第44話
幽鬼の透けた身体が、恨みの言葉を残しながら虚空に溶けていく。
数瞬後、アンデッドの気配は完全に消えた。それでも先ほどと同じ轍は踏むまいと、アルフェは構えを解かずに周囲を警戒していたが、三体目の敵が出現する様子はない。
どうやら危険は去ったようだ。剣を握っていた父親は、安堵のあまりがっくりと膝をつき、その背中に娘が泣きじゃくりながら取りすがった。
「お父様! お父様……!」
「……大丈夫、もう大丈夫だ。安心して」
死地を逃れた親子は、頬を摺り寄せながら、お互いの無事を喜び合っている。しばらくの間、階段ホールには二人の囁き声と、場内から聞こえてくる、くぐもった拍手の音だけが響いていた。
「……」
二体の幽鬼を滅ぼしたアルフェは、黙ってその場に立ち尽くしている。
不意の戦闘に、かなり時間を取られてしまった。おそらくはもう、助祭長とあの女は劇場を出ただろう。大階段の下に目を向けながら、アルフェはそう考えた。
彼女自身を狙った一体目はともかく、二体目には構わずに二人の後を追うという選択肢もあっただろうが――
「良かった。……お前が無事で、本当に良かった」
「お父様……、ぐすっ」
見失ってしまったものは仕方がない。
あの女が、ウルムの大聖堂に滞在しているという情報は得たのだ。接触する機会は、また作ることができる。
闘いを終えて、血が上っていたアルフェの頭にも冷静な思考が戻ってきていた。
「どうしました!? 悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか!?」
「わああ! し、死んでる! 人が死んでるぞ!」
物音を聞きつけて、徐々に人が集まってくる。アルフェにとって歓迎すべき状況ではないが、あれだけ騒げばやむを得ない。
「誰が……!? あ、あなたがやったのか?」
レイスに喉を貫かれた若者は、恐怖に歪んだ表情を残したまま絶命している。死んでいる若者と周りにいる三人を見比べて、必然的に、抜身の剣を手に持っている父親に注目が集まった。
父親は、即座に声を張り上げて疑いを否定し、集まった野次馬に、事情を説明しだす。
「違う! 私ではない! ……アンデッドだ。レイスが出た」
「レイス!? そんな馬鹿な!」
「本当だ。……私にも信じられないが。私の娘も……、そこのお嬢さんも見ている」
父の嫌疑を晴らすべく、娘の方も、涙で化粧の崩れた顔を必死で縦に振っている。野次馬の一人が、アルフェに意見を求めた。
「お嬢さん、本当ですか……?」
「……はい」
心ここにあらずと言った様子で、アルフェも父親の言葉に同意した。
よく見れば確かに、父親の剣に血糊は全く付着しておらず、それを使って若者を殺したとは少々考え辛い。ならば本当に、アンデッドが場内に出現したとでもいうのか。半信半疑ながら、人々は薄気味悪そうに自分の背後を気にしている。まるで、暗がりから襲ってくる何かを警戒するように。
さっきアルフェに質問してきた男も険しい顔で辺りを見回した後、父親に聞いた。
「で、そのレイスは今どこに?」
「……消えた」
「消えた? その剣で、あなたが倒したのか?」
「い、いや、違う。見ていたが、良く分からなかったんだ。殺された青年の次に、そのお嬢さんを、レイスが襲って……」
そこで言葉を切って、父親はアルフェの方をちらりと見た。だが、すぐに首を振って続ける。
「そ、それからどうなったのか、私にも分からない。本当に分からないんだ。……だが、レイスは確かに消えたんだ。信じてくれ」
「どういうことだ……?」
「言い逃れしようと思ってるんじゃないか? こんな所に、アンデッドなんか出るわけが――」
「お父様は嘘なんかついてません!」
