第13話 忍び寄る暗雲
太陽は天高く昇り、額にはじんわりと汗が滲んできた。遮るものが無い三人の頭上からは、燦々と日差しが降り注ぐ。時折頬を撫でる爽やかな風が、火照った体から熱を奪っていく。それがとても心地好い。
そんな陽気の下を歩いてしばらく。村を離れ、屋敷跡地へと向かう丘の途中。緑が広がるその場所でペーターは立ち止まった。そして、何かを探して見回す。
「お二人にお渡ししたいものがあるのですが……おおっ、来た、来た!」
首を捻っていた彼が、やや興奮した声を上げる。探していたものを見付けたのだ。彼が大きく手を振って呼び寄せたもの。それは――
「……馬?」
村の男を乗せた馬が歩いて来た。それも何頭も。このような小さな村に何故、これだけの数の馬がいるのか。イリアは首を捻る。
だが、ペーターの顔は得意気だ。腰に手を当て、胸を張っている。彼の満面の笑みが眩しい。
「私たちが手塩に掛けて育てた馬です。その中でも、特に優れたものを選んで連れて来ました」
「確かに、なかなか良さそうだ。こいつなんか早く走りそうだな」
首を捻るイリアの隣から、ルイファスが足を踏み出す。草を食べている一頭の側に立つと、その脇腹を撫でた。短い毛並みの上からでも、筋肉のしなやかさがよく分かる。
彼の様子に、ペーターはさらに気を良くする。立ち尽くしたままのイリアと馬を撫でるルイファスを見つめ、高らかに声を上げた。
「この中から気に入った馬をお選びください。それを差し上げます」
「そんな、そこまでしていただく訳にはいきません。お気持ちだけで十分です」
「それでは私たちの気持ちが収まりません。どうぞ、お受け取りください。きっと、お二人のお役に立つことでしょう」
「それなら、俺はこいつを選ばせてもらおうかな」
軽く笑うルイファスは、幾つか見ていた馬から一頭を選んで隣に立つと、脇腹を叩いた。彼が最初に目を付けた馬だ。男から手綱を受け取ると、満足そうに撫でる。馬もそれを受け入れたのか、大人しくしている。
一方のイリアは、胸の中に広がる靄をそのまま顔に出していた。軽率なルイファスへの憤り。ペーターへの申し訳なさ。そんな感情が渦巻き、上手く言葉に出来ないでいる。
ふと、彼女は注がれている視線に気が付いた。そちらを向くと、一頭の馬がじっと見つめている。まるで、彼女に選んで欲しいと言わんばかりに。いつの間にか、眉間に寄っていたしわが消えて無くなっていた。
見つめ合う一人と一頭。その様子に、ペーターは目を細める。
「遠慮は無用です、クロムウェル様。それに、以前から馬の牧畜を村の産業にと思っていましたし、育てた早馬は神殿に献上するつもりでしたからね」
国土の大半を森が占めるテルティスでは、馬を育てることを生業とする者はほとんどいない。領内にいる馬は草原が広がる隣国、エリュシェリン王国から輸入されたものばかりだ。しかし、馬も生き物である。船旅のストレスで体調を崩してしまうものも少なくなかった。
そこで考えたのが、国産の馬を育てることである。幸いにもウェスティン村は、草原の面積が他の地域よりも多い。これを活かさない手はない。
馬をじっと見つめたまま立ち尽くすイリア。彼女は迷っていた。それを感じ取ったルイファスは、最後の一押しと声を掛ける。
「何を迷っているんだ。馬がいれば、移動時間の短縮にもなる。それがどういうことか、分かるだろう?」
一刻も早くヘレナを救い出したい。そんな気持ちに訴え掛ける。立ち止まる彼女を動かすのに最も効果的な手だ。
すると彼の思惑通り、おもむろに足を踏み出した。そうなれば後は、二歩三歩と進んでいくだけ。彼女が向かった先は、見つめ合う馬の元。そして立ち止まった。
