第38話

「……」


 背の高い民家の屋根に上って、アルフェは街並みを見渡していた。


 星も月も出ていないこの夜更けだ。街灯があるとは言え、さすがに屋根の上は暗い。しかし、敵がどの道を使って逃げたのかは分からないにせよ、地上よりはここからの方が遠くまで見通せる。

 それに、暗殺に失敗した刺客が、街灯に照らされた通りをのこのこ通って逃げるとも思えない。ならば、屋根の上だろうか。その可能性を考え、アルフェは壁を蹴り、ここまで登ってきたのだ。


 ――いた。


 わずかな光に照らされて、遠くを逃げる何者の姿が目に映った。黒い輪郭が動くのをぼんやりと確認できる程度だが、おそらくは賊に違いあるまい。こんな時間に屋根の上を走る者が他にいるなら、逆に見てみたいというものだ。

 都市の外に逃げるつもりだろうか。その影はまっすぐ市壁の方へと向かっている。


 ――逃がしません……!


 アルフェはそれを追って、全力で駆けた。白いドレスを着た裸足の少女。見ようによっては亡霊のように見えるそれが、ぐんぐんと獲物との距離を詰めて行く。

 追われている方は振り向きもしない。だが、彼は既に、自分が追われていることに気付いているはずだ。さっきよりもその動きが速くなった。


 音も立てず、屋根の上を跳び伝う賊の身軽さは、間違いなくその道の熟練を示すものである。だが、夜の空気を裂いて、後ろから彼に迫る追跡者の速度は、もはや獣じみていた。確実に、二つの影は近づいていく。


 このまま行けば、都市を出る前に間違いなく捕捉できる。アルフェが確信した瞬間、賊は何かを投擲した。二本の棒状の物体が闇の中を飛ぶ。百歩近い距離から、後ろも見ずに投げられたそれは、正確に少女の眉間と喉下に迫った。

 アルフェは走る速度を落とさずにそれを避ける。髪を結い上げ、顕わになったうなじの横を、先の尖った鉄の棒が通り過ぎて行く。


 追っ手を迎え撃つべきか、振り切るべきか。判断に迷ったのだろう。初めて賊の動きに逡巡が生じた。男は後ろを振り向いて、追跡者の姿を確認しようとした。


「いた! あれだ!」

「おう!」


 その時、町の夜空に火花が上がった。別の道から追ってきていたらしい。地上にいたリグスの配下が、短弓から何かを打ち出したのだ。そしてそれは強烈な閃光を発し、立ち並ぶ屋根を茜色に染めた。


 黒いフードを被った暗殺者の姿が、アルフェの目にはっきりと映る。敵は突然の光に左手をかざし、目を守っている。

 相手との距離は三十歩。アルフェは走る速度を殺し、足を踏み込んで遠当てを放った。


「――っ!」


 しかし、勢い余った彼女は、足元の瓦屋根をぶち抜いてしまった。結果的に技は不完全となり、見えない拳に殴られた賊は僅かによろめいただけだ。


「――くそッ! 魔術士か!」


 賊はマスクの下から、くぐもった声を漏らした。遠目からの輪郭だけでは、性別までは判別できなかったが、やはり男のようだ。


「うぐッ!」


 突然男が悲鳴を上げた。その左肩には、リグス配下の傭兵が放った矢が、深く突き刺さっている。

 アルフェの体が、男に近づく。爛々と光る碧い目が、彼の命を捉えていた。


 しかし男は体勢を立て直すと、懐から何かを取り出して、無言で足元の屋根に投げつけた。破裂音と共に、もうもうと白く濃い煙が立ち込める。アルフェは構わず追おうとしたが、煙の中から再び棒状の投擲武器が飛び出した。


「つッ!」


 アルフェは意表を突かれ、左腕を掠られてしまった。


「……」


 数十秒後、辺りに漂う煙が晴れたが、既に男の姿は無い。まんまと逃げおおせられてしまったようだ。

 無念に思うが、このままここにいても仕方が無い。とりあえず、下にいる傭兵たちと合流しよう。そう考えて、アルフェは屋根を飛び降りた。


「ようアルフェ。無事か」

「……ウェッジさんですか?」

「ああ」


 通りに降りてきたアルフェに、坊主頭にバンダナを巻いた男が近寄ってきて話しかけた。アルフェはリグスの部下全員の顔を覚えているわけではないが、確かこの男が、グレンの言ったウェッジという男のはずだ。彼はリグスの傭兵団で、主に斥候を担当している。

