第七場 衝撃のラストと深まる溝(1)

 いくら千野は実力で選ばれたって送っても、既読スルーで終わった昨夜。今日も廊下ですれ違おうと声すら掛けさせてくれない。


 千野と知り合って一年。初めての態度に、沈む心のまま迎えた放課後。若葉たち三人で向かった部室の前に、千野がいた。壁に寄りかからないギリギリの距離に立って、左手の脚本に目を落としてる。


 何も知らない若葉と羽美が、演劇部特有の「おはよう」の挨拶をすると、千野が顔だけ動かして一番後ろの私を真っ先に捉えた。


「お、おはよ」


 反射的に挨拶してしまう。

 白地に紺のライン、背中に坂之西高校と英字刺繍の入る学校指定ジャージに着替え、前ファスナーを開けて着こなす身長一八〇cmの千野に、前を通る女子バレー部員たちが慌てて身なりを整えてみたり、サワサワしてる。


 爽やかな風が吹き付ける度めくれるページが煩わしそうで、それでも羨ましいって思いは、スルーされてる気まずさと掛け合って、苦く滞る。


「水月、台本貸して」


 私の挨拶には返さず、開口一番、千野が言った。目にかかりそうな前髪が、更に千野の瞳の大きさと強さを印象付ける。


「えっ? 何で……」


「早く」


「う、うんっ」


 意図は分からないけど、千野から話しかけてくれた安心感で、急いでリュックから自分の脚本を取り出して渡した。若葉たちが「先に着替えてるね」って部室に入ってくのを横目で見送る。


「ね、ねぇ、千野。何回も言うけど、私、本当に千野は実力で直義なおよし役に選ばれたって思ってるよ?」


 パラパラと未完成の脚本を五秒もかからずめくり切って、千野が音を立ててそれを閉じた。


「水月、この台本いつ完成すんの?」


 また一方的に、見下ろすように問う千野に動悸が早くなる。


「し、知らないけど、たぶん今日か明日じゃない?」


「大会までのスケジュールは?」


「そ、それは、台本が完成してから考えようと」


「昨日、どのくらい台本読んだ?」


「えっ、とー……二回目で寝落ちした」


「話しになんねー」


 矢継ぎ早に質問した後、私に押し付けるように脚本を返し、体育館方向へと去って行く千野。もしかしなくても、更に怒らせた、よね。


「だ、だって、昨日は課題とか、今日当たるし和訳もしなきゃとか、やることいっぱいあったし。それに、千野には無視されてたしっ」


 言い訳だって分かってるけど、冷や汗ダラダラだけど、追いかけて真横から見上げた。立ち止まった千野が、ぐいっと顔を近付け凄んだ表情を見せる。


「台本が完成してない今だからこそ、できることがあっただろっ、水月は特に。俺を言い訳に使うな」


「ご、誤解は解きたいっ」


「誤解なんてしてない。れる役が無いから演出とか思ったままの水月と、話すことなんてねーよ」


 怒りは隠さず、けれど抑えた声で言い切った千野を、それ以上追うことはできなかった。


 たぶん全部、見透かされてる。


 その思いが、返された脚本をひどく冷たく感じさせる。でもさ。


「みんなが千野みたいに、メンタル強くないんだよ……」



 体育館の舞台上で柔軟と筋トレ、発声練習だけはした後、全員で視聴覚教室に移動した。

 そこで少しだけ遅れて来た先生から新たに配布された脚本が、私に追い打ちをかける。ついに完成したそれは、どんでん返しに次ぐどんでん返しの、悲恋の物語だった。




 両想いだと思っていた直義と弥生やよい。けれど、直義の心にいたのは弥生ではなかった。


 愛する弥生と幸せな日々を送る清史郎せいしろうに絶望し、自ら命を絶った『お千代ちよ』。お千代もまた、清史郎を恋い慕っていた。


 直義は、自分の想いよりお千代の想いを清史郎に伝え、祝言を止めるよう何度も訴えた。お千代の幸せを願って。


 対する清史郎は、店のためでなく、偶然見かけ一目惚れした弥生と一緒になりたいと二人に話す。幼い頃から兄妹のように育って来た三人。お千代のことは、妹のようにしか思えないと告げて。


 そして祝言から七日後、悲劇は起きた。


 還らぬお千代を前に、直義の中に強い憎しみの炎が生まれるのは必然だった。


 更に同じ日、たまたま起こった火事から逃れるため迷い着いた場所で、弥生と直義が出会ったのが新たな悲劇の幕開けとなる。満開の桜が恐ろしく綺麗な夜の、残酷な運命の導きだったのだろうか。