「どっちにしても、ここでそんなこと話してる場合じゃないだろう。とにかく人を――、支配人を呼んで来い!」
新しい魔物の出現に備えようと提案する者や、死体の様子をあらためる者。劇はまだ続いているようだが、段々と、階段ホールにいる人間の数は増えていく。
この騒ぎの収拾がつくには、相当に手間取りそうだ。
――まるで。
そんな背後の喧騒をよそに、アルフェはまだ、じっと階段の下を見つめている。
――あのレイスは、まるで……。
あたかも、アルフェの道を塞ぐように現れた。
なぜあのタイミングで、二体もの幽鬼が出現したのか。アルフェは改めて、その理由を考えていた。
◇
――いつまで、かかるのでしょう。
無骨な石造りの部屋の中、木の椅子に腰かけながら、アルフェは心の中で愚痴を言った。
彼女がこの部屋に通されてから、既に数時間は経っている。ここはエアハルト伯の居城の敷地内にある、衛兵の詰め所の一室である。
昨日の夜、アルフェが劇場で遭遇したレイスを倒した後、通報を受けた衛兵の一団が劇場にやってきて、それなりにひと悶着あった。
若者を殺した犯人が人間ではなくアンデッドだというのは、衛兵の調査ですぐに判明した。アルフェには詳しいことは分からないが、不死者により殺された人間特有の反応が、若者の死体に残っていたのだそうだ。
そのことが確認されると、衛兵を率いてきた士官の顔が、殺気立ったと言ってよいほど険しくなった。
ただちに全ての観客が外に出され、劇場は完全に封鎖された。そして、その後も続々と応援に駆け付けた衛兵によって、場内は隅々まで捜索された。しかし、アンデッドの姿は影もなかったという。
だが、結界の中にアンデッドが現れたのは紛れもない事実だ。その夜のうちに、伯の名前で都市全域に戒厳令が出され、市中の要所を衛兵たちが固める体制が作られた。
慌ただしくかつ物々しいことだが、結界の中に魔物、それもレイス程の強力なアンデッドが出現するというのは、それほどの非常事態、異常事態なのである。
翌朝になった今、アルフェがここにこうして大人しく座っているのは、もちろんそのことと無関係ではない。
アルフェたち、現場にいた者らに対する殺人の嫌疑は晴れ、その場での拘束などは受けなかった。その代わりに衛兵の詰め所への出頭を命じられたアルフェは、レイスの出現と消失について、彼女が見た限りのことを根掘り葉掘り聞かれていたのだ。
「すみませんお嬢さん、もう少しお待ちいただけますか」
「はい」
先ほどまで、大勢の役人や衛兵が彼女を囲んでいたが、一通りの聴取が終わると、彼らは奥に引っ込んだまま、全く戻ってくる気配が無い。
あの時居合わせた父娘も、別の部屋で同じように尋問を受けているのだろうか。
「どうぞ、お茶、飲んでください。……あ、冷めてますね。入れ直してきます。お茶請けとか、要りますか?」
「お構いなく」
「……そうですか」
アルフェと共に部屋に取り残された、衛兵にしては線の細い若者が、長時間待たされている彼女を気遣ってか色々と言ってくる。
それに対して適当に受け答えをしながら、アルフェは自分の、あまり頼りにならない雇い主の事を考えた。
――クルツさんは、どうなったんでしょうか。
劇場におけるアンデッドとの遭遇について、アルフェはあの後すぐに、クルツとリグスに報告した。衛兵が到着すれば面倒なことになるのは、考えなくとも目に見えていたからだ。それでも、クルツはこの領邦の有力者だ。多少のことはもみ消してもらえるだろう。彼女としてはそう期待したのだが当てが外れた。
――私を誰だと思っている。私はクルツ・エアハルト! 貴様たちの主、エアハルト伯の実子だぞ! 私に逆らうとはいい度胸だ。その職を失う覚悟があるんだな!
