第14話 獣人の少年

 間一髪だった。剣を抜いたイリアがそれを振り上げると、男の子と魔物の間に土壁が現れた。驚いた両者の動きが止まると同時に手綱をルイファスに預け、馬から飛び降りる。


「その子から離れなさい!」


 魔物に切っ先を向けると、声に反応した魔物がゆらりと振り返る。すると、威嚇しているかのような咆哮を上げ、一直線に向かって来た。彼女も剣を握り締め、迎え撃とうと駆け出す。

 先に動いたのは魔物の方だった。イリア目かけて巨大な爪を振り下ろす。しかし彼女は攻撃をかわすと、そのまま懐へ飛び込み、無防備な腹を斬り上げた。すると今度は、横から腕が襲い掛かってくる。すかさず後ろへ飛び退き、魔物の腕を深く斬り裂いた。

 怒り狂った魔物は再び咆哮を上げ、残った片手を振り上げる。しかし、それが下ろされることは無かった。眉間には深々と弓矢が突き刺さっており、ゆっくりと崩れ落ちていく。振り返った彼女の目に映ったのは、馬上で弓を構えたルイファスの姿。おもむろに構えを解いた彼は、口元を引き上げて笑みを浮かべた。

 彼女は笑みを返し、剣を鞘に収める。そして男の子と目線を合わせるべく、彼の正面にしゃがみ込んだ。


「もう大丈夫よ」


 男の子は肩を揺らし、勢いよく顔を上げる。彼はポカンと口を開け、目を真ん丸くして固まっていた。

 呆けている彼を安心させるように、イリアはにっこりと微笑みかける。そして男の子の服に付いた汚れを丁寧に払っていった。その間、彼はされるがままであったが、彼女がフードに手を掛けた瞬間、顔色が変わる。


「あっ!」

「え?」


 男の子が突然、大きな声を上げたのだ。不思議に思いながらもフードを脱がせると、そこにあった光景に、彼女は思わず息を呑む。いつの間にか隣に並んでいたルイファスもまた、目を見開かせている。驚きに満ちた二人の視線を受け、男の子は怯えがちに彼女等を見上げた。

 彼の髪と瞳は茶色。服装はパーカーと長ズボン。そこに変わったところはどこにもない。だが彼は、二人が見たことも無いものを持っていた。彼の頭の上にある、犬のような獣耳。


「貴方、もしかして……獣人なの?」


 イリアの問い掛けに、しばらくの沈黙の後、男の子は小さく頷いた。

 獣人とは言葉の通り、人間に近い容姿でありながら、動物の特徴も併せ持っている種族だ。しかし、個体数は人間より遥かに少なく、また、人里離れた場所にひっそりと住んでいるため、出会うことは非常に稀である。


「へえ……獣人なんて初めて見たな。この耳、本物なのか?」


 ルイファスは身を屈め、興味深そうに男の子の耳を軽くつねって遊んでいる。それとは対照的に、イリアは羨ましそうにその様子を眺めている。だが、男の子が「やめてよ! くすぐったいよ!」と暴れているため、我慢しているようだ。

 そして遊び飽きたのか、おもむろに手を離すと、男の子は耳を押さえて背を向けてしまった。イリアは目を細め、それ見たことかとルイファスを非難する。


「ルイファスのせいで拗ねちゃったじゃない」

「イリアだって、触りたそうに見ていたじゃないか」

「でも、この子は嫌がってたわ」

「触りたいのは否定しないんだな。……ん?」


 ふと、男の子が二人に視線をやっているのに気が付いた。先程のような怯えた瞳ではなく、酷く困惑したようなそれ。ルイファスは目を丸くする。


「どうした? 俺たちの顔に何か付いているのか?」

「……お兄ちゃんたち、悪い人じゃないの?」

「え?」

「だって、おじさんは、人間はひどいヤツばっかだって言ってるよ。ボクたちは何もしてないのに、人間にひどいことされたって。みんなもそう言ってる。お兄ちゃんたちは違うの?」


