暗躍のイニシャライズ

孔雀 凌

修二の母がネットで購入した香辛料が、その身体に異変をもたらす。


「誕生日、おめでとう。修二」

「もう、二十八なのか」

仕事から帰宅した僕を、リビングで家族全員が迎えてくれた。

「沢山、食べて。今日は腕を振るったのよ」

母に促され、食卓につく。

僕の好物ばかりが並ぶ、豊富な食材が盛られた皿に、さっそくと箸を伸ばした。

口の中に、普段と異なる食感が拡がる。






「お袋。これ、香辛料のパウダー? 新商品とか」

「気がついた? 実は、それ、ネットショッピングで購入したのよ。修二にだけ、特別よ。何でも、『万能回帰薬』っていう、変わった商品名でね」

彼女が嬉しそうに言う。

母は変わり種を好む。

しかし、何だ。

その、万能回帰薬ってのは。

とにもかくにも、母の作る手料理は上手い。

強いて言えば、普段の味付けの方が僕にはしっくり来るのだけれど。






食に満たされ、至福に包まれたまま、僕は眠りに就く。

はずだった。

平穏な心とは裏腹に、僕は何度となく寝返りを繰り返す。寝苦しい。

翌日、出勤すると、僕はいつもの様に更衣室で制服に着替える。

「変だな」

袖を通したシャツをまじまじと見つめた。

「どうした?」

僕が自分の衣服に気を取られていると、後から出社して来た同僚が不思議そうにこの顔を覗き込んだ。

「制服、こんなに大きかったかな、と想ってさ」

「? 痩せたんじゃねーの」

シャツの裾を引っ張る同僚が悪戯に笑う。

「それより、明日の特別休暇、恒例の社員運動会やるって。お前も参加するだろ」

「またかよ。一昨年、右足を捻挫してから調子悪くてさ。徒競走とか、マジ勘弁して欲しい」

「最近、順位落ちたよな、お前」

心待ちにしていない行事やイベントに限って、瞬く間に当日は訪れるものだ。






「位置について。よーい!」

合図用のピストルが上空に向けて放たれる。

「まあ、そんなに露骨に嫌な顔をしなさんな。学生の運動会じゃないんだから、気楽に挑めばいいさ。ほら、もうすぐ俺等の出番だぞ」

同僚に背中を押され、僕は徒競走のスタートラインに着いた。

合図と共に駛走する。

ん? 身体が軽い。

こんな感覚は久し振りだ。

何かが腰の辺りに触れるのを感じて、僕は我に返る。

同時に、周囲から歓声が上がった。

「凄いじゃないか! 修二。お前、一等だぞ」

ゴールに張られていたテープが視界に映り込む。

先頭の僕が切った物だ。

信じられない。

一等と刻まれた旗を受け取ったものの、僕は唖然と立ち尽してしまう。

「見直したぜ。本当は走れない振りをしてただけなんじゃないのか?」

次々と駆け寄る同僚が、この肩に腕を回す。

僕は都合のいい夢でも見ているのだろうか。






帰宅後、僕は自室で数日後のプレゼンに備えてレポートを書いていた。

「14日って、何曜日だったかな。カレンダー……」

椅子に座ったまま振り返り、一メートル以上離れた所に位置する、壁掛け式の七曜表に目を向ける。

やけに、良く見える。

それも、そのはずだ。

母に眼鏡を新調してもらったばかりだからな。

僕は、目元にそっと触れてみる。

いや、待て。

今の僕は、眼鏡をかけていない。

裸眼での両視力は0.01だ。

見えるはずがない物が、鮮明に認識出来ている。

何なんだ。

近頃、妙に調子が狂う。

だが、寧ろ、全身を取り巻く全ての機能が回復し始めている気もしてならない。






明け方にようやく睡魔に襲われた僕は、大胆な寝坊をしてしまった。

着替えだけをし、洗顔も、朝食も摂らず、母に顔を見せる事もなく、家を飛び出した。

「遅れてすみません!」

始業時刻はとうに過ぎていた。

同僚や上司の驚いた様な視線が突き刺さる。

「何だ、その子供は。どこから入って来たんだ」

部長が訝しげに言う。

子供? 辺りを見回すも、子供なんて何処にもいない。

「ねえ、僕。どこから来たの? お母さんは一緒?」

女性従業員が、優しく僕の両肩に手を置いた。

背筋に凍る様な寒気が走る。

自身の足元に眼をやると、二回り以上も大きな制服を踵の遥か下まで引き摺っていた。

硝子ごしに映った自分の姿を見て、僕は驚愕する。

それは、小学生低学年位の少年だった。






何故、こうなったのか理解も出来ずに放心状態のまま家路を辿る。

自宅の庭先で無意識に母を探し、その姿を捕らえた。

「どこの子かしら? まあ、怪我をしてるのね。手当てをするから入って」

僕より背の低かった母を、今は精一杯、この首を傾けて見上げている。

母は優しく僕を室内へと誘導する。

「この子、修二の幼い頃にそっくりだわ」

彼女は両腕で僕を包み込む。温かい。

けれど、母の口元は意味深な笑みを含んでいた。

「あらあら、眠っちゃったのね」

目覚めると、僕は真っ暗な闇の中だった。

いや、正確には仄暗く、真赭の色を漂わせている。

柔らかい繊毛の様な、全身を心地良い眠りへと誘う場所。

だが、自身で身動く事は出来ない。

僕の腹部からは、一本の細い緒が伸びていて、何かと繋がっているのが理解出来る。

『万能回帰薬』と、自慢気に母が見せた、あの香辛料は何だったのだろうか。

人生が巻き戻しを喰らってしまった事だけは確かな様だった。









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