第42話
芝居の幕が上がった。楽団が演奏を始め、役者たちが歌うように語り出す。さっきまであれだけ騒いでいた客たちは、水を打ったように静まり返り、舞台という空間に作り出された一個の世界に見入っている。
そしてそれは、アルフェも例外ではない。
護衛としては不適切だが、初めて見る舞台で繰り広げられる幻想的な光景に、彼女はほんのひと時、心を奪われていた。
演目は、良く言えば王道の、悪く言えばありきたりな物語だ。
帝国の基となった王国を築いた英雄を主人公とした、建国の神話。この国に住む人間ならば、必ず一度は耳にしたことがあるストーリー。アルフェも本で読んだことがある。役者たちの力か、それとも舞台の魔力と言うべきか、よく知っているはずのその筋立てが、胸に迫って響いてくるのは。
姿勢を正したまま、アルフェはまばたきもせずに舞台上を見つめていた。
しかし彼女の護衛対象であるクルツにとっては、舞台の上で行われていることは、見飽きる程に見た陳腐なものだ。老練な男優の演技も、魔術を用いた新しい演出も、彼に対して、さして感動を与えることはない。むしろあくびをかみ殺すので精一杯だ。
クルツにとっては舞台よりも、隣に離れて座っている冒険者の少女の方が、遥かに興味深い存在だった。
だが、彼は先ほどアルフェに手ひどくたしなめられたばかりである。クルツは露骨な口説き文句を口にすることを控えて、一応は舞台の方に目を向けていた。それでも時たま、ちらちらと横目で少女の様子をうかがっている。
「……」
舞台の光に淡く照らされた、彼女の無言の横顔は、呆れるほどに美しい。お世辞ではなく、クルツはそう思う。大理石の様に滑らかな肌は、瞬きし、呼吸に胸が上下するのを見なければ、精巧な彫像と言われても納得する。こんな女性を、クルツはかつて見たことが無かった。
同時に、本当にこれがリグスの言うような腕利きの冒険者の顔なのか、とも考える。
冒険者というと、リグスやその配下の傭兵たちのように、むさくるしく礼儀も知らない、野卑な男たちばかりだと思っていた。しかしこの娘には、クルツが社交界で相手をしてきたどの令嬢にも引けをとらないだけの、ある種の気品が備わっている。
先日の晩餐会に同行させた時も、彼女は完璧に場の作法を心得ていた。会場に向かう前、クルツの居館で、侍女に彼女のテーブルマナーの指導を申しつけたが、逆に侍女の方が恐縮し、引き下がってくる始末だった。
さらに、それだけではない。それだけならば、彼女がここまでクルツの気を引くことは無かったはずだ。
八大諸侯の一人であるエアハルト伯の第二子として、美貌を誇る婦女子は、これまで何人も目にしてきた。
しかし彼女には、今までクルツがどの女性にも感じたことのない“何か”がある。
初めて会った時から、クルツは彼女を見ると、胸の動悸が止まらなかった。
さっきもだ。彼女のあの蒼い瞳で見つめられると、得体の知れない胸の高鳴りに襲われて、クルツの身体は動かなくなる。小刻みに手が震え、背中が汗で濡れる。これは未だかつて、彼が感じたことのない感覚だった。
自分の中に湧き出すこの想いは、一体何なのだろう。
――ひょっとしたら、これが……。
恋、というものなのだろうか。
桟敷の外、廊下の扉の前で仁王立ちしているリグスがこれを聞いたら、即座に否定したに違いない。クルツはおそらく、それとは全く別の感情を、アルフェに対する興味とはき違えているだけだ。
「……何ですか?」
その声に、クルツははっと我に返った。いつの間にか、アルフェが舞台から目を外し、クルツの方を見ている。どうやらまた、クルツは我知らず、アルフェの姿に見入っていたようだ。
「い、いや、何でもない。――そ、そう、客人はまだかと思ってね」
