エピローグ:「ふたりの出会いは、運命だった」

第26話

 アルフェたちが森から帰還してからしばらく経った。近頃では日差しが暖かいと思う日も多くなった。このベルダンにも、春が近づいている。


 ヒュドラを倒し、伝説の薬草を採取したコンラッドとアルフェの冒険は、ベルダンの冒険者組合では驚きをもって迎えられた。

 特に依頼主である商会長は、アルフェたちを激賞した。商会長の娘、すなわちコンラッドの大家であるローラの病を診た治癒術士は、詐欺師では無かったらしい。霊薬など眉唾物だと思っていた人間も多かったようだが、その術士の言葉通り、ローラの病は快方に向かっている。まさに一件落着というところである。


 この件で、アルフェの師であるコンラッドの規格外の強さは、ベルダン中に知れ渡ったはずだ。しかしそれで、彼の道場に新しい門下生が増えるということはなく、アルフェはいつもと変わらぬ日々を送っている。


 今回の依頼では、ひと月近く家を空けてしまったが、リアナとリオンの姉弟にも変わりは無かった。アルフェが二人の面倒を見てくれたタルボットに、その事について礼を言うと、なぜか眩しそうな顔をされた。


「いいのさ。カミさんも最近じゃ、あの二人のことを自分の子供みたいに思ってる。お前が最初にうちに来てから、そんなに経ってないはずだが……。随分と、強くなっちまったな」


 そうだろうかとアルフェは思う。自分には、特に偉業を成し遂げたという思いは無い。自分はただ、森で必死に生き延びてきただけだ。

 結局彼女は、日々の糧を得るために冒険者をしているのだ。純粋な正義感から依頼を引き受けたという意識も無い。


 実際に、アルフェたちは報酬も貰った。依頼の達成報酬だけでも、商会長は十分すぎるほどの金額を用意していたし、副産物も手に入れた。マンドレイクは、霊薬を作る分を引き渡しても、かなりの量が手元に残った。まがりなりにも伝説の薬草だ。換金すれば一財産になるだろう。


 日常に戻り、生活に余裕もできたアルフェは、期を見て森の中で思いついたことを実行しようと考えていた。


 行方の知れない姉を探す。


 あの日城を追われたのは、自分だけではなかった。アルフェの姉もまた、故郷を離れ、どこかに身を潜めているらしい。自分を助け出した従者のクラウスは、今も姉の居場所を追っているはずだ。


 ――クラウスと連絡が取れれば……。でも彼は今、どこに居るんでしょう。


 この家に、アルフェ一人を残しておよそ一年、クラウス本人がその姿を見せることは、ついに無かった。仕送りを送ってきたことで、彼がアルフェのことを忘れていないことだけは分かったが、アルフェは彼が今どこにいるかすらも全く知らない。


 ――そういえば、人を送ってきたこともありましたっけ。


 一度だけ、クラウスの代理を名乗る女性が、アルフェの様子をうかがいに来たことがあった。あれは一体誰だったのだろう。城に居た頃の関係者だろうか。大公家にあのような女性が仕えていた覚えは、アルフェには無いが。


 ――どの道、またすぐお店を留守にするというわけにはいかないし。


 そう、姉を探すと言っても、アルフェにこの町を離れるつもりは無い。リアナとリオンの姉弟、友人と呼べる二人の騎士、ローラや冒険者組合の人々、そしてコンラッド。今の彼女には、これだけ大切な人たちがいる。

 姉を探すとしたら、どういう方法がいいだろうか。今は何となくそれを考えている段階だ。


 気になる事といえばそのくらいで、それからも、彼女の日常は変わりなく過ぎた。採取で家を空ける回数も減り、彼女は主に道場通いと店番をして過ごしている。


 そのアルフェに、クラウスからの手紙が届いたのは、季節が完全に春になろうという頃だった。


「……何、これ」


 ――逃げろ。


 手紙には、ただそれだけが記されていた。


 逃げろとはどういうことだろうか。久しぶりに連絡をよこしてきたかと思えば、あまりに唐突な内容だ。何かのいたずらかと思ったが、サインには間違いなくクラウスとある。


 ――……追っ手がかかった?


