第五場 演出が、私?
地区大会の打ち合わせ後、再び学校へ戻って練習を終えた午後八時過ぎ。私とは別の場所で裏方の作業をしてた若葉と羽美が戻って来るのを、私は部室棟二階にある演劇部の部室で一人、待っていた。
ロの字型に配置された長椅子の真ん中に、木製のローテーブルが一つ。コンクリート打ちっぱなしの四方を囲む壁には、歴代演じてきた脚本や資料、演劇を題材とした漫画本が並ぶ三架の本棚。冬にはコート掛けになる大型のハンガーと、専用倉庫に入りきらなかった衣装の一部、作りかけの小道具などが所狭しと置かれてて、全部員が身体を寄せ合って入れる空間しか残っていない。
薄く開けた引き戸と窓を通り抜ける湿り気を帯びた夜風が、隣室のバレー部員たちの大きな笑い声を運んで、地区大会の日に赤丸を付した壁掛けカレンダーを揺らした。
微かに埃っぽさが香る中、入り口を背に、私は長いため息を漏らす。
腰掛ける、欠けた角もヤスリ掛けしたように丸く滑らかになった木製の椅子が、カタンと小さく音を立てた。
手には台本と、今日の打ち合わせで配布された『北部地区高等学校演劇祭』の冊子。その冊子の見開き三、四ページ目を確かめるように開くと、そこには、上演各校の作品名と作者、顧問、演出、舞台監督名と、その他の部員の名前が記載されてる。
西高の欄。
作品名『
三年前に九条先生が顧問になってからは、毎年先生が脚本を書いてるらしい。過去三作品ともビデオで観たけど、脚本自体すごく面白いと思ったし、元々十人もいない部だったとは思えないくらい工夫の凝らされた舞台に、時間を忘れて見入ってた。
その頃から西高は必ず、地区大会で最優秀賞又は優秀賞を受賞するようになって、中にはブロック大会まで出場した年があるのも頷けた。
去年、その内の一作品に関わってるからこそ、そのすごさが分かる。
同じ九条先生の脚本で、三年生が三名、二年生が七名、一年生が十名の計二十名まで増えた現演劇部。
舞台監督には、経験豊富な三年の
だから今年も……、むしろ今年こそ、より完成度の高い舞台が作れるはず。
そのまま視線を右にスライドする。
演出『水月立香』。
全国を賭けた公式大会ラストチャンス。
私は、キャストには選ばれなかった。
舞台作りにおける総責任者として、裏方のトップに立つのはもちろん舞台監督だ。
だけど、脚本の真意を伝えるため、舞台そのものを創造し、役者と裏方双方が共通認識を持って一つの作品を創り上げる。そのまとめ役であり、舞台の最高責任者になるのは、演出。
私の仕事。
一つ上の欄には、同じように坂之東高校の情報もある。作品名『myself』。作者、演出には同一の名前。
『
同じ二年の、山科さんの名前だった。
内容は分からないけれど、ここ十年はブロック大会出場常連校の東高で脚本を書き、演出を担当する山科さん。
打ち合わせの最後、イベントホールのスタッフさんに、舞台裏や各設備などを見学させてもらう順番を待つ間、朝比奈くんに話しに行くっていう千野について東高の席まで行った。
朝比奈くんと千野を、多少興奮気味に観察する山科さんに思い切って話しかけるために。きっと、私以上に強い重圧を感じてるんじゃないかと思って。
「わたくし、中学から創作と演劇に携わっていて、いつか自分で脚本を書いてみたいと思っていましたの。今は一日でも早く、わたくしたちの舞台を観ていただきたいですわ」
二人で一つの冊子を覗き込んで言葉を交わす、朝比奈くんと千野に悶絶する山科さんの顔には、みなぎる自信と余裕しか無かった。
東高の脚本が決まったのは春休み初日。しかも演出は、演出助手も含めて三人いる。あとの二人は一年生だって聞いた。
そもそも東高の欄に載る名前は西高の倍以上。部員数は少なくとも四十人はいることになる。
きっと全てにおいて、スケールもレベルも違うんだろう。
部員数の差こそあれ、他校からだって、そろそろ本番どおり練習するゲネプロに入る、完成した大道具の運搬方法の確認、照明や音響の特例に関する質問が聞かれたりする。
準備期間に関して言えば、東高が特別早いんじゃない。西高が、特別に遅いだけだ。
「朝比奈って、今回、主役
その後、一度も朝比奈くんと話せないまま乗った帰りのバスの中で、千野が楽しそうに言った。
「……そうなんだ。朝比奈くん、やっぱりすごいなぁ」
「すごいかどうかは、実際観るまで分からねーけどな。東はもう三年は引退してるらしいし、本番が楽しみだな」
一層やる気に満ち溢れた様子の千野に、うまく笑えた気がしない。
朝比奈くんが主役。
誇らしく思う一方で、意外でもあった。
気付けば静かになってた部室の中、冊子を閉じ、台本と一緒に抱き締めながらゴロンと長椅子に横になると、冷やりとした木の感触が夏服を通して右腕に伝わる。
現部長の麻由先輩が引いた上演順を決めるくじ引きは、十校中の八校目。西高は、大会二日目の四番目に決まった。悪くない。
大トリは、東高。
本気でやるって、誓ったはずなのに……。
そのまま目を閉じて思い出す。遡ること二ヶ月前。ゴールデンウィーク間近の四月下旬の日を。
***
「……じゃあ、配役は以上。途中までで申し訳ないけど、役のイメージを掴みたいから一回読んでみてもらっていいかな」
放課後の視聴覚教室で、九条先生がさも当たり前みたいに続けた。まるで異論なんて無いでしょって言わんばかりに。
待って。
いやいや、待ってよ、先生!