そう言って、クルツは大層憤慨して衛兵隊長を困らせていたが、結局最後まで、衛兵たちはただの一人も、彼の命令を聞こうとしなかった。エアハルト領の軍権は、クルツの兄、ユリアンが完全に抑えている。リグスが以前話していたことが、その光景を見てアルフェにも実感できた。
昨夜、新しい結界を作るという計画を聞いて、アルフェはクルツを知らぬうちに過小評価していたかと思い、少し彼を見直した気持ちになっていたのだが、やはりその必要はなかったようだ。
「あのぉ……、お嬢さんも、災難でしたね」
「はい」
「アンデッドがこの町の結界の中に出たのは、十年ぶりですよ」
「……」
「その時は僕も十歳だったので、細かいことは余り覚えてないですが……、お嬢さんはどうですか?」
「……私は、この町の人間ではないので」
「本当、大騒ぎだったんですよ」
この若い衛兵も手持無沙汰なのだろう。その十年前のアンデッドの出現について、アルフェが頼みもしないのに色々と語ってくれた。彼曰く、その時には家の中で殺害されたまま未発見で放置された死体が、下級アンデッドのグールと化して、多少の被害を出したのだそうだ。
「その時だってひどい騒ぎだったのに、今回はレイスですからね」
レイスなんか、僕は見たこともありませんよと、両手を拡げながら衛兵が続けた。
「……だから、上の人たちも色々あるんでしょう。死人だって出てますからね。城の中はもう、色々ひっくり返したみたいになってますよ」
「……」
「……でも、本当に遅いですね。どうしたんでしょう」
それはアルフェが聞きたい台詞だったが、彼としても、部屋の外で行われている話の進捗が気にかかるのだろう。しかしだからと言って、職務上、アルフェを一人にすることもできない。その結果が、退屈まぎれのこのお喋りというわけだ。
「もしかして、忘れられちゃったのかもしれませんね! はっはっはっは、は……」
「……」
「……すみません」
だが、ただでさえ普段から不愛想な上、不機嫌になっている少女との会話は、彼にはいささか難易度が高かったようだ。
「……あ~、そうだ。お嬢さんは、昨日の演劇を見てたんですよね、僕もいずれ行こうと――」
「入るぞ」
彼がそれでもめげずに話を続けようとした所に、ようやく人が戻ってきた。
「へ、兵士長。終わったんですか?」
突然開かれた背後の扉を振り返った若い衛兵は、少し腰を浮かせてそう言った。不意に話を遮られて、慌てた様子がその声色から読み取れる。
アルフェはというと、背筋を伸ばして椅子に腰掛けたまま、目だけを動かして入室者に視線を向けた。その表情に驚きはない。彼女は少し前から、この部屋に向かって歩いてくる人間の気配を感知していた。
兵士長と呼ばれた年かさの男は、若い兵士の問いかけを無視して室内に入り、そのまま壁際まで来ると、振り返って直立の姿勢をとった。
「兵士長? どうしたんです――、え? あ!」
その後から入って来た男が、もう一人。それを見て声を上げた若い兵士もまた、はじかれたように直立した。
「……っ!」
アルフェの肌が、その一瞬でびりびりと泡立つ。
ところで彼女には、放浪の生活の中で身につけた癖や習慣がいくつかあった。
食べるときはできるだけ素早く、できるだけ沢山食べること。他人のいる場所では深く眠らないこと。他にも色々だ。
その中の一つに、動いているものを見たら、最初に自分が勝てる相手かどうかを見定めること、というのがある。
魔物と遭遇しても、他の冒険者や兵士と出会っても、初対面の相手を前にした時には、ほとんど反射的に、彼女はまず、それと敵対した場合に、相手の息の根を止める方法――その時の自分の姿を、頭の中に思い浮かべていた。
誰に対しても、だ。リグスにも、クルツにも、ステラやリーフにも。――それこそ、道行く母親に抱かれた赤ん坊に対してさえも。
なぜか。そうしないと、安心できないからだ。旅の中で、不用意に相手を信じて、寝首をかかれそうになったこともある。だからまず、アルフェは頭の中で相手の首の骨を折ってみる。それでようやく、落ち着いて相手を見て話をすることができる。