 手紙の内容に、心当たりはある。最近は意識することもなかったものの、本来彼女はこの町に隠れ住んでいる身の上なのだ。


 故郷を征服した王国が、自分を探しているということだろうか。


 ――でも、何のために?


 自分を捕らえる必要など、王国側にあるのだろうか。

 一年前に隣国――ドニエステが彼女の故郷、ラトリア大公領を征服してから、ドニエステにそれ以上の動きなど無かった。それなのに今更。


 手紙はあまりに簡潔で、アルフェの不安を掻き立てただけだ。

 一人でどう判断してよいか分からず、彼女は相談相手を求めた。しかし、リアナやリオンに話せるわけが無い。

 そう言えば、テオドールとマキアスの青年騎士二人はどうしたのだろう。ここしばらく店に来なかったが。彼らはこの件に関して調査していると言っていた。あの二人なら何か、自分に必要な情報を知っているかもしれない。


 ――……組合に、行ってみましょう。


 二人がそこに居るかもしれないし、他にも情報があるかもしれない。アルフェはリアナに店番を代わってもらい、冒険者組合に向かった。


「――居ない?」

「ああ、あの二人なら、何日か前に町を出たよ。帰還命令が出たみたいなことを言ってたが……、知らなかったのか?」

「いいえ、何も聞いていません」


 アルフェは組合で、タルボットに二人の居場所を聞いていた。彼によると、テオドールたちは数日前に町を出たという。彼らが、何かの任務で町を離れることは、これまでにもあったが、帰還命令とは何だろう。


「そうか、そいつはおかしいなぁ。俺はてっきり、あいつらなら、お前に挨拶くらいはしただろうって……」


 アルフェの不安そうな顔色を見て、薄情な奴らだとタルボットは頭を掻いた。


「まあ、また戻ってくるって言ってたし、伝えるまでも無いと思ったんじゃないのか?」

「いつ頃戻るかは、分かりますか?」

「いや、それは聞いてないが……、何かあったか?」

「いえ……」


 タルボットの言う通り、二人が町を離れるなら、連絡くらいはくれると思っていた。


「あの、そういえばタルボットさん。タルボットさんは、あの二人がなぜこの町に来たのか、知っているのですか?」

「さあな。あいつらもそれなりにここの仕事をこなしてくれてたけどよ。そもそも冒険者じゃなくて、騎士だからな。他に目的があったのかもしれねぇが――」


 特に聞いていないと、タルボットは言った。


「どうした、様子が変だぞ? 何かあったのか?」


 答えていいものか、アルフェは迷った。今まで、自分の素性のことを、他人に話したことは無い。


「……タルボットさんは、大公領のことで、何か聞いていることはありませんか?」


 だから、怪しまれるかも知れないが、それだけを聞いた。


「大公領? ラトリアのことか? あ、ああ……。そりゃあ、お隣のことだからな。あそこがドニエステと戦になった時は、ここもかなり物騒な空気になってたしな。ん? そういえば、お前が冒険者になる前のことか」