 思い掛けない質問に、二人はきょとんと目を瞬かせる。だが次の瞬間、揃って笑い出した。男の子はさらに不思議そうに首を傾げている。そんな彼の頭を、イリアは優しく撫でた。


「私たちは貴方に酷いことをしないわ。安心して」

「……ホントに?」

「ああ、本当だ。俺たちが悪い奴に見えるか?」


 男の子は二人の顔を交互に見つめた後、静かに首を横に振る。そして目を細め、初めて笑顔を見せた。子供らしい、無邪気な笑顔だ。


「ボク、アウルっていうんだ」

「私はイリアよ」

「俺はルイファス。ルイスでいいぞ」

「イリアお姉ちゃんと、ルイスお兄ちゃんだね」


 アウルは立ち上がろうとして、「いたっ」と顔をしかめる。足をくじいていたことをすっかり忘れていたのだ。

イリアがズボンの裾をたくし上げると、足首が赤く腫れ上がっていた。その痛々しい様に、思わず眉をひそめる。


「じっとしてて。今、手当するから」


 イリアは自分の腕輪に手を掲げる。そこに埋め込まれた石が淡く光ったかと思えば、薬草と包帯、ガーゼに水筒が出てきた。初めて見る光景にアウルは目を丸くし、キラキラと瞳を輝かせる。


「すごい! イリアお姉ちゃんは、魔法が使えるんだね!」

「まあ、そんなところかしらね」


 クスクスと相槌を打ちながら、手際良く準備を進めていく。そっと靴を脱がせると、薬草を水筒の水で濡らし、手で擦り合わせる。それを患部に塗り込み、ガーゼで覆った上から包帯を巻いていった。そして再び、靴をはかせる。


「はい、終わったわよ」

「ありがとう! イリアお姉ちゃん!」

「どういたしまして」


 満面の笑みを向けるアウルに、イリアはにっこりと笑みを返す。緊張感に満ちた初対面の雰囲気は、どこへ行ったのか。今やすっかり和んだそれに変わっていた。

 だが、ずっとここで留まっている訳にはいかない。森の中では、いつ魔物に襲われてもおかしくないのだ。

 ルイファスはアウルを抱くと、ゆっくりと立ち上がった。


「さて、そろそろ行くか。俺たちが送ってやるよ」

「え、でも……」

「大丈夫だ。向こうに着く前には下ろしてやる」


 村まで送るとは言えなかった。アウルの話ぶりから、獣人は人間に対して神経質になっていることが容易に想像出来る。

 とはいえ、ここで彼と別れ、一人で帰すことも出来なかった。子供は狙われやすい上、今のアウルは足を怪我している。魔物にとっては格好の餌食だ。

 繋いであった馬の背中にアウルを乗せ、ルイファスはその後ろに跨る。木漏れ日が優しく差し込む中、二頭の馬は森の中を並んで歩いた。彼の目の前には、歓声を上げてはしゃいでいる後頭部。忍び笑いが抑えられない。


「調子に乗って落ちるなよ、アウル」

「大丈夫だよ!」


 頬を膨らませ、ルイファスを軽く睨む。だが、すぐに再び目を輝かせ、足をぶらつかせながら周囲を見回した。

 楽しそうな彼の様子を見ていると、こちらまで胸が温かくなってくる。二人は周囲を警戒しながらも、思い掛けずに得た癒しの時間に顔を綻ばせていた。

 それにしても、どれだけの距離を進み続けたのだろう。随分と奥深くまで入って来た。だがアウルは、獣人の村はまだこの先だと言う。子供とはいえ、彼等の身体能力は人間を遥かに凌ぐようだ。


「アウル、いつもこんなに遠くまで遊びに来てるの?」

「いつもは村の近くだけど、たまに遠くまで探検するんだ! 今日は村の近くで遊んでたんだよ。でも……」


 そこで言葉を切り、下を向く。そして彼は、唇を尖らせて頬を膨らませた。


「いつもみたいに友達と遊んでたら、急にアイツが出て来たんだ。それで追い払おうと思って、石を投げたら……」

「追い掛けて来た、という訳か」


 頷く彼に、二人は呆れたようにため息を吐く。しつこく追い回されていた理由が分かったからだ。そして二度とそのような無茶をしないよう、しっかりと注意する。アウルも懲りたようで、素直に頷いた。


「そういえば、イリアお姉ちゃんとルイスお兄ちゃんは、どこから来たの?」

「私たちは旅をしている途中なの。ちょっと前まで、この先の村にいたのよ」


 イリアは来た道を振り返り、指を差す。アウルも同じ方を向き、「あ!」と声を上げた。


「ボクも、友達と近くまで行ったことあるよ! 探険したんだ!」

「あの近くまで探険って、お前なあ……」

「それでね、丘の上のおっきい家の近くに、まっ白なおっきいヤツがいたんだ! お母さんに聞いたら、ドラゴンって言うんだって」


 アウルは頬を赤らめ、「ボク、初めて見たよ!」と興奮気味に話している。だが、二人にはそれが聞こえていない。唯一聞こえていたものといえば、それは――


「ウェスティン村の……丘の上の大きな家の近くで、白いドラゴンを見たの?」

「うん! ボク、嘘つかないもん。それに、ボク、目が良いんだよ。絶対、間違い無いよ!」


 誇らしげに胸を張る。その様子は、嘘をついているようには見えない。出会ってから数時間も満たないが、それくらいは分かる。

 イリアにとっては、友人の証言の裏付けに。ルイファスにとっては、情報の信憑性を疑っていた自分の考えを改める結果になった。テルティスから遠く離れた地でも、白いドラゴンの目撃情報が挙がったのだ。しかも、人間とは交流を断絶している獣人の口から。

 自信たっぷりな彼を尻目に、深刻な面持ちをしたイリアとルイファスの視線が交わる。


「ルイファス……」

「ああ、間違いない」

「どうしたの?」


 声色を変えた二人に、アウルは不思議そうに首を傾げる。イリアは、震える唇をおもむろに開いた。


「ねえ、アウル。いつ、そのドラゴンを見たの?」

「えっとね……この前の満月の、ちょっと前だよ」


 この前の満月といえば、神殿が襲われた日だ。ざわざわと騒ぐ胸を、イリアは手で押さえつけた。手は小刻みに震え、指先は白く変色している。

 今度はルイファスが静かに問い掛けた。


「アウル、その近くに誰かいたか?」

「んーとね……黒い髪のお兄ちゃんと、茶色の髪のお兄ちゃんと、ピンクの髪のお姉ちゃん! みんな、こーんなに長くて、まっ黒の服を着てたよ」


 アウルは身を屈め、己の足首辺りに手をやった。その特徴は、イリアたちが対峙した襲撃者のものと酷似している。そして、そんな彼等の元に白いドラゴンがいたということは、それはジャッキーが目撃したものと同一である可能性が高い。

 イリアは奥歯を噛み締め、正面を見据える。翡翠色の瞳は、燃え上がる炎に包まれていた。


「……イリアお姉ちゃん?」


 アウルのか細い声がイリアの耳に届き、ハッとした。慌てて彼を見れば、初対面を思わせる目で見つめている。


「ごめんなさい。何でもないわ。気にしないで」

「うん……」


 頷いているが、ピンと立っていた耳は垂れている。

 次の瞬間、アウルの耳がピクリと動き、再び立ち上がった。そうかと思えば、みるみるうちに顔に輝きが増していく。


「お母さんだ! お母さんがボクを呼んでる!」

「え?」


 満面の笑みを浮かべるアウル。二人も耳を澄ませるが、女性の声など聞こえない。聞こえてくるのは、木の葉が風に揺れる音と、鳥のさえずりだけ。彼は不思議そうにしている二人の方を振り返った。


「イリアお姉ちゃん、ルイスお兄ちゃん、本当にありがとう! ボク、もう行くよ」


 ルイファスに向かって手を伸ばす。先に降りた彼が、小さな体を抱き上げて馬から降ろすと、アウルはそのままぎゅっと抱き付いてきた。不意に、石鹸の匂いが仄かに香る。


「イリアお姉ちゃんも」


 寂しげに見つめてくるアウルの瞳に応えるように、イリアも馬から降りて彼を抱き締めた。感じた温もりに、胸に熱いものが込み上げてくる。アウルの名を呼ぶ若い女性の声が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。

 イリアがそっと体を離すと、アウルは二人にとびきりの笑顔を残し、一目散に走って行った。その後をついて行けば、ブラウスとロングスカートの上から白いエプロンを身に着けた女性の姿が目に入る。彼女の茶色の髪の間からは、アウルと同じ獣耳が生えていた。

 その後ろでは、帯剣した男性がイリアたちを見据えていた。彼もまた獣人だ。細く長い尻尾がゆらゆらと揺れている。その緩慢な動きとは裏腹に視線は険しく、手は剣の柄に添えられていた。

 女性は抱き締めていたアウルの体を離し、目を吊り上げて声を荒げる。


「まったく、どこ行ってたの!? 森の中ではぐれたって聞いて、心配したのよっ!?」

「ごめんなさい……。でも、イリアお姉ちゃんとルイスお兄ちゃんに助けてもらったんだ!」

「え……?」


 初めて女性と視線が交わった。その瞬間、彼女の表情が一変する。こちらを睨みつける目は、親の仇でも見ているかのようだ。しばしの沈黙の後、重々しく口を開ける。


「この子を助けていただいたことは感謝します。ですが、もうこれ以上私たちに関わらないでください」


 険しい顔のままそれだけを告げると、アウルを背中におぶって去っていった。不意に、彼はこちらを振り返り、大きく手を振る。


「ボク、イリアお姉ちゃんとルイスお兄ちゃんのこと、大好きだよ!」

「アウルっ! 止めなさい!」


 彼女が足を速めると、その姿はあっという間に木々の間に消えて行った。一方の男性はしばらくその場に残り、二人に警戒の視線を送る。そして踵を返したと思った、次の瞬間、彼の姿も消えていた。




 音を立てて揺れる窓の外は、酷く天気が荒れていた。雨は横殴りに降り、遠くでは雷鳴も轟いている。

 それとは対照的に廊下は静まり返り、時折、床が軋む音が響く。闇夜に紛れる影は、迷いなく足を進めていた。影は、しばらくしてある部屋の前で立ち止まり、静かに扉を押し開ける。

 部屋にはベッドとテーブル、そして椅子があるだけだった。ベッドの上にはこちらに背を向けて眠る姿があり、へりには鷹が一羽、羽を休めている。

 それを確認し、影はゆっくりと近付いていく。目の前には、テーブルに置かれたナイフ。柄には飾り紐が巻かれ、その先端には小さな石が括り付けられている。それに手を伸ばした、その時だ。

 鷹の目がカッと見開き、激しい羽音を立てながら影に襲い掛かった。影は咄嗟に手を引き、踵を返そうとする。だがその瞬間、誰かに腕を掴まれ、退路を塞がれてしまった。


「こんな夜中に女性の部屋を訪ねてくるとは、随分と不躾なことをするんだな」


 女はむくりと起き上がり、影を睨み付ける。鷹は女の肩へ移動した。こちらも目付きは鋭い。


「さて、この状況を説明してもらおうか」


 その瞬間、今までで一番の轟音が響き、昼間のような強い光が部屋の中を照らす。そこに浮かび上がった姿は――


「なあ? ……村長」


 人形のような無表情を顔に貼り付けた、ペーター=イオニスその人だった。

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