 ウェッジの背後にはもう一人、あごに傷を持った傭兵が立って、周囲を警戒している。この二人が、今ほどの戦いでアルフェを援護したのだろう。


「負傷したか」


 アルフェの左腕に目を止めたウェッジが言う。彼女の二の腕には、わずかに血がにじんでいた。


「問題ありません。かすり傷です。……それよりも、敵に逃げられてしまいました」

「いや、まだ追える」


 もう一人の傭兵が口を出した。ウェッジもその言葉に同意する。


「ああ、あいつに刺さったボルトに仕掛けがしてある。匂いをたどって、俺なら追うことができる」

「……なるほど」


 ウェッジが中空に鼻を向け、何かを嗅ぎまわるしぐさをする。アルフェともう一人の男は道の端に引き下がって、一言も発さずその様子を見ていた。


「こっちだ」


 しばらくそうした後、ウェッジが片手で手招きをする。それに従って、アルフェは足を踏み出した。


「……?」


 しかしその足が、ほんの少しだけもつれた。

 男たちは、そんな彼女を怪訝な顔で見やる。


「……どうした?」

「……いえ、何でも」


 アルフェは首を振ってそう言った。少しだけ、視界が揺れたように感じたが、今は何ともない。ただの気のせいだろう。


「敵が市壁を乗り越える前に、追いつきましょう」

「ああ」


 人気の無い夜の街を、三人は走った。



 先刻まで、薄い雲に隠されていた月が出てきた。都市の人間は、もうすべて眠りについている時間、路地裏で荒い息を吐く音だけが聞こえている。


 ――畜生ッ! 畜生ッ! 畜生ッ! 何だってんだ!


 心の中で悪態をつき、血のにじむ左肩を押さえながら、黒装束の男が歩いている。男はたった今、追跡者の手から命からがら逃げ延びてきた所だ。


 ――話が、違うじゃないか!


 その罵りが、誰に向けられたものなのかは分からない。彼を雇った人間か、あるいは、彼自身に対してか。


 ――あんな奴がいるなんて、聞いてないぞ!


 今夜の自分に与えられたのは、それほど難しくない仕事のはずだった。少なくとも、雇い主の話ではそうだった。なのにこんなしくじりを犯すとは。

 その原因は、標的の護衛をしていた少女である。事前情報では、標的が雇った傭兵団の中に、あんな娘がいるとは聞かされていなかった。


 間違い無く命中するはずだった矢を、倒れたテーブルで防がれた。どうしてそうなったのかは分からないが、あの娘がやったのだ。矢を射る直前、向こうから視界が効くはずのない暗闇の中にいた自分と、娘の眼が確かに合った。


「畜生……!」


 止血を試みたが、肩から流れる血は止まらない。刺さった矢は、太い血管を貫いている。抜けば恐らく、更に大量の血が溢れるだろう。

 男は走っているつもりだが、外から彼を見れば、のろのろと歩いているようにしか見えない。男はようやく足を引きずって、何とか前に進んでいる状態だった。

 

 ――駄目だ……。こんな所で……、俺は、死ぬのか……?


 もう諦めろと、死神が囁く声がする。


 ――いや! 違う!


 それはできない。自分はまだ死ぬわけにはいかない。

 男は朦朧とする両の目を、気力でこじ開けた。自分が死ねば、郷里に暮らす老いた母に、誰が金を送ってやれる。死んでたまるか。


 ――もう少し! もう少しで合流地点だ……!


 そこに行けば仲間がいる。そうすれば助かる。己にそう言い聞かせて、男は都市のはずれ、市壁の際までやってきた。五体満足な状態の彼ならば乗り越えることも容易なはずの壁が、まるで絶望そのもののように、闇の中に黒く立ちはだかっている。


 ――あいつは、どこだ……?


 ここが合流地点のはずだ。しかし仲間の姿は見えない。場所を間違ったのか。それとも、見捨てられたのか。考えたくないが、その思いが段々と強くなる。


 ――いたッ!


 だが、その心配は杞憂だった。

 石壁にもたれかかり、彼の仲間が立っていた。生き延びた。彼の心に安堵感が広がった。


「――すまない。助かった。……恩に着る」


 それは、心の底からの感謝の言葉だった。彼が裏家業に堕ちてから今まで、こんなにありがたいと思うことは無かった。


「……悪いがしくじった。任務は失敗だ」

「……そうか」

「引き上げる前に、俺の手当を――」

「じゃあ、お前はもう、お役御免だな」

「え?」


 と言って顔を上げた彼の前に、蔑むような、哀れむような視線がある。


「――お疲れさん」


 次の瞬間、仲間の腰から目にも止まらぬ速さで抜き打たれた剣によって、彼の首は刎ね飛ばされた。


「……全く、面倒をかけさせてくれるなよ」


 仲間の首を軽々と刎ねた男は、死体を見下ろしながら、忌々しそうにつぶやいた。

 仕事をしくじった者を、生かしておくわけにはいかない。それだけの裏が有る仕事だ。死体になった男も、それは十分に分かっていたはずである。それなのに、なぜのこのこと戻って来たのかと。