 アルフェの体が、ぴくりと身動きする。


「ラトリアがどうかしたか?」

「……なぜドニエステは、ラトリアを攻めたのでしょう?」


 アルフェはつい目線をそらしながら、タルボットに問いかけた。


「それも色んな話が出てたな。あそこには、でかい鉱山があるからな。それ目当てっていうのが有力な説だ。……なあ、やっぱり顔色が変だぜ。何かあるなら相談に乗るぞ?」

「いえ……、ありがとうございます。……また出直します」


 強引に会話を打ち切って、アルフェは組合の建物を出て行った。


 何がどうなっているのか、よくわからない。手紙の指示通り、逃げるべきなのだろうか。この町に来た直後の彼女なら、盲目的に手紙の内容に従っただろう。

 しかし、こんな手紙一つで今の生活を捨てるなど馬鹿げている。アルフェの頭は混乱していた。


 ――ローラさんは、まだベッドから起き上がれないし……。


 そうなると、アルフェがこの町で他に相談できそうな人間は、あと一人しかいない。


 ――師匠は、どう言うだろう。


 コンラッドの得意分野ではないかもしれない。でも今はとにかく、話を聞いてもらいたい。


 彼になら、自分が誰なのかを話しても構わない。


 アルフェはそう決めると、道場への坂を上った。



「どうしたんだ、いったい」

「……」

「黙っているだけじゃ、俺には分からんぞ」


 道場にはコンラッドがいた。彼の顔を見て、アルフェはひとまず安心した。何かあっても、この人なら何とかしてくれる。しかし安心したせいか、相談するため、ここに来るまで考えてきた言葉が、なかなか出てこなかった。


「俺にできることなら、まあ、何でもしてやる」


 金以外の話ならなと、最後にコンラッドは付け加えた。だが、アルフェが反応しないので、真面目な顔になった彼はもう一度言った。


「……俺が、お前のためにできることなら、何でもするぞ」


 そう、きっとそうだ。アルフェには分かっている。自分だって、彼のためにできることなら、何でもする。だから――


「……あの」

「うん」

「実は私は……、アルフェじゃ、ないんです」

「……」


 ここから先の話を、アルフェをここに連れてきた従者が口止めして以来、彼女は誰にも口にしたことが無い。

 でも、勇気を出してさらけ出そう。自分がどこの誰でも、きっとこの人は受け入れてくれるから。師匠となら、自分は何だってできるから。

 アルフェは意を決し、口を開いた。


「私は、」


「アルフィミア」


 そしてその声は、道場の庭から響いた。


 向かい合っていた師弟がはじかれたように庭を向く。いつの間にか、道場の庭に男が立っている。いつからいたのか。アルフェは完全に、その男の存在に気が付いていなかった。

 男――いや、正確には男なのかどうか判然としない。着用しているローブは魔術師がよく身につける物だが、それを着ている男の顔を捉えようとすると、妙に視界が歪んでめまいがしそうになる。しかし、その声は男性のものだ。


 しかしそんなことよりも、その名前は――


「ラトリア公女アルフィミア。その娘の名前だ。……こんな場所にいたか」


 そう、その名前は、アルフェの本当の名前だ。


「貴様……」


 コンラッドが声を出す。呆けたようになっているアルフェと違い、彼は既に立ち上がっている。声に焦りが見えるのは、彼ですら男の接近に気が付いていなかったということか。


「一緒に来てもらおう」


 庭にいた男が、一歩前に進み出る。ただそれだけのように見えたが、瞬きする間に、男の体はアルフェの目の前にあった。

 その手が少女の首筋に伸びる。ゆっくりとした動きに見えるそれを、アルフェには回避できる気がしなかった。


「――くぅっ!?」


 首に触れた男の手から、何か嫌なものが流し込まれる感覚。アルフェは身をよじるが、首を掴む手はぴくりとも動かない。それを遮るように、コンラッドが動いた。アルフェは男の手から引き剥がされ、身体を横抱きに抱えられている。そのままコンラッドは侵入者との距離を取った。


「……下郎」


 男が、掴むものの無くなった掌をじっと見ている。


「邪魔をするな」


 コンラッドを凝視した男が、吐き捨てるようにそう言った。

 コンラッドはそれに答えず、アルフェを床に横たえる。その顔は急速に血の気を失いつつあり、見るからに危険な状態にあった。


「ふんッ!」


 コンラッドはアルフェの鳩尾に、右掌を突き入れた。


「ッ……かはッ!」


 アルフェは一度えずいたが、頬にはすぐに赤みが戻ってきた。コンラッドは少し表情を和らげたが、次の瞬間には、かつて見た事も無いほどの鬼の形相になっていた。彼はそのまま、侵入者をにらみ据える。


