第25話

 その日の朝、アルフェはいつものように、コンラッドと落ち合う予定の大木の下まで行った。冷え切った森の中には、かすかに朝もやがかかっている。アルフェは木の根元に立ちつくしたまま、ただじっと待った。


「……」


 そうやってしばらく待ったが、誰も来ない。

 今日もコンラッドは戻って来ないようだ。


「……寒い」


 アルフェは少しうつむいて、野営地に戻ろうと考えたが、耳がかすかな物音を聞いた気がした。


 ――……魔物かもしれない。


 筋肉が緊張する。しかし振り返った彼女の目は、もしかしたらという期待に輝いてもいた。

 森のさざめきに耳を澄ましながら、時間が流れる。


「……ふぅ」


 その体勢で数十分は固まっていただろうか。物音は気のせいだったらしい。さっきよりも失望を大きくして、少女はため息をついた。こんなことを、もう何日か繰り返している。

 だが、何となくそのまま去る気になれなくなって、アルフェは木の根元に腰を下ろすと、膝を抱えて座った。


 太陽が高くなり、また沈み始める。森の中に日が差さなくなっても、彼女は待ち続けた。


「……早く、帰ってきてくださいよ」


 巨大な木の根元で膝に顔をうずめた少女の姿は、ひどく頼りなげに見えた。

 しかしその時、アルフェは再び物音を聞いた。今度は勘違いではない。暗くなった森の奥から、確かに音が――足音がする。魔獣でもない。人間の、あの人の足音だ。


「師匠……!」


 居てもたってもいられず、アルフェは走り出した。

 森の奥から現れ、闇の中に浮かび上がったのは、待ちわびた人の影だった。


「お疲れ様です!」


 ここに戻って来るまでにも、走ってきたのだろう。行きの時の猛然とした速度ではなく、ふらふらとした足取りで彼は帰ってきた。


「――はッ! はッ! ぜはッ!」


 さすがのコンラッドも、息も絶え絶えになっている。まさに満身創痍といった体で、着ている服もボロボロだ。


「本当に、お疲れ様でした……!」


 アルフェは今にも倒れそうなコンラッドの胸に飛びつくと、心の底からそう言った。コンラッドの背には、マントで包んだ血塗れの荷物がある。やはり彼は目的を達成してきたのだ。


「別にっ、大してっ、お疲れではっ、ないがなっ!」


 この寒さにも関わらず、彼の大きな体は湯気を上げ、額から流れた汗はあごを伝い、地面に滴り落ちている。

 ぜえぜえと息を切らしながらも、コンラッドは憎まれ口を叩いたが、その言葉が強がりだということは、彼の体重を支えているアルフェにはよく分かった。


「良かったです……! ご無事で……」

「はぁ、はぁ、はぁ――。は、離れろ。血が付くぞ。汚い」


 コンラッドはアルフェの肩をつかみ、己から引きはがそうとする。返事をする代わりに、アルフェはさらにぎゅっと、彼の背中に回した腕に力を込めた。


「はぁ、は、――ふぅ。……仕方のない弟子だ」


 ようやく息を整えたコンラッドは観念したように、自身の胸の辺りにあるアルフェの頭に手を置いた。


「……ありがとうございます」

「――ん?」

「私が、馬鹿な事を言ったから」

「……」

「師匠まで、危険な目に」


 自分の胸が何か熱いもので濡れていくのを感じると、コンラッドは苦笑を浮かべて、子ども帰りしている弟子の頭をぽんぽんとあやすように叩いた。


「お前の方は、ちゃんとやったのか?」

「はい、滞りなく」


 しばらく間を置いて、彼らは自分たちの成果を確認しあった。その時にはもう、アルフェの表情はいつも通りに戻っている。ただ、目じりが少し赤くなり、頬に血の跡がついていたが。


「……ふん、まだもたついているようなら、俺が手を貸してやってもよかったのだが……、まあ、良くやった」


 彼のぶっきらぼうな物言いにはもう慣れた。アルフェはただ、微笑みで返した。


「すぐに出発するぞ」

「だめです」


 間髪をいれずに、アルフェが言った。有無を言わせない真剣さが、その瞳にある。


「その状態で進むのは危険です。……まだ時間に猶予はあります。せめて一日、身体を休めてください」

「……わかった。そうだな。そうしよう」


 コンラッドの性格ならば、それでも休息は必要ないと言い出すかと思ったが、意外にも素直に折れた。やはり相応に消耗しているのだろう。アルフェは彼を引き連れて、森の野営地へと向かった。


「快適そうな生活をしてるじゃないか」


 野営地に着くなり、コンラッドがそう言った。


「褒められていると思っていいのですか?」

「褒めてるさ……。お前の生命力は大したもんだ」

「やっぱり、からかっていますね」

「はっはっは――、本当に褒めてるんだ。怒らないでくれ」


 珍しく歯を見せてコンラッドが笑った。いや、彼のこんな屈託の無い笑顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。そう思うアルフェ自身も、これまで浮かべたことのないような自然な顔で笑っていたが、そういうことは自分では気づかないものらしい。