校舎三階に位置するこの教室は、窓を開けるとかなり風通しが良い。音楽室で練習する吹奏楽部の音が、緑の匂いと共に風に乗ってダイレクトに響いて来る。
私は立ち上がって声を張った。
「先生、待って下さい! どうして私なんですかっ? 絶対に無理です!」
本読みの時にはいつもそうするように、一年生が率先して窓を閉めてくれると、教室も先生の顔もしんと一瞬空気が止まった。
「水月、悪いけどそういう話なら後にしてくれる? 一回聞き終わったらボク、続き書かなきゃならないし、時間無いの分かってるよね」
地区大会のある六月下旬まで、実質二ヶ月も無いこの時期、二、三年生はずっとヤキモキしてた。
昨日やっと手渡された脚本。各自で読んで本人の希望を元に、たった今、全てのキャストとスタッフを先生が指名したところ。西高はいつも、この方式で役割を決める。それ自体に異存はない。けれど。
時間無いのは、先生のせいじゃんっ。
「でも……っ」
およそ教師らしからぬ、長めの髪を後ろで結ぶ先生に食い下がった。毛先はスズメの尻尾程。それでも切る気はないらしい。常にこの髪型でいる。
ちなみに九条先生は、主に古典担当の国語教師だけど、国語って言うより理系の雰囲気が漂う不思議な人。三十二歳、独身。現在、彼女なしって自分で公言してる。
「水月はト書きを読んでくれる? じゃあ、始めるよー」
先生の「はいっ」ていう声と手を打つ音に、グッと唇を噛むことすらできず、私は、
「第一幕、第一場……」
読み始めるしかなかった。
私の希望はキャストなのに。そのために今日まで頑張って来たのに。
なのに、どうして希望もしてない演出に私がなるの?
とにかくショックが大きくて、目の前の文字を追うだけで精一杯だった。
『
一代で築き上げた呉服屋の更なる繁栄のため、その若旦那である二十歳の『
その結婚から一年が過ぎたある春の夜、江戸では珍しくもない火事が起こったのをきっかけに、登場人物それぞれの運命が動く。
火事の最中、清史郎の前から忽然といなくなった弥生。火元である清史郎の呉服屋内で見かけたとの情報に、命令婚だったとは言え、一目惚れし、心から弥生を愛していた清史郎は、燃え盛る炎の中へと飛び込んで行った。
清史郎の安否は不明のまま、物語は進む。
実は、既に店からは遠く離れていた弥生。向かったのは、清史郎の幼い頃からの友人で、金物問屋の長男である『
直義と会う約束などしていない。けれど、必ず会えるはずだと信じて弥生は走った。なぜなら、結婚して間もなく出会った直義のことを密かに想い続け、直義の助言どおり、全てを捨てる覚悟で清史郎の店に火を放って来たのだから。
直義と運命的な出会いを果たした、一年前と同じ、桜が満開の火事の夜を再現してまで。
この日の火事は、互いに一年間
弥生にとってはこれが初恋。想いの止め方なんて知らなかった。
清史郎に文を見つかり、直義と会うことも、文を交わすこともできなくなった弥生が、直義に会いたい一心で燃やした熱い炎。
この日、手元にあった脚本はここまで。
時代劇は、先輩たちにとっても初の試みだったけど、興味はあった。
続きはきっと、無事に直義と会うことのできた弥生にとって、ハッピーエンドになるのだろうと想像しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます