第39話

 暗い路地裏に、せわしない足音と、何かが空気を切り裂く音がする。誰かが起きて聞いていたとしても、それが戦闘音だと思う者はいないだろう。

 彼らはもう、どれくらいの時間戦い続けているだろうか。数分か、数時間か。時間の流れが曖昧だった。


 目まぐるしく位置を入れ替えながら、片方は剣を振るい、片方は拳を突き出す。戦闘が始まってから、どちらの攻撃も、一度たりとも相手に直撃していない。体の数カ所に小さく傷を負っているものの、二人は恐るべき集中力で互いの攻めをかわし続けていた。


「シィッ!」


 娘の胸を狙った男の二段突きが、むなしく空を切る。しかし男も、己の喉首をつかもうとする娘の手を、前に走ってさけた。

 馳せ違い、振り向いて構える。二人の間に、何度目かの膠着が訪れた。


「――ふぅッ!」


 剣士の男は、久々に息を吐き出した。そして慎重に両手で剣の柄を握り直す。

 相手は素手、その上に女子供の体格だ。リーチは自分の方が長い。しかし男は、かつてない戦いにくさを覚えていた。


 ――人間と、戦っている気がしない。


 こちらの刃物を恐れず、極限まで接近して攻撃しようとする敵の動き。こんな動きをする人間に、今まで出会ったことは無かった。これまで自分が戦った相手の中で、強いて一番近いものを挙げるとすれば、ワーウルフ――すなわち人狼だろうか。

 以前、結界の外で暴れていた強力な個体を、一頭斬ったことがある。――命がけだった。人間とかけ離れた、暴虐的なまでの身体能力。鍛えた鋼のように鋭利な爪を、目にも止まらぬ速度で振りまわす姿。それを今でも、鮮明に思い出すことができる。


 あれよりずっと小柄だが、この娘からはそれに似た圧を感じる。人間と思って戦うより、魔物と思って戦った方が、まだ対処がしやすい。

 一見華奢に見える娘の腕と脚に、狼の様な爪は生えていない。だが、触れれば間違いなく、こちらの肉体を紙切れのように引き裂くだろう。あれは、凶器以外の何物でもない。どういう術かは知らないが、ここまで磨き上げたこの娘を、称賛しなければならない。


「――くくっ」


 笑みが抑えられない。自分でも、その理由は分からない。


 先刻は、この娘が武器を使おうとしないことに腹を立てたが、それが筋違いだったということは、良く分かった。この娘は、自分を侮ってなどいない。この娘は、彼女にとって最善の方法で、ただひたすらに、ひたむきに自分を殺そうとしている。娘の発する殺気が、痛いほどにそれを伝えてくる。