 後日、弥生が清史郎の妻であると知る直義。その時から弥生は、清史郎を傷付けるためだけの駒となった。


 やがてそれとは知らずに弥生が起こす、清史郎への復讐の、お千代への弔いの、江戸を焼く火事。


 一連の真相について、弥生は直義に想いを告げ、清史郎とお千代こそ結ばれていればと吐露した後、怒り狂う直義から聞かされる。


 この時初めて、弥生は三人の関係を知ると共に、清史郎の嫉妬だとばかり思っていた言動の数々が、直義から自分を守るためのものだったと気付いた。


 しかし、後悔するにはあまりに遅過ぎた。


 止まらない直義の怒りはついに、弥生へも向かう。出会いの日と同じ、満開の夜桜の下。手にしたお千代の形見である、自らが見繕って与えた懐刀ふところがたなに宿して——。




 これが、『まとい』の全容。


 壮絶な愛憎劇に引き込まれながら読み切って、大きな衝撃を受けた。


 窓から入る管楽器の不釣合いな音が、火事場近くで乱打される半鐘の音にも聞こえてくる。さしずめ、風に揺れる木々の騒めきは、纏持ちの振るう纏の音?


 この脚本の演出って……。



「大丈夫。弥生も水月と同じ、十六歳だよ」


 硬直する私とは対照的に、笑顔の先生がいる。そんな応援されたって、何の励ましにもならないんですけど。


 だけど、この直義を演じる千野は、すごく観たいと思った。

 微かに、舞台上でピンスポの中に立つ直義の姿が浮かぶ。


「じゃあ、昨日と同じで、とりあえず一回読んでみてもらっていいかな。その後で水月に中心になって進めてもらうとして、水月はまたト書きをお願いできる?」


「はい……」


 私一人が力無い返事をしつつ、席を移る。


 窓が閉まって風が止んだ、昨日と同じ空間。

 一つだけ違うのは、今日から私は、授業をする先生みたいに教卓で部員と向き合って座ること。キャスト同士はバラバラに離れて座って、裏方のみんなは後ろの方でそれを聞く。


 別に偉くもないし、演劇の知識が豊富ってわけでもない。先輩だっているのに、ただ演出って肩書きに付随する、この慣れない特別感が嫌で落ち着かない。


 明るい室内でみんなの顔がよく見える。

 いつもどおり、真ん中辺りに座る千野にチラリと視線を投げると、ジャージを脱ぎ、読みの体勢に変わったところだった。


 小さくため息が漏れたところで、今度は千野の左右斜め後ろに座る、一年生コンビの姿が目に入った。


 ん?


「あっ、一年生、自分の台詞にライン引かないよっ」


 思わず立ち上がって止めてた。

 清史郎役の一年女子、花森はなもりさんと、呉服屋の奉公人『虎鉄こてつ』役の一年男子、村井むらいくんが、マーカー片手に同時に顔を上げる。


 花森さんはショートカットのイケメン女子で、高めの身長とハスキーボイスも相まって、自他共に認める女子にモテる女子。対して村井くんは、素朴な純情少年タイプ。


 二人の机上にある刷り直したばかりの脚本に、それぞれピンクと黄色の蛍光色のラインが見えた。


 去年の県大会の練習中、私たちも先生に言われたこと。戸惑いつつもマーカーを置く二人にホッとして、座り直した。


「うん。水月の言うとおりだけど、理由も言ってあげた方が二人とも納得できるんじゃないかな」


 私の左前の席から、笑顔の先生が促してくる。密かに焦った。


 り、理由?


「あ、あのね。ライン引いちゃうと、自分の台詞にばっかり意識が行っちゃって、相手役のこととか、物語の全体を見なくなっちゃうのね。えと、台詞って本来、他者との対話で生まれるものだから、ここまでどういうやり取りがあって、それによってどんな気持ちで出て来た言葉なのかを、脚本全体から考えて欲しくて……で、ですよね、先生?」


 しどろもどろになって、結局、先生に振ってしまう。


「うん。もちろん自分の台詞を覚えることは大事だよ。でも、台詞が無いところこそおろそかにしないで役作りすると、観てる方により説得力を与える芝居ができる。行間を読むってことなんだけど、脚本はあくまでも、その役のある一部分を切り取ったに過ぎないからね。脚本には書かれていない自分の役の人となりや、相手役との関係性なんかを明確にしておくと同じ台詞でも言い方が違って来るって、水月も体感したよね?」


「あっ、はい」


 その先生の説明こそ説得力が違って、なんか肩身が狭い。やっぱり私には、演出なんて向いてない気がする。


「まあ、私たち二年も去年、思いっきり引きまくって鬼のように先生と先輩に怒られたんだけどねー」


 偉そうにはなりたくなくて茶化す私に、部長の麻由先輩から「誰が鬼だって?」ってツッコミが入ると、室内に笑いが起きた。でも、嫌でも目に入る千野は……無表情。


 いいのかな、こんな調子で。なんか、何もかも自信を無くしてく。

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