冒険者稼業を続けていると、そうなるのだと誰かが言った。この世界で生きるためには、当然だとも。アルフェもそれが仕方の無いことだと考える反面、いつの間にかそんなことを考えるようになった己のことが、ひどく醜く、卑しいものに思えていた。
その習慣に従って、アルフェはこの一瞬で、部屋に入ってきた男たちに、頭の中で攻撃を仕掛けていた。兵士長と呼ばれた男は、あっけなく頭を割られて転がっている。しかし、次に入ってきた男の方はどうだろうか。
――……これは――。
椅子に腰かけたアルフェの姿勢は変わらないが、そのこめかみに、一筋の冷たい汗が伝う。
今の自分では、絶対に、どう戦ってもこの男に勝てない。それを確信したからだ。これまでも、勝算が薄いと思える相手に遭遇することはあった。それでも、これほどの相手に遭遇したことはなかった。
男は無手だ。何も武器を携えていない。素手の勝負ならば、彼女はリグス相手でも一方的に叩き伏せる自身を持っている。しかし、そのアルフェがそう感じるということは、両者の実力差は、相当のものであるということか。もしかするとあるいは、コンラッドに迫るほどの力を、この男は持っているかも――
――いや、違う。お師匠様より強い人間なんて、いない。
そう強く心の中で唱えることで、アルフェの動揺は鎮まった。
そんなアルフェの思考をよそに、男は直立している若い兵士の前まで来ると、落ち着いた声で言った。
「ご苦労。後は、私が引き継ぐ」
「は! ――は? え、いや、そ、それは――」
「了解しました!」
男の言葉に、どぎまぎとうろたえる若い兵士。すると兵士長が、勢いよく敬礼してその戸惑いを遮り、まだ困惑している彼を引きずるようにして退出していった。
そして兵士たちと入れ替わるようにして、さらにもう一人、男が入室し、部屋の扉を閉める。こちらは線の細い、文官風の男だ。
「……」
「さて」
机を挟んでアルフェの前に対しているのは、灰色がかった金髪の、不機嫌そうな顔つきの男だ。鋭い二つの目の間には、深いしわが寄っている。
兵士長たちの態度から察するに、かなり高位の人間のようだが、服装からはそう見えない。質素な軍服風の装いで、外見だけでは、先ほどの兵士長とどちらが上の身分か分からないだろう。
男はさっきまで若い兵士が座っていた木の椅子を引くと、それに腰掛けた。
「直接話を聞かせてもらいたい」
名乗りもせず、男がそう言う。丁寧な口調だが、有無を言わせない言い方。アルフェが既に長時間の尋問を受けている事には、あまり配慮する気が無い様子だ。
「……どうぞ」
「君は、クルツの恋人だそうだが」
「え?」
いかに軽んじられているとは言え、男は伯の子息を呼び捨てにした。アルフェには、目の前の人間が何者か、だいたい想像がついている。それでもさすがに、この無遠慮な切り出し方には驚いた。
「違います」
「ではなんだ? 昨夜はあれと一緒に、劇場にいたのだろう?」
「……」
何をどこまで話していいものか、アルフェは少し迷う。これまでの尋問者は、レイスの出現と消失の経緯については詳しく聞き込んできたものの、このように、彼女と雇い主の関係についてまで、深く踏み込みはしなかった。
「その話と魔物に、何か関係があるのですか?」
「無い」
「では、答える必要がありますか?」
「……」
しばしの沈黙。その間も、男の射貫くような視線は、アルフェの上から動かなかった。アルフェもまた、男の目を真っ直ぐと見据えている。
「……レイスを倒したのは、君だな?」
「……」
男の直接的な問いかけには、確信が込められていた。ごまかしても無意味だろうが、かといって証拠がある話でもないはずだ。だからアルフェは、沈黙を選んだ。
「否定しないのか? アルフェ……」
「姓はありません。アルフェで結構です」
「いいだろう、アルフェ。先の質問の答えは?」
「……」
「あれに忠義立てしているのであれば、それは無意味だ。あれが教会の者と密会していたことも、その中身も、私は概ね承知している。承知した上で、好きにさせている。だがそんなことよりも、アンデッドの出現と消失の経緯について知る方が、はるかに重要だ」