「……ほう、面白い真似をするな。魔力を打ち込んで、私の呪いを中和したのか?」


 刺す様なコンラッドの視線にも構わず、男の声は、何かに感心しているようなものになった。


「そんな事ができるのか。興味深いな」

「……お前は何者だ? ろくなもんじゃあないのは分かるが……、この娘が目当てか?」


 コンラッドが問いかける。その低い声からは殺気がにじみ出ている。


「お前に答える必要は無いが……、そうだと言ったら?」

「ここは俺の道場だ。でかい面をするな」

「公女に義理立てするのか」

「そんな奴は知らん。そこにいるのは、俺の弟子だ。俺の弟子に手を出す奴は、この俺が許さん」


 侵入者が嘲笑ったような気がする。それを見て、コンラッドが戦いの構えを取った。



 アルフェは体を起こし、目を開いた。まだ視界がぼんやりとし、耳鳴りもしている。自分はあの男に首を掴まれて――それからどうなったのだろう。まだ朦朧としている頭に、戦いの音が飛び込んできた。


 コンラッドとあの男が戦っている。

 二人は道場から庭に降りて、激しく打ち合っていた。いや、打ち合うという表現は正しくない。コンラッドは雷光のような凄まじい速度で突きを繰り出し、侵入者を攻撃しているが、男の方はそれを片手でいなしているだけだ。


 男の細い腕からは、光の壁のようなものが展開されている。コンラッドの攻撃はそれで完全に遮られ、男に衝撃すら伝わっているように見えない。やはりあれは魔術士なのだろうか。しかも相当に高位の、恐るべき使い手だ。


 男が手から光球を放つ。呪文の詠唱も予備動作もなしに、なぜ魔術を行使出来るのか。一部の熟達の魔術師には、そのような芸当が可能だとは聞いたことがあるが、目にしたのは初めてだ。


 放たれた光球を、コンラッドは裏拳で弾いた。軌道をそらされた魔術が道場の屋根に当たり、爆音を上げる。防ぐ動作から流れるように、コンラッドが反撃に転じた。しかしまたも光の壁に阻まれて、男の体に触れることはかなわない。

 ただ突いているだけではない。コンラッドの攻撃には、一撃一撃にあらん限りの闘気が込められている。放出される魔力が目に見えるほどだが、それでも男には届いていないのだ。


 コンラッドと男の攻防は、アルフェに感知できる限界すれすれの速度で行われている。

 アルフェも師の助けに入りたいと思うが、体が思うように動かない。仮に動いたとしても、自分の力量で、あの戦いに割って入ることは出来ないだろう。


 ――師匠が……、本気を出している?


 認めたくないが、間違いない。コンラッドは全力だ。全ての力をぶつけた上で、それでも男に手が届いていない。それが彼女には分かってしまった。


 男が手を横に一振りする。衝撃波が走り、コンラッドの体が後方に吹き飛ばされた。塀にぶち当たったコンラッドが、かすかにうめき声を上げる。そこに男の放つ光球が、雨のように降り注いだ。立て続けに爆発が起こり、衝撃がアルフェの方にまで届いてくる。爆煙で、コンラッドがどうなったかは見えない。


