ!」


 一つの椅子の上でむつみ合っていた恋人たちが、がばりと身を起こした。男女の肌は紅潮し、女の方の肩がはだけている。二人はまさに、お楽しみの真っ最中だったようだ。


「――ちッ」


 ――外した!

 軽く舌打ちしたアルフェは、舞台の方に身を乗り出し、現在地を確認する。恋人たちは突然の乱入者に対して、抗議の声を上げているが、少女は全く耳を貸そうとしていない。


 ――……四つ隣!


 角度が悪く、内部までは見えない。だが、おそらくあそこが主教の桟敷だ。


「君、ちょっと! 失礼じゃないか!」


 踵を返して扉に向かう少女の肩を、男の手がつかんだ。その瞬間、アルフェの手の甲が、目に見えない速度で男のあご先をかすめる。

 脳を揺らされた男は昏倒し、女の方は、震えるばかりで声もない。詫びの一言も言わず、アルフェは再び廊下に出た。明らかに冷静さを欠き、軽率な行動をしているアルフェだったが、それを省みる心の余裕は、今の彼女には無かった。


 ――ここだ!


 改めて主教の桟敷の前に立ったアルフェは、両手で扉を開く。だが――


「いない……!」


 中には全く人影が無い。既に帰ってしまったのだろうか。

 いや、そんなに時間は経っていない。アルフェは心の中で首を振る。助祭長とあの女は、まだ劇場を出てはいないはずだ。

 ならば、出口でつかまえよう。そう考えたアルフェは方向を変え、劇場の出口に向かう階段を目指した。


「――! 待って!」


 階段に向かう途中で、ちらりとだが、ドレスを着た後ろ姿が見えた。あの女かもしれないと、アルフェは声を上げて引き留めた。しかしその人影は、ドレスの裾を翻して廊下の突き当たりを曲がっていった。


「くっ!」


 さらに加速して、戦闘時の速度でアルフェは走った。廊下を曲がると、彼女は幾百本ものろうそくに照らされたホールに出た。正面玄関から最上階の四階までつながっている、石造りの大階段がそこにある。


 そしてその階段の前には、アルフェを待っていた人影が一つ。

 だがしかし、その人影は、メルヴィナというあの女ではなかった。いや、それは人間ですらなかった。


「――レイス!?」


 アルフェは叫ぶ。幻覚かと、一瞬我が目を疑ったが、間違いではない。

 これまでにも何度か戦ったことがある。幽鬼とも呼ばれる、浮遊する女の霊。個体にもよるが、単独で村の一つや二つは簡単に滅ぼすことができる強力なアンデッド。

 周囲の色を奪い、空気を歪めるほどの瘴気が、アルフェの前にいるそれから発散されていた。


「どうしてこんな――!」


 こんなところに、なぜこんなものが。ここは結界の中心部と言っても良い大都市のただ中である。それは当然の疑問であった。

 悪霊の気配など、今の今まで全く感じなかった。だが今そこにいる幽鬼は、強烈なまでの存在感を放ち、アンデッドが持つ生者に対する憎悪を、アルフェに対して痛いほどに向けている。


 すり抜けるか、それとも戦うか。頭が判断する前に、アルフェの身体は戦闘準備を整えていた。筋肉が緊張し、体内の魔力が高まる。

 アンデッドの虚ろな眼窩が見据えているのは、疑いようもなく自分なのだ。あまりにも前触れなく、突如として出現した幽鬼ではあるが、遭遇してしまった以上、滅ぼさなければならない。


 その上、自分には時間が無いのだ。ならば、今持てる最大の威力を持った技で、一撃で幽鬼を消し飛ばす。


 そう決断した彼女の、次の行動は敏速だった。魔力により強化された爆発的な瞬発力で、アルフェは相手の懐に入る。卵の腐った様な酷い臭気が、少女の鼻を指した。それにも構わず、アルフェは床の大理石を砕かんばかりに右脚を踏み込み、背中から全身を叩きつけた。

 幽鬼の爪が少女の体に食い込むより早く、アルフェの攻撃が相手に命中した。手ごたえは十分、耳障りな悲鳴を残して、レイスの幽体が空中に霧散していく。

 このレイスは決して弱い個体では無かった。にもかかわらず、それを瞬きの間に葬ったのは、彼女の技量が着実に向上していることを意味するのだろう。


「――ふぅ」


 アルフェは一つ息を吐く。

 無駄な足止めを食った。どうしてこんな魔物が、市街の劇場に出現したかは定かではないが、早くあの女の追跡を再開しなければならない。


「ひぇえ!?」


 その時、アルフェの背後から若い男の悲鳴が響いた。――見られてしまった。騒ぎにされると面倒だと思いながら、彼女は後ろを振り返る。そして振り向いた彼女の目が、またも驚愕に見開かれた。