「幕間までは、いらっしゃらないのでしょう?」
「あ、ああ、そうだ。そうだが、待ちきれなくて」
息苦しそうにシャツの胸元をいじりながら、クルツは慌てて、どぎまぎと言い訳をする。
「そうですか」
それだけ言って、アルフェは視線を舞台に戻した。
第一幕が終わるまで、桟敷の中で行われた会話は、それだけだった。
王となる男が、大地を荒らす邪龍の討伐を決意し、天にその誓いを立てたところで、第一幕は終わった。
幕間になり、休憩のために平民たちが平土間から出ていった。劇場内にこもった熱気が、人の群れと共に動いていく。
桟敷席の客は、顔を出すべき別の桟敷へと移動を始めた。そこかしこの桟敷で、顔を寄せ合って囁き合う人々の姿が見える。リグスの言葉ではないが、貴族連中にとって、劇場は演劇を見に来るためのものではなく、社交が目的の場であるようだ。
「旦――おほん。クルツ様、客人がお見えです」
打ち合わせた通りの規則的なノックが響き、扉を開けたリグスが、桟敷内に声を掛ける。クルツは立ち上がり、入ってきた壮年の男を出迎えた。
「やあ、よく来てくれた」
「御無沙汰しております、クルツ様。お変わりないようで」
そう挨拶した男は、見た目からは教会の人間だとは分からない。男は祭司服ではなく、普通の夜会服を身につけていた。
「シンゼイ殿も久しいな。――主教のお加減は?」
「余り、芳しくはありません」
「前よりもか?」
「……はい」
「……ふむ、そうか。君も、助祭長として忙しいことだな。まあ、掛けてくれ。立ち話もなんだ」
「はい、では遠慮なく。……おや、こちらの女性は?」
薄暗い桟敷の中だ、クルツにシンゼイと呼ばれた男は、席に着こうとしてようやくアルフェの存在に気が付いた。
アルフェはドレスの裾をつまみ、男に向かって辞儀をする。
彼が少し眉をひそめているのは、密談の場に知らない女がいることを、とがめてでもいるようだ。
「ああ、気にしないでくれ。信頼できる女性だから。……ここのところ物騒でね。私の護衛だ」
「……護衛? これが? ……そうですか」
密議の場に、ただ愛人を連れてきていると思われたのでは、流石に都合が悪いと考えたのだろう。クルツはアルフェの立場を説明したが、シンゼイは納得した様子ではない。それでも目上のクルツに対して、異を唱えることはできない様子だ。シンゼイはクルツの隣に席を取り、話を始めた。
「手配の方は、順調か?」
「はい。資金調達の折は、御迷惑をおかけしました」
「いいさ、我が領民のためだ。それで、いつ頃になる?」
「急がせてはおりますが……」
「早くしてもらわなくては困る。……父上の容体も、あまり良くない」
夏を越えるのは難しいかもしれない。そう言った時のクルツの表情は苦しげだった。
「このままでは兄上――奴が伯を継ぐことになるぞ。あの男が、その時に君たち教会をどう扱うか、想像できるだろう」
例によって、アルフェは何の興味もないという表情で、舞台の方を見つめている。
だが、その耳は二人の会話を聞いていた。
「秘蹟に必要な遺物が、まだ帝都から届かないのです」
「……またそれか」
クルツが何かを急かし、シンゼイは教会の代表として、その弁明をしている。
先ほど、クルツは主教と言った。主教とは、各地の聖堂を管理する、それぞれの地域の教会の長だ。この男、シンゼイはその助祭長だという。となると彼は実質、このエアハルト領における、教会勢力の第二位の位置にいる人物だ。
それがこんなところで、次代の伯を争う男と、何の密談をしているのか。
「申し訳ありません。しかし、新たな結界を張るには、遺物の存在が欠かせないのです」
――新しい、結界?
シンゼイの放ったその単語が、特にアルフェの耳を引いた。
「だから、必要なものを教えてくれれば、こちらで調達すると言っているのだ。聖堂の外側だけでき上がっても、中身が無ければ無意味だろう」
クルツの声色からは、彼の苛立ちが読み取れる。
「結界に関する秘蹟は、秘儀中の秘儀です。遺物について、教会外の方にお教えする訳には……。……実のところ、私も詳しい中身を存じ上げませんし」
「……もういい、分かった。その遺物が届けば、結界は完成するのだな?」
「それはもう、すぐにでも」
「では、私は引き続き聖堂の建設を続ける。だが、奴にこの動きを悟られるのは時間の問題だ。だから君は、その遺物とやらを一刻も早く調達してくれたまえ」
「はい、お任せ下さい」
二人の密談は続いている。
アルフェの中には、少なからぬ驚きがあった。いつの間にか再開している演劇の内容も、頭に入ってこない。
新しい結界を作る。確かに彼らは、そのための話をしている。
この世界において、人類の生存圏とはすなわち結界の内側のことだ。帝都の大結界をはじめとして、帝国内の各領邦には、それぞれ独立した結界が設置されている。このエアハルトも、都市ウルムの近郊にある大聖堂を中心として広がる、広大な結界の中にあった。
いや、領邦に結界が設置されているというのは、厳密に言えば適切ではない。まず結界があり、その上に出来た魔物の空白地帯に、人間は営みを築く。結界という前提があってこそ、都市や国家は成立するのだ。
目に見えぬ結界の外に一歩出れば、いつ魔物に襲われてもおかしくない。結界の外側に住もうとする者は、あのオークに襲われた開拓村のように、相応の危険と隣り合わせに生きることになる。
アルフェは一年間の放浪の中で、結界の外に生きる人々の現実を目にしてきた。今日の平穏な生活が、明日には地獄絵図に変わっている。結界の外はそういう世界だ。
結界の内側にしか人が住めないならば、結界を拡げればよい。
誰もがそう考えたことがあるだろうが、それが行われた事例は、アルフェの知る限りでは無い。
街道沿いなどに、簡易的な結界が作られることはある。大きな街道に、等間隔に立っている石柱がそれだ。だがそれは、便宜上結界と呼ばれているだけで、中身はただの魔物除けの臭い袋が詰まっている。魔物が多少寄り付かなくなる程度の代物で、町の道具屋にも置かれている。クルツたちが言っているのは、そんなものではない。正真正銘、「本物」の結界のことだろう。
クルツたちは、新しい結界を張ろうとしている。そしてそれを、クルツが伯の後継者となるための、逆転の一手としようと考えているのだ。
だが、そんなことが可能なのだろうか。
教会が結界を拡げないのは、単純にそれが難しいからだと聞いた。
結界に関する技術は、神の御技に属するものである。その大部分は神代の昔に失われ、今あるのは、それを維持管理するための儀式だけなのだと。それは誰でも知っている、教会の基本的な教義だ。
その秘蹟を、ここにいるクルツたちが見つけ出したというのか。にわかには信じがたい。本当ならば、もっと大々的に喧伝されていてもおかしくないはずだ。
「新たな結界が、どれほどの効力を発揮するかは分かりません。ですが恐らく、十里四方を覆う力はあるかと」
「十分だ。重要なのは広さではない。新たな結界を創出したという、事実そのものなのだからな」
十里四方。思ったよりは広くない……のだろうか。アルフェには上手く想像できなかった。
しかし、クルツの言う通りだ。それだけの領域を新たに人間の世界に組み込んだとなれば、領民は歓喜し、教会の、ひいてはクルツの権威は大きく高まるに違いない。それ程の業績だ、彼が兄に対抗する秘策として捉えるのもうなずける。
だが、アルフェには彼らの語っていることが、眉唾の夢物語のようにしか感じられなかい。
「別荘の建設と偽って、既に資材は運び入れた。基礎も大方できあがっている。重ねて言うが、あとは遺物さえあれば、必要なものは揃うのだ」
「承知しております」
「教会とて、いつまでも旧い結界の維持に執心していたのでは、いずれ信仰の低下は免れない。それこそ奴の様に、教会を疎ましく感じている者たちの思うつぼだ」