「――師匠ッ!」


 アルフェは思う様にならない体を無理やり動かし、手を床について立ち上がろうとする。傷も無いのに、どうしてこんなに力が入らないのか。

 体が動かないというよりも、体内の魔力が乱れているのだ。先ほど男に流し込まれた嫌な感じが、まだ内側に残っている。


「本当に面白いな。……魔術と体術を掛け合わせているのか? その動きは。いや、それとも少し違うか……。従来の魔術体系には無い、新しい発想だ」


 独り言をつぶやく男の顔は、やはり判然としない。


「ふむ……。研究の余地はあるが、これ以上構ってもおれん」


 そう言うと、男は再びアルフェの方に向き直った。


「今日はこちらが優先だ」

「くっ!」


 アルフェは立ち上がろうとしているものの、その動きは生まれたての子鹿よりも頼りない。


「……待て」


 歩み出そうとした男の背中に、声が刺さる。


「師匠!」


 アルフェは叫んだ。立ち上がったコンラッドは、身体中から血を流している。目に光はあるが、受けたダメージは隠しようも無い。


「俺の弟子に、手を……!」


 言い終わる前に、コンラッドの足元から起こった竜巻が、彼を空中に巻き上げた。風に含まれる鋭利な刃が、その身体を切り刻む。


「これ以上、お前の相手をしている暇は無いのだ」


 天高く舞い上がったコンラッドが、自然な落下にはあり得ない勢いで、地面に叩きつけられた。


「師匠! 貴様――!」


 いつまでも寝ている場合ではない。アルフェは震える自分の身体を叱咤し、何とか立ち上がる。


「……気丈だな。聞いていた話と違うが、なぜそれほど。……術が解けかかっているのか?」


 男のいぶかしむ声が聞こえる。

 立ち上がったアルフェは、片手で胸を押さえて男をにらみつけた。まだ震えは止まらない。心臓の動きさえ乱れているように感じるが、それでも。


「死体で持ち帰る方法もあるのだが……。そうなると、別に多大な労力が要ることになる。大人しくしてもらおう」


 男がこちらに歩いてくる。先ほど瞬時に接近されたのは、何らかの魔術だったのだろう。そして今の男は、何の魔術も使わず、ただこちらに歩み寄ってくる。敵を全て無力化したと思い、侮っているのか。アルフェの前に立った男は、上からアルフェの瞳をのぞき込んだ。


「……美しく、澄んだ眼だ。本当に気丈な娘だな。流石はあの女のむす――がッ!?」


 男が何か言っている間に、アルフェの渾身の右拳が、男の顔面に叩きこまれた。


「何っ!?」


 完全に意表を突かれた攻撃を受け、男がのけぞる。

 アルフェは続いて左の拳を、男の脇腹にねじ込んだ。男に何かされたせいで、アルフェの体内の魔力の流れは滅茶苦茶だ。その拳は何の魔力も宿っていない、ただの拳だった。しかし、この一年で幾つもの修羅場をくぐってきた少女のそれは、強化されていなくとも、侮れない力があった。


「ぐ!?」


 続いて三の撃、四の撃と見舞おうとしたが、流石に男は態勢を立て直し、光の壁を展開する。衝撃は全て、その壁に吸い込まれたようだ。殴った手ごたえが、まるでない。だが――


「――良くやったッ! 馬鹿弟子!」


 追い打ちをかけて、跳躍したコンラッドが男の背後から飛び掛かった。


「ちぃ!」


 稲妻のごときコンラッドの蹴りを、男の防壁が受け流す。しかし、それに構わずコンラッドは連撃を続ける。倒れる前よりも、彼の速度は上がっている。それどころか、こうして見ている今現在も、更に加速しているようにさえ思える。もはや彼の動きは、アルフェの目では追えない。


 大きな泡がはじけるような音がして、余裕の表情に戻っていた男の口元が、驚愕に歪むのがアルフェには分かった。コンラッドの打撃が、男の魔術防壁に穴を開けたのだ。

 それでもまだ、その壁の向こうには更なる防御魔術が仕込まれていたらしい。コンラッドの肘撃は、またも見えない壁に阻まれた。


「……驚いたぞ。素晴らしいな」


 防壁が一つ砕かれたからか、男の顔が見える。知らない顔――いや。


 ――……どこかで?