「――ゆ、幽霊!」


 腰を抜かした青年が後ずさりしながら指さしているのは、アルフェでも、今しがた滅ぼしたアンデッドの残滓でもない。


「な――」


 アルフェは絶句する。


 この劇場の従業員らしい男の指の先には、その言葉通り、もう一体の幽鬼が浮遊していた。

 ボロボロのドレスに、振り乱された髪。闇に開いた穴の様な瞳に、骨と皮に痩せた体。姿は先ほどのレイスと、ほとんど変わらない。

 二体目の幽鬼の出現。これはもう、万一の偶然ではあり得ない。


「きゃぁああ! 幽霊!」

「ばかな……! レイスだと!? なぜ街中に!?」


 間の悪いことに、反対側の廊下の奥から、更に二人が通りかかった。年配の男と、その娘らしい女子だ。父親の方は軍属らしく、腰に剣を佩いている。彼はすぐに魔物の種族を看破すると、戸惑いながらも剣を抜き、娘を後ろ手にかばった。


 階段ホールにいる四人の人間。その中でアルフェが、最も魔物から遠い位置にいる。

 二体目の幽鬼が最初の標的にしたのは、その足元に腰を抜かしている従業員の青年だった。彼は両脚をばたつかせて欄干にすがり付き、必死に幽鬼から離れようとしている。

 ゆらり、と、肉体の重さをまるで感じさせない動きで、幽鬼が青年に近寄った。


「ひぃぃ! いやだ! たす――ゴッ、ぼ」


 アルフェが遮る暇もない。幽鬼は片手を男の側頭部に添えると、もう片方の手で、その喉を刺し貫いた。

 口から血の泡を噴き出した若者を、魔物は優しく、我が子を寝かしつけるように横たえる。幽鬼はぶつぶつと何かを呟きながら、いかにも満足げに、その口元に、歪んだ三日月のような笑みを浮かべた。


「見るな!」


 大声で叫んで娘を背中に隠した父親は、悪霊の異常さに身震いした。これだけの近距離で、幽鬼の狂態を直視しながら、パニックを起こさずに剣を構えることができる。彼は確かに、それなりの訓練を積んでいる。

 しかし彼がその手に握っているのは、なまくらではないにしても、ただの鋼の長剣だ。魔力などかけらも宿っていない。その刃は霊体には通らないだろう。


「――逃げろ!」


 それでも彼はそう言うと、廊下の入口をふさぐように陣取って、娘の肩を突き飛ばした。


「お、お父様!」

「逃げなさい!」


 彼はもう一度繰り返した。だが、父親の激しい叱咤を受けても、娘の脚は動かない。

 身を起こした幽鬼が、親子の姿をその目に捉えた。その半身が、犠牲者の血で染まっている。漂う新鮮な死の気配により、悪霊の力はさらに増大したように見える。


「――すううう!」


 細長く息を吐き、彼は幽鬼の攻撃に備えた。

 ――もって、一撃か二撃。それでも、娘が逃げるだけの時間は稼いでやろう。命を捨てる覚悟を決めた父親だったが、幽鬼はものに襲われたように、その後ろを振り向いた。


「――!」


 背中から踊りかかってきたアルフェの身体を、振り向きざまに幽鬼の爪が薙ぐ。しかし、その赤く濡れた手は空を切り、ぱたぱたと落ちた血の雫が、柱や壁に小さなしみを作った。

 幽鬼の爪が届くより速く、アルフェはその上体を床につくほどに低く沈めている。


 そして全身で溜めを作った彼女の手刀が、幽鬼の実体を持たない身体を、下から縦に切り裂いた。


 ――浅いッ!?


 弧を描いた手刀の軌跡は、幽鬼の身体の中心線から、やや右にずれた。アンデッドに言うのは妙な話だが、それは致命の一撃にはなっていない。


 指の長さの倍ほどに伸びた、幽鬼の鋭い爪が、アルフェに向かって振り下ろされる。だが、彼女の動体視力は、その動きを完璧にとらえていた。余裕をもってその攻撃をかわし、カウンターで止めを刺すことができる。アルフェはそう確信したが、幽鬼が思わぬ行動をとったため、彼女の目論見は外れた。


「せい!」


 気合と共に突き出された父親の長剣が、幽鬼の腹部を背中から貫いた。しかしその攻撃は、幽鬼にいささかの損傷も与えていない。まるで霞を裂いたように手ごたえの無い感触が、彼の手に伝わった。

 何の痛苦も感じていないにしても、幽鬼はそれで動きを止め、狙いをアルフェから男に移した。幽鬼の首だけが百八十度回転し、男に向けて亡者の叫びを――


「手を出すなッ!」


 若い娘の声で放たれた乱暴な言葉が、男の耳に刺さる。それと同時に、アルフェの掌底が幽鬼の下あごに命中した。開かれた幽鬼の口が、無理矢理に閉じられる。


「逃げなさい!」


 ――やはりだ、とアルフェは思う。このレイスは、硬い。もともとそれだけの力を有していたのか、それとも人間を一人手にかけたことで、悪霊としての力を増したのか、それは分からない。だが、一体目の幽鬼よりも、確実にこちらの方が手強い。しかし――


「呼ォォォオオ!」


 幽鬼がよろめいた隙に、アルフェは集気で急速に魔力を練る。魔力の濃度が変化した事で、周囲の燭台の炎がゆらめき、その幾つかが掻き消えた。

 そして次の瞬間、無言の気合と共に、アルフェの双掌打が幽鬼の胸目掛けて放たれた。

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