「……」
「それに、この計画が成功すれば、新たな主教に君を推すことも容易だ。だからこそ……、分かっているな?」
「はは、それはもう」
「よし」
クルツと助祭長シンゼイの生臭い話は、それで一段落した。男二人、密着しそうなまでに近づけていた顔を離し、あとはぽつぽつと、アルフェの知らない人間の話題を続けている。そちらは秘匿する内容でもないのか、笑いを交えながらの、気楽な雰囲気での会話だ。
今の話を聞いて、アルフェの中にも、若干の興奮が残されていた。それを面に表さないようにしながら、再び演劇の方に目を向ければ、第二幕が佳境を迎えていた。
王となる男と敵対者の男が、舞台で激しく剣を交えている。その奥には美しい姫がくずおれ。二人の戦いを止めようと、悲痛な叫びを発していた。
「……メルダ嬢の演技はさすがですな」
「いや、彼女は悲劇向きの女優ではないよ。せっかくの個性が殺されている」
「なるほど。クルツ様の見識は素晴らしい。そう言えば、新人の女優の中に――」
クルツと助祭長の話は、役者の評価に移ったようだ。それなら静かに見ればよいのにと思いながら、アルフェは演劇に意識を戻す。舞台の上を光が飛び交い、火花が散る。魔術やそれ以外を用いた派手な演出に、観客のどよめきが上がる。
王となる男は、敵対者の猛攻の前に不覚を取り、その剣を取り落とした。無防備になった男の前に、敵対者の剣が迫る。その刃がまさに届こうとした時、王をかばった姫の胸から、鮮血がほとばしった。
筋書き通りの展開だ。役者たちの迫真の演技に、平土間の平民たちは大興奮していたが、クルツはひどくつまらなそうに言った。
「そろそろ、第二幕も終わりか」
「左様ですな。では、私はこれで、引き上げさせていただきます」
「主教の桟敷に戻るのかい? 別に終幕まで、ここに居ても構わないが。酒と夜食でも出させようじゃないか」
「いえ、これ以上、クルツ様とお嬢様の邪魔をするのはよしましょう……。それに今夜は、私の方にも連れがおりますので」
「連れ? 珍しいな。ご婦人か?」
「まあ、そうなのですが」
「君がかい? それは見てみたいな。主教の桟敷は――、ああ、あそこか。……ほほう、黒髪とは珍しいな」
クルツが少し前に身を乗り出して、他の桟敷の様子を探る。万一のことがあっては危ない。護衛として、一応はそう注意しようかと思いながら、アルフェも何とはなしに、クルツの視線の先を追った。
「――!」
その瞬間、アルフェの目が大きく見開かれ、顔面が蒼白になった。
クルツの桟敷と対角に位置する所に、主教の桟敷はあった。
教会の所有にしては、少し派手な装いの桟敷。しかし、そんなことはつまらない問題だ。重要なのは、その中に座っている人間の方である。
簡素なドレスを着た、一人の女。アルフェはその女に、見覚えがある。
「――あの女性、は」
「ああ、君にも見えるかい? ……美しいな。確かに、美しい。儚げではあるが、それがまたいい。シンゼイ殿も、隅に置けない」
「いえ、私の愛人ではありませんよ。話せば長くなるのですが……」
クルツとシンゼイの話は、アルフェの耳に届かない。それだけでなく、今この瞬間、その女性以外のすべての物が、アルフェの五感から抜け落ちた。
「――あれは」
会ったのは一度だけだが、確かに覚えている。
アルフェはあの町で、ベルダンの町で起こった事を何一つ忘れてはいない。今でも全てを、鮮やかに思い出せる。それは何もかもが大切な思い出だ。
想いを遂げるために、憎しみを風化させないよう、彼女はあの時の全てを、心の中で反芻し続けてきた。その風景の片隅に、あの女の顔がある。
「あれは、あの時の」
病的なまでに青白い顔。あの女は、ベルダンにいたころのアルフェを訪ねてきた。従者クラウスの伝言を持ってきた、あの女だ。
舞台の上では、姫を殺した敵対者が、後悔と嘆きの言葉を漏らしている。青白い顔の女は、物憂げな顔で、その光景をじっと見つめていた。
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