 女だから、子供だからと敵を侮る気持ちが、どこかにあったかも知れない。だがそんな想いは、戦いの中でとうに消えていた。


 残ったのは、ただ全力で、相手を打ち倒そうとする純粋な衝動。

 自分と娘、互いの力は拮抗している。ここまで全てを振り絞る感覚は、久しぶりだ。それは、むしろ愉快ですらあった。


 しかし、いつまでも戦いを楽しむことはできない。

 自分は追われている立場である。しかも周囲には、少なくとも二人の伏兵。手こずれば、さらに増援が来るかもしれないのだ。ケリを付けなければならない。

 だがその前に、娘に聞くことがある。剣を構えたまま声を発した。


「お前、名前は?」

「……」


 答えは返ってこない。当たり前だ。


 男は片手で、口元を隠していた黒い布を乱暴にはぎ取った。その下から現れたのは、二十の半ばくらいだろうか、意外に若い男の顔だ。


「名前を聞かせろ」

「……」


 やはり名乗らない。なら――


「俺は、フロイドだ」

「…………は?」

「俺の名前は、フロイド・セインヒルだ」

「……血迷ったのですか?」


 鈴の鳴るような声で、娘が辛辣な言葉を吐く。だが、まさに正しい。自分は今、血迷っている。殺す時も、死ぬ時も、この稼業において自ら名前を名乗る必要など、微塵もない。

 しかし、こんなに敵の名前を聞きたくなったのも、自分の名前を名乗りたくなったのも、久方ぶりだ。――いや、ひょっとしたら初めてかもしれない。だから聞くのだ。


「お前の名前は?」


 構わず名を聞く彼の態度が、娘の癇に障ったのかもしれない。無言の娘から、殺気が吹き荒れる。

 暗い中でも、フロイドには娘の眼がはっきりと見えた。こちらの命を絶つことに、微塵の躊躇も、罪悪感も感じていない、冷え切った眼。フロイドはそれを、美しいと思った。


 次は、今までよりも、さらに速い攻撃が来る。

 背筋をぞくりと快感が走り抜け、ひとりでに口元が歪む。

 今度こそ、今度こそ必ず斬ってみせる。フロイドは上段に剣を引き上げ、相手の攻撃を待った。

 しかし――


「……うぁ?」


 娘がほんの少し、うめき声を漏らす。一瞬だけ膝が抜け、暴風のような殺気が途切れた。


 ――何だ?


 それは彼女が初めて見せた隙だったが、フロイドは攻撃しなかった。むしろ一歩後退し、相手の様子をうかがう姿勢になった。

 娘の顔色が悪い。よく見ると、額に脂汗が浮かんでいる。左の二の腕に、自分が与えた記憶の無い傷。薄い紫に、その傷口が変色している。


「……毒か」


 恐らく、己が殺した仲間が遺したものだ。こういう手を、好んで使う男だった。


 ――つまらん真似を……!


 それに気付いて、フロイドはむしろ、闘いに水を差した仲間に対する憤りを覚えた。

 娘から、再び闘気が噴き上がる。気丈だとは思うが、先ほどまでの圧力は感じない。思わぬ形で決着がついてしまった。これならば、斬るのはそう難しくないだろう。


 しかし、足が動かない。――気が進まない。

 毒は急速に、娘の体を蝕みはじめたようだ。目の焦点が合っていない。

 仕事だ。それでも構わずに斬るべきか。さすがに少し迷ったが、フロイドは剣を下ろすと、それを鞘に納めた。


「この勝負、預けるぞ。……いいな、次は絶対に、名前を聞かせろ」


 死んだ仲間はえげつない即死毒も使ったが、この様子だと、娘が受けたのは遅効性の毒物のようだ。すぐに手当てをすれば、助からないことも無いだろう。


 ――いや、助かってもらわねば困る。


 娘に正面を向けたまま、フロイドは下がっていく。やがてその姿は、路地裏の闇の中に消えた。



 ――倒せなかった。


 敵が去り、戦いの緊張感から解放されたアルフェは、胸を押さえて息を吐く。

 殺そうと思って殺せなかった相手は、久しぶりだ。


「ぐ……」


 まためまいがした。

 身体が、酷くだるい。寒くてたまらないのに、全身から嫌な汗が流れている。体で唯一熱を持っているのは、左腕の傷口だけだ。


 ――……毒か。


 頭の中で、敵が口走った言葉を反芻する。それが本当だとしたら、かなり危険な状況だ。

 今は毒消しなど持っていない。師匠ならば、魔力と共に体内の毒の流れを操作することもできたが、未熟な自分は、まだその技を習得していない。

 自分がどれだけの時間、あの男と戦っていたのかは分からない。だが、応援を呼びに行ったウェッジたちは、まだ戻っていないようだった。


 この目立たない路地裏で倒れるのはまずい。せめて、大通りまで出よう。回らなくなってきた頭では、それくらいしか思いつくことができなかった。

 せり上がる嘔吐感をこらえながら、壁に手をつき、這うように歩く。


「……くぅ」


 段々と寒気が強くなり、両腕で体を抱きしめるようにした。それでも震えが止まらない。立っていられなくなって、地面に膝をついた。

 このまま、こうしていれば、やり過ごせるかもしれない。

 自分では座っているつもりだったが、実際にはアルフェは既に、石畳の上に倒れていた。その顔から、急速に生気が失われていく。


 ――……死ぬ、の?


 まだ、何もできていないのに。こんな終わり方は嫌だ。思うが、身体が言うことを聞いてくれない。少女の頬を、一筋の涙が伝った。


「――アルフェ!」


 自分を呼ぶ声がする。誰だろう。朦朧とする頭では、誰の声か分からない。


「――コンラッド、さん」


 でもきっと、こんな時、自分を助けに来てくれるに違いない人の名前を、アルフェは呼んだ。



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