 会っている。そんな気がする。だが、記憶に無い。


 男は一度その場から消え、距離を取った場所に出現した。これも体術ではない、魔術的な動きだ。

 一枚とは言え防壁は破れたのだ。コンラッドの技は、男に対して決して無力ではない。しかし、まだ驚きと称賛を素直に口にする余裕が、男にはある。


「……」

「師匠!」


 無言のコンラッドが、後ろ手にアルフェをかばう。


「……師匠? さっきも言っていたな。お前は公女にも、その技術を仕込んだのか? ふふふ……、興味深いな。実に、興味深い」

「……『公女』なんぞ知らん。そう言ってるだろうが」

「ふふふ、吠えるな。私には分かるぞ。その技術は、体内の魔力を直接消費して行使されている。爆発力と瞬発性に優れているが……、人間が使い過ぎればどうなるか」

「黙れ」

「そうさせてもらうとしよう。本当に興味は尽きないが……、私にも、遊んでいる暇がない」


 そして男は、初めて一つの呪文を唱えた。


「――【■■■■】」


 理解できない言葉で発せられたそれが、何の呪文だったのか、アルフェには分からない。


「――ぐっ!? がぁ……!」


 ただ気が付くと、男の右腕は、コンラッドの腹部に深く突き刺さっていた。


 世界が、酷くゆっくりと動いているように、アルフェには見えた。


 男の腕が引き抜かれ、コンラッドの腹から鮮血が噴き出る。彼は苦悶の表情を見せながら膝をつき、道場の床に倒れ伏した。


「――――ぁぁあああ!!!!」


 アルフェは言葉にならない悲鳴を上げる。


 血、生命の色、鮮やかな朱、何度も見てきたはずなのに、それが彼の体から流れ出たという事実が、彼女にとっては何よりも恐ろしい。


「ぐぅ!」


 男が再び、アルフェの喉首をつかんで持ち上げる。先ほどと同じ呪いが、男の手から流れ込んでくる。


「こ……のぉ!」


 アルフェの手はもがき、男の頭をつかもうとするが、空を切るばかりだ。


「“大人しく――しろ”」

「あ……」


 ――そうだ……、大人しく、しないと……。


 ――……違う! ち、が……。


 男の声には魔術的な威力が込められている。それによって、頭が強制的に思考を止められようとしている。呪いがどんどんと、身体の中に入り込んでくる。


 ――く……ぁ。




 ――助けて……、師匠……。


 消えかかる視界の中、アルフェは男の背後から、まばゆい光を纏ったコンラッドが覆いかかったように見えた。




 まぶたの上に、紅い日が差し込んでいるのを感じる。アルフェはゆっくりと目を開けた。何か、ひどい悪夢を見ていた気がする。


「ようやく起きたか」


 アルフェの目の前には、コンラッドの顔があった。

 暖かい。――ここは彼の腕の中か。自分は今まで、どうしていたのだろう。


「……あの男は」


 蚊の鳴くような声しか出せない。身体の自由も、まだほとんど戻っていない。


「去ったが、死んではいない。……いずれまた、来るんだろうな」


 そうか、やはり本気になった彼にかなう者など、いなかったのだ。アルフェは心の底から安堵する。


「師匠……、髪が、真っ白です」

「ん? ……ああ。……少し、魔力を使いすぎたな」


 コンラッドの髪は、雪のように白く輝いている。無性に触れてみたくなって手を伸ばそうとしたが、腕が上がらなかった。


「無理はするな、じきに動けるようになる」


 少女は小さく頷いた。

 二人が見つめ合ったまま、時間が過ぎた。


「……私、アルフェじゃないんです」


 そうだ、自分はその話を、彼にしようと思っていたのだ。


「……はは。なんだ、またその話か」

「私ずっと、師匠に、……コンラッドさんに、隠し事ばかりしてきました」

「……」

「きっと、私は嫌われるから。私が、私だと、嫌われるから」


 ――でも。


「私が誰でも、あなたは、私を嫌わないで――いてくれますか?」


 コンラッドは、アルフェを抱く手に力を込めた。アルフェは、それが彼の返事の代わりだと思った。


「ああ、もちろんだ。……お前は、俺のたった一人の弟子だからな」


 近づいた顔に、アルフェは震える手を伸ばす。そして白くなってしまったコンラッドの無精髭を、彼女は優しく撫でた。




「アルフェ、お前はこの町から逃げろ」


 アルフェの身体に、ようやく自由が戻ってきた頃、コンラッドが口を開いた。


「……なぜですか?」

「奴はまた来るだろう。捕まれば、何をされるか分からん」

「……そうしたら、また師匠が助けてくれるでしょう?」


「ああ、そうしたいな」


 コンラッドは悔しそうに笑った。