「私と一緒に来てくれる?」
遠慮がちな問い掛けに、馬は頷くように首を振り、鳴き声を上げる。イリアはそっと笑みを浮かべると、さらに距離を詰めた。鼻筋の辺りを撫でると、馬もまた顔を寄せる。
笑みを深める彼女に手綱が渡される。それを受け取ると、ペーターの方を振り返った。
「村長さん、本当にありがとうございます」
「お礼を言うのは私たちの方です。今後のお二人のご武運をお祈りしております」
鐙に足を乗せ、軽やかに馬の背に乗る。その様子をペーターは眩しそうに見上げていた。沈黙の中、彼女等の視線が混ざり合う。
しばらくして、二人は馬の腹を軽く蹴った。それを合図に、馬はゆっくりと歩き出す。徐々に遠ざかる背中。それは次第に速さを増していく。そうして姿が見えなくなるまで、彼等はその場で見送っていた。
「行ってしまったな」
誰かがぽつりと声を上げた。それを合図に、止まっていた時間が動き始める。
ペーターに声を掛けながら、村の男たちはぽつぽつと帰って行く。馬を引き連れて。それを見送る彼の胸に、別れの寂しさがじんわりと広がっていく。そうして一人となり、小さく息を吐いた。
しばらくして、思い立ったように踵を返した彼は、おもむろに丘を登り始める。向かった先は、災厄の始まりの場所。焼け焦げ、崩れ落ちた屋敷の瓦礫が山になっている。この数日は村の復興で手一杯だったため、目を向ける余裕がなかった。だが、こうして前に立つと、思わず目を背けたくなる。
辺りに響くのは、何度目かも分からない深いため息。凄惨な光景に意識を奪われ、彼は気付くことが出来なかった。彼の後ろで草を踏み分ける音がしたことに。
穏やかに、ゆっくりと過ぎて行く時間。室内には本を捲る音だけが、一定の間隔で響いている。こんな風にゆったりとした気持ちで過ごすなんて、本当に久しぶりだ。気持ち良く晴れ渡る天気の中、空の散歩に出て行ったホークアイが少し羨ましい。
その時、柔らかなノックが鼓膜を揺らす。今日はやけに来客が多い。そんなことを思いながら本から視線を上げ、声を返した。
「誰だ?」
「私です、ペーターです」
だが、扉を開けたのは見知らぬ女性だった。彼女はノブに手を掛けたまま、ペーターを部屋へ通す。粛々と進められる一連の動作は気高さすら感じられるが、どこか違和感も拭えない。彼女は静かに彼の横に立った。
「顔色が良くなられましたね。お元気そうで、安心しました」
「この村の空気のおかげですよ。ところで村長、そちらの女性は……?」
「ああ、彼女は――」
「申し遅れました。私、秘書のリース=グレンと申します」
緩やかに会釈をする女性、リースは長い桃色の髪をバレッタで留めていた。華奢な体付きとにっこりと浮かべた笑顔が、何とも言えない程に可愛らしい。だが、どこか寒々しさを感じる。全てを拒絶するような、近寄り難い雰囲気だ。
彼女がそんなことを思っているとは露知らず、ペーターは秘書の紹介を続ける。
「彼女には西の港街まで使いを頼んでいたんです。こんな小さな村とはいえ、村長の仕事は忙しいものですから」
「では村長、私はこれで。この後も仕事が入っていること、お忘れ無く……」
「ああ、分かっている。いつもすまないね」
「いえ、」
「失礼します」と、リースは部屋を後にした。小さな笑み。冷やかな光を宿す目。彼女の発する空気の全てが、アイラの意識を引き寄せる。
片やペーターは、慣れた手付きで茶の用意を進めていった。食器同士が擦れ合う音が響いたことで、彼女はようやく扉から目を逸らす。その視線に気付いた彼は、にっこりと笑みを浮