「それで、お前の方の獲物はどこにあるんだ?」

「あれです」


 アルフェは壁際のマンドレイクを指す。自身の触手でがんじがらめに縛られた伝説の薬草は、まだじたじたと身動きしていた。


「あれが? ……でかいな。マンドレイクというのは、こういうものなのか?」

「薬草辞典に書かれた特徴とは、完全に一致していますから……。それに、すさまじい魔力を秘めています。強力な薬草というのは間違いないと思います」

「そうか……。しかしそれにしても珍妙だな」


 コンラッドは首をかしげながらも納得したようだ。


 その夜アルフェは湯を沸かし、残っていた食材を存分に活用して、師のために腕によりをかけた料理を作った。森で見つけた貴重な薬草などもふんだんに入れた。そのせいで味の方は微妙な感じになってしまったが、コンラッドは文句を言いながらも、鍋ごと全て平らげた。


「もう休むか……。本当のことを言えば、かなり疲れた」


 食事が済むと、コンラッドがそう言った。破れた服を着替えた彼の身体には、アルフェの手によって包帯がぐるぐる巻きに巻かれており、そこにも森の薬草がすり込んである。


「はい。とにかく明日、万全の状態で出発しましょう。絶対、間に合います。きっとローラさんは助かります」

「ああ、助かるさ。――俺も疲れてるかもしれないが、お前だって酷い面をしているぞ。……今夜はちゃんと休めよ」

「はい」


 コンラッドの指摘通り、独りでずっと気を張り詰めていたアルフェの方も、隠しきれない疲労が顔に浮き出ていた。だが、その夜はようやく熟睡できそうだった。



「んん……」


 深夜、アルフェはコンラッドのいびきで目を覚ました。彼女はむくりと起き上がると、寝ぼけ眼で師の寝顔をじっと見た。

 見張りを立てていないのは、魔物が来たら俺が絶対に気付くと、彼が主張したからである。アルフェもそれは疑っていない。


「……ふぁ」


 アルフェは一つあくびをすると、毛布で体を包んだまま、コンラッドの傍らににじり寄った。そして大の字になっている彼の隣に横たわると、再び目を閉じた。

 熊のように眠る師の横で、子猫のように丸まった弟子。

 そうして、彼らにとっては久方ぶりの、平和な夜は過ぎていった。



 明朝、荷物をまとめたアルフェたちは、およそ半月ぶりに町への帰途についた。


 驚くべきことに、コンラッドの怪我は一晩でほぼ回復した。


「武神流を極めると、怪我の回復速度すら早めることができるのだ。何と肉体を若々しく保つ効果もある! ……む。もしかしたら、これで若い娘に売り出すことができるのでは……?」


 後半のたわごとは置いておいても、アルフェは師の相変わらずの超人ぶりに目を見張っていた。そんな彼は歩きながら、早くもヒュドラを倒した武勇伝をアルフェに語り始めている。

 この森にも大分長く滞在したが、さすがに名残惜しいとは思わない。疲労はまだ抜けきっていないはずだが、来たときよりも足取りは軽く感じられる。


「これで俺と武神流の伝説にも、新たな一章が刻まれるな」


 コンラッドの語りが一段落した。そういえば、とアルフェは思う。


「師匠、ずっと聞こうと思っていたのですが」

「なんだ」

「我々の武神流という名前は、師匠が考えたのですか?」

「当たり前だ」


 格好いいだろうと言って笑うコンラッドの顔は、無邪気な少年のようだった。


「……私も名乗らないといけないのですよね?」

「当然だ。お前は俺の弟子だからな」

「じゃあ……、改名しませんか? 格好悪いですよ」


 そう言ってアルフェが笑う。コンラッドは口を開けてあっけにとられた顔をしたが、すぐに弟子にからかわれたと悟り、からからと哄笑を始めた。


「そもそもこの名前はな、俺が十歳の時に読んだ本が――」


 コンラッドの語りは続く。

 森に、二人の明るい笑い声が響いている。




 森の中、アルフェは満足げに微笑んで、いそいそと師の背中について歩いている。


 やはり自分の思った通りだった。師匠は約束を守ってくれた。伝説の魔獣でも、コンラッドならばきっと倒せると信じていた。


 およそ一年前、城を出たアルフェに、一人で生きる力を与えてくれたのはコンラッドだった。コンラッドは、自分が勇者に憧れていたと語ったが、彼は彼女にとって、既に勇者だった。

 日々を生きる喜び。自由の素晴らしさ。明日への希望。この世界の美しさ。――そして彼女がまだ知らない、もっとかけがえのない別の何か。

 それは彼との出会いが無ければ、全て手に入らなかったものだ。


 今の彼女の胸には、奇妙な高揚感さえ生まれている。弾み出しそうになる足を押さえることで、アルフェは精一杯だった。


 師の背中を見て、彼女は思う。

 これが、私の手に入れた人生だと。彼と町の皆が与えてくれた、本物の人生だと。

 それがずっと、このまま永遠にずっと、いつまでも続くことを、彼女は信じていた。















 信じていたのだ。













 だからこの時、アルフェは考えてさえもいなかった。


 この人にも、勝てないものがいるということを。


 どうして自分が、ここにいるのかということを。

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