 それに、どっちみちあの出血だ。自分が手を下さなくとも、こいつは死んだはずだ。ならば、せめて一太刀で終わらせてやるのが、仲間の慈悲というものだ。


「悪く思うなよ」


 男は刀身に付いた血を振り払い、剣を納める。死体は首と一緒に用水路に蹴り込んだ。これが市壁の外まで流れていけば、間抜けな仲間の尻拭いは完了というわけだ。


 彼は踵を返し、その場を立ち去ろうとした。だが――


「……チッ。本当に面倒だぜ。全く」


 その時には、行く手は既に塞がれていた。



「よぉ、兄ちゃん」


 目の前に立っているのは、バンダナを巻いた坊主頭の男が一人。まるで散歩の途中で偶然行き会ったかのように、軽い声をかけてきた。

 男の手には、抜身の短剣が握られている。通りすがりなわけもない。こいつは敵だ。忌々しいが、死んだ間抜けは、やはり後をつけられていたようだ。


 排水路を流れていく死体をちらりと流し見て、バンダナの男は続けた。


「ずいぶん、楽しそうなことをしてるじゃないか」

「……ふん。そうだな……、お前も混ざるか?」


 敵は殺す。まあ、敵でなかったとしても、見られた以上は死んでもらわなければならないが。そう思って、剣の柄に手を掛ける。素人ではないようだが、目の前の男は自分の相手ではない。


「いやあ……、それはできれば、遠慮したいね」


 男もそれは分かっているようだ。こちらが一歩近づくたびに後ずさる。戦意も感じない。では、一体こいつは何のために姿を見せたのか。


「そう言うな……。俺が良いところに連れてってやる。お前もきっと、気に入るぞ?」


 近づくのをやめ、腰を落とす。自分の抜き打ちならば、この距離でも一瞬で詰め、相手の首を落とせる。

 彼の剣は、遥か昔に滅んだ別大陸の国から渡って来た特別製だ。僅かに反った片刃の刀身には、波のような紋様が浮いている。この剣は、例え魔力が込められていない品でも、鉄をも断つ切れ味を秘める。


「落ち着けよ。ちょっと話を――」

「もう聞かん」


 男が言い終わるよりも先に踏み込み、剣を抜き打った。このタイミング、この軌道ならば、間違いなくこの首を刎ねられる。そう確信した。しかし――


 ――やはり!


 暗闇から矢が飛んできた。男の首を刎ねるはずの剣を軌道修正し、その矢を二つに叩ききった。思った通りだ。やはり伏兵が潜んでいた。目の前の男はブラフで、矢の方が本命だ。


「甘いなぁッ!」


 だが一度機会を失えば、この自分が不意を撃たれることは無い。獰猛な笑みを浮かべながら、返す刀で目の前の男を両断する。


「んん?」


 しかし既に、男は完全にこちらに背を向けて、脱兎のごとく逃げ出していた。奇策が失敗したからといって、あまりにも潔い撤退だ。

 追って、斬るべきだったろう。しかしそうしなかったのは、そこに異様な物を見たからだ。


「……女?」


 いつの間に、一体どこから現れたのか。白いドレスを着た、幽霊のような銀髪の娘。それが目の前に立ちはだかっていた。


「……! ちッ」


 軽く舌打ちをする。あのバンダナ男の姿が見えない。不覚にも、娘に気を取られた瞬間に見失ってしまった。どこかに身を隠したのか。先ほどの矢から考えると、当然どこかに射手も潜んでいるはずだ。