「だがもう、俺では奴を止められない。だから、お前は逃げてくれ」

「どうして……」


 そんなことを言うのだろう。俺も伝えたい事があると言ってから、コンラッドは言葉を続ける。


「俺が二十年かけて身に付けた技を、お前はたった一年で、ここまでものにして見せた。……アルフェ、お前には、俺にない天賦の才がある」

「師匠が褒めて下さるのは、珍しいですね」


 でも、前にも一度だけ、こんなことがあったかもしれない。


「お前は師匠と慕ってくれたが、実際俺は、下らない男だった」

「突然……どうしたんですか?」

「前に、話したろう。俺は、勇者になるのが夢だった」


「……はい」

「しかし、俺がそうなれなかったのは、剣の才が無かったからでも、兄に勝てなかったからでもない。ただ俺が――愚かな乱暴者だったからだ」

「…………」


 コンラッドが遠い目をしている。


「俺が少しは強くなれたのは……、所詮はつまらない劣等感のお陰だ。しかも俺は、得た力を、何かのために振るうでもなく、ただ持て余していた」

「私だって――」


 大した目的があるわけでは無い。そう言おうと思ったが、コンラッドが首を振って遮った。


「難しい話じゃない。そうだな……。つまり俺は――、お前が弟子になってくれて、すごく嬉しかったんだ。……お前が――」


 ――お前が、お師匠様と呼んでくれたから、俺は。


 そう言って微笑む彼の顔が、なぜかにじんでいく。


「俺のようなでき損ないが、お前のような弟子を持てたのは、身に余る幸運だった」


 それは、私だってそうだ。


「……つまらない技だが、それでもこれは、俺の人生の証のようなものだ。できれば、お前に継いで欲しい」

「……」

「これをどう使うかは……、お前にまかせるよ。なぁに、好きに使えばいいんだ。アルフェ、お前は優しい娘だ。間違ったことには、使わないさ」

「……はい」


 ふと思い出したような表情で、コンラッドは周りを見渡した。


「……あの塀は、結局直さなかったなぁ。……また大家は、怒るかもしれん。」


 二人が出会った日、彼が穴を開けた塀を見て、コンラッドはがっくりと肩を落とす。塀だけではない。さっきの戦闘で、庭や建物も荒れ果てている。でもきっと、元気になったローラさんは許してくれる。大丈夫ですよと言って、アルフェは笑った。


「……泣くな」


 そう言われて気付いた。自分は泣いている。なぜ泣いているのだろう。分からないけれども、涙が溢れて、止められない。

 コンラッドがその大きな指で、こぼれたアルフェの涙をすくう。


「ローラさんだって……」


 泣くに決まっています。その言葉は、胸につかえて言えなかった。コンラッドの身体から、何か、とても大切なものが抜け出ていくような気がする。


「あいつが、泣くかなぁ……」


 はにかんだようなコンラッドの笑顔が、夕日に照らされとても眩しい。


「…………いや」


 コンラッドの脳裏に浮かんだのは、初めてこの町で、ローラと会った日の光景。

 幼い日の彼女は、酒場で暴れていた自分を殴りつけた後、何故だか分からないが、泣いていた。


「泣いてくれるかも、しれんな……」

「師匠……。……お師匠様?」


 そして、その顔に笑みを残したまま、コンラッドは目を閉じた。









 坂の上の道場から響いていた激しい戦闘音は、ずっと前に止んでいた。

 あれだけの轟音が響いていたというのに、夕暮れの街は奇妙な静寂に包まれている。まるで、都市の全ての人が、眠りについているかのように。


 道場の中、一人の少女が、男の亡骸を抱えて座っている。


 彼女はその日、自分にとって、最もかけがえのない人を奪われた。 

 孤独だった自分が、この町で手に入れた生活、新しい人生。それらが全て、乾いた砂の様に、両手から滑り落ちていくのを感じる。


「………………よくも」


 師の抜け殻を抱きしめながら、赤子の様にアルフェは泣いた。


「……よくも」


 泣きながら、彼女は考えた。


「……あの男が」


 あの男は、また来るのだろうか?

 来たとしたら、悔しいが、今の自分では絶対に勝てない。


「――あの男……!」


 しかしいずれ、あの男にもう一度会ったら――


「絶対に――」


 だがそれはまだ、先の話だ。

 少なくとも、このまま自分がこの町にいる事はできない。

 そして、今のように弱いままでいる事も出来ない。


「絶対に――殺してやるッ!」


 この日、少女は誰よりも強くなろうと、心に決めた。

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