どこから情報を得ているのか、彼は昨夜のクルツの行動も把握している。優秀な人間という噂は、本当のようだ。
「……」
「やはりな」
アルフェは何も言わなかったが、男は一人で納得した。彼はしばらくの間目を閉じ、それを開くと、再びアルフェをにらんでこう言った。
「君は、市内に出現し、民の命を奪ったアンデッドを滅ぼしてくれた。その件については、この街の為政者の一人として、礼を言わせてもらう」
このように険しい表情でそう言われても、礼を言われているとは思えない。だが、とりあえず礼を言われたということは、彼らが何かにかこつけて、こちらを罪に落とそうとしている訳ではないようだ。
「……では、私はこれで帰っても良いのですか?」
「君は、リグス・マクレイン配下の傭兵か?」
まだ帰ってはいけない、ということなのだろう。彼は、あまり人の話を聞かない性格のようだ。アルフェの質問には答えず、自分が聞きたいことを聞いてくる。アルフェは少し閉口したが、この問いには素直に答えた。
「冒険者です。組合に登録もしてあります」
「……冒険者?」
「何か?」
「いや、問題ない」
アルフェの職業を聞いて、怪訝な表情を浮かべなかった者はいない。男もまた、一瞬ではあるが、不可思議なものを見た顔になった。
「冒険者ならば、アンデッドについて、一応の知識はあるだろう」
「少しだけですが」
「……何もない所に、アンデッドは出ない。恨みを残した死霊と、然るべき条件がそろわなければ」
「……」
「悪霊になりそうな死者の心当たりは、劇場側には多かった。女優たちの執念は恐ろしいと、支配人は言っていたが……」
あのような場所では、役の奪い合いや挫折といった、ドロドロとした人間関係には事欠かない。表舞台に出られぬまま死んだ者や、ライバルに敗北し、自ら世を儚んだ者もいる。だからといって、その程度でアンデッドが生まれるというなら、今頃世の中の都市は、どこも亡者の群れであふれているはずだ。今回の事も、ここまで大騒ぎになることはない。
「どう思う」
どう思うと言われても、それを聴きたいのはアルフェの方だ。しかし一つ、思い浮かんだ話があった。
「……以前、別のレイスと遭遇したことがあります」
「……ふむ、それで?」
「レイスになったのは、とても辛い亡くなり方をした女性でした。その上、その方が亡くなった場所の近くに、アンデッドの出没する沼地があって……。ですが――」
しかし何よりも、そこは結界の外だった。
「そうだ。ここは神聖教会が管理する結界の中だ。その中に魔物が“侵入”することはあっても、“発生“する事は非常に稀だ。……だからこそ、問題なのだ」
男は片手を自らのあごに添え、何かを考え込んでいる。彼もまた、アルフェに何を話すべきか、迷っているように見える。
「率直に言おう、アルフェ。君が死霊を喚んだ可能性を、我々は考えていた」
「――私が?」
その言葉に、アルフェは眉をひそめた。想像もしない嫌疑に対して、少し動揺している。
「落ち着け。“考えていた”と言った。――オスカー」
男が、後ろに控えていた文官に声を掛ける。
「はい。常人が恨みを残して死んだところで、高位のアンデッドにはなり得ません。強力なアンデッドは強大な魔力を有しているものですが、普通の人間にはそれだけの魔力がないからです。しかし結界の外ではその前提は崩れます。大気中の負のマナは、比較的容易に怨念と結合し、アンデッドが形成されます」
オスカーと呼ばれた男が、長々とアンデッドの仕組みについて解説する。その早口なしゃべり方が、アルフェに誰かを思い出させる。そうだ、これはゴーレムについて語っていた、いつかのリーフの口調とそっくりだ。おそらくこの男も、魔術の研究者か何かなのだろう。
「逆に言えば、この現象が起きにくいため、結界の内部ではアンデッドも発生しにくいということになります。……ただし、外部から何らかの手を加えれば、また話は違ってきますが」
「……手を加える?」
「死霊術だ」
アルフェには、魔術的な知識が乏しい。まだ理解が追いついていない彼女に対して、男がぼそりとつぶやいた。