 これはあまり歓迎したい状況ではない。見えない伏兵を含めて、少なくとも敵は三人。だが――


 ――……敵、か? コイツは。


 目の前にいるのは女だ。しかも若い、少女と言っていい外見。そんな者がここに居るはずは無いのにである。

 この路地裏には、街灯の光も届かない。月だけが娘を照らしている。その光を受け、闇の中にぼんやりと浮かび上がる白いドレス。その裾は裂け、片脚が艶かしく見えている。


「何だ、お前は。あの男の仲間か?」


 問いかけたが、娘は無表情のまま何も答えない。身にまとうドレスよりも、更に青白い顔。それを見て、心にわずかな疑念がよぎった。そもそもこれは人間なのか。


 生温い風が吹いた。娘のドレスの裾が、わずかにゆらめく。

 人間だと考えるよりは、魔物か死霊の類と考えた方が得心が行く。結界の中とは言え、たまにはゴーストの一体くらい出ることもあるだろう。


「もう一度だけ聞いてやる。……お前は、俺の敵か?」


 その言葉を受けて、娘の口元が妖しく歪んだ。


 ――笑ったのか。


「……そうか」


 夜の闇に沈黙が降りる。それきり、自分も娘も、一言も発さなくなった。


 迷うのはやめた。腰を落とし、右手を柄に添え直す。もとより、人間だろうと魔物だろうと関係無い。こいつは明らかに、自分の進路を塞いでいる。ならば、切り伏せる以外に道は無いのだ。


 ――死ねッ!


 路地裏に、甲高い鍔鳴りの音が響いた。抜き終わった時、既に剣は鞘の中に戻っている。渾身の力で放った、神速の抜き打ち。しかし目の前の娘は、それを受けても、変わらずそこに立っていた。


 ――…………避けた?


 男は目を見張った。

 間違いなく首を落とせる間合いだったにも関わらず、手ごたえは無かった。信じられないことだが、わずかに上体を反らしただけで、娘はこちらの剣先をかわした。先ほどのバンダナ男を仕留め損なった時とは違う。自分の攻撃が、正面からかわされたのだ。


 また、女の顔に笑みが浮かんだ。


「貴様……!」


 侮られたと、男は受け取った。心に、激しい怒気が宿る。怒りのあまり、顔がかっと熱くなった。


 かつて自分の剣の腕は、領邦でもそれと知られていた。剣士として、その将来を嘱望された時もある。

 下らない理由で身を持ち崩し、流れ着いた先で腕を買われ、今の仕事に就いた。薄汚い稼業の中で、完全に擦り切れた男の誇り。その中で、唯一残った自分の矜持、それがこの剣技だった。

 それをこのような小娘に、傷つけられるわけには行かない。


「……その首を飛ばしても、笑っていられるか」


 再び腰を沈め、息を止める。瞬き一つせず、相手の隙を伺う。

 じりり、と足を踏みかえ、娘が初めて構えを取った。


 ――得物は無い。……だが。


 構えたとはいえ、娘は武器らしきものは、縫い針一つ身に着けていない。薄いドレスの下には、暗器を隠す場所も無い。見る限りでは完全に丸腰だ。

 しかも、先ほど見せた回避は、肉体的に軟弱な魔術士たちにはあり得ない動きだった。とすれば、魔術士でもない。いや、限定するのは危険か。

 ここからの相手の動きが、読めない。しかし躊躇すれば、敵に主導権を握られる。


 ――先手必勝……!


 男は剣を抜き放つ。白刃が一筋の光芒となり、娘の首筋に迫った。

 遠慮など無かった。間違いなく全力の、自身でも最速の抜き打ち。それをくぐり、娘は前に出てきた。密着するほどの距離に、娘の小柄な体がある。


 ――これも避けるか! ――何!?


 次の瞬間、その白い右腕が彼の腹にのびてきた。何も握られていない、ただの少女の手。しかしそれを見た男の背筋に、ぞわりと寒気が走った。

 まるで突き出された槍を払うように、男は剣の柄で、その腕の軌道を逸らす。間髪入れずに己の顔面目掛けて飛んできた左手も、首を振って避けた。


「つぁッ!」


 この間合いは、相手の間合いだ。一旦距離を取らなくてはならない。横薙ぎに剣を振るい、娘を懐から引きはがした。

 両者は再び距離を開け、構えを取って対峙した。


「……まさか、素手とはな」


 低い声でつぶやく。言葉通りの驚きが、頭にある。


 戦闘において、体術は重要だ。実際、自分もそれなりには使える。だがそれは、あくまで奇襲や、剣を使えない状況での補助としてだ。

 武器を持った町のチンピラを、拳でぶちのめす自信はあっても、実力が拮抗した人間や魔物相手に、素手で立ち向かおうとは思わない。剣を持った自分と、持たない自分。どちらが強いと人に問われて、どう答えるかは明白だろう。


「それは、俺を、舐めてるのか?」


 自分相手に、武器など使う必要はない。この女は、そう言いたいのか。

 怒りもある程度を過ぎると、冷静さをもたらすことがあるようだ。今、自分の頭からはむしろ、血の気がひいていた。


「……?」


 娘が不思議そうな表情をする。「何か問題があるのか」とでも、言いたげな顔。


「そうか……、分かった」


 剣を構え直す。


「後悔させてやろう」


 絶対に、己の誇りにかけて、この娘を生かしてはおけない。

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