「死霊術?」
「帝国では特に、社会的に死霊術を忌避する傾向が強いので、あまり一般的ではありませんね。負のマナと死者の怨念を操り、意図的にアンデッドを形成する魔術です」
そのくらいは、さすがのアルフェでも知っている。死霊術――、物語に出てくる悪い魔法使いは、たいていそれの使い手ということになっている。彼らは死者の魂を弄び、ゾンビやゴーストの軍勢を作り出すのだ。
しかし男の言うとおり、現実にそのような魔術を使う人間はまずいない。いたとしても、間違いなく周囲から白い目で見られ、石を投げられるだろう。いや、そもそも死霊術の行使自体が、帝国法に触れるのではなかっただろうか。
「私が、死霊術士だと仰るのですか?」
「そう考えるとつじつまは合うのですが。残念ながら、違うようですね」
首をかしげて、オスカーがそう言う。“残念ながら”とは、これもまた失礼な物言いである。しかし今のアルフェは、それに食ってかかれる立場では無い。
「はい。私はほとんど魔術を使えませんから」
「そうなのですか? ……それはそれで、意外ですが。では、あなた以外に、あの場に魔術士のような人間はいませんでしたか? もしくは、そのような者に心当たりは?」
「……ありません」
この言葉は嘘だ。
アルフェの前にいる二人が、それを信じたかどうかは分からない。だが、彼女がそう答えると、二人はまた何かを考え込む風になった。
「……他に、何か?」
「いえ、私からはこれで全部です」
アルフェが聞くと、オスカーと呼ばれた男はにこやかに微笑んだ。
「では――」
「いや、もう一つある」
では、これでもう帰らせてもらう。そう言おうとしたアルフェの言葉が遮られた。遮ったのは、前に座っている男の方だ。
「何でしょうか」
「まだ、あれの下で働くつもりか?」
急に話題を転換した男に、アルフェは目をぱちくりさせた。
“あれ”というのはクルツのことだろう。この男がアルフェの想像通りの人間ならば、クルツの方はこの男のことを“奴”と呼んでいた。“あれ”と“奴”で呼び合う。それだけで、二人の関係が知れる。
「それが、何か?」
「益の無いことだ」
「……どういう意味でしょう」
「冒険者をするのなら、雇われる人間の事は、よく選んだ方が良い」
「……それは、私が判断することです」
「……」
「それ以外に無いのであれば、もう、帰ってもよろしいですか?」
「ああ」
男のその返事を最後に、尋問は終わった。特に引き留められもせず、アルフェは衛兵の詰め所を出る。廊下に控えていた衛兵が、彼女の案内についた。
石の廊下を歩き外に出ると、練兵場らしき広場に出た。市中に兵が配備されている今、そこにほとんど人影は無い。目を上げるとそこには、壮麗なエアハルト伯の居城がそびえている。
「どうかしましたか?」
急に立ち止まったアルフェに、案内の兵が振り返って声をかける。
「……いえ」
丁度、ここから見える窓の中、あそこで自分は暮らしていた。今自分が立っている、練兵場を見下ろしながら。
もちろんここは、彼女が育った城ではない。だが、奇妙な懐かしさが、アルフェの足を止めていた。
「すみません。行きましょう」
門に向かうアルフェの頭に、色々な思いが浮かぶ。
――あれが、ユリアン・エアハルト。
最後にアルフェを尋問したあの男が、クルツの兄で、このエアハルト領の実質的な支配者。
帝国でも五指に入ると噂される剣の達人は、さすがに今はまだ、自分の力が及ぶ相手ではなさそうだった。
――でも、いずれ――。
そう、今はまだ、だ。いずれ自分は、あの男すら越えていかなければならない。
そして――
「死霊術……」
不吉な単語である。しかしユリアンにそう言われて、アルフェの頭に浮かんだ顔がある。
――もしかしたら、あの女性が……?
助祭長シンゼイと一緒にいたあの女。メルヴィナという女のひどく青白い顔が、死霊という言葉と結びついて、アルフェの頭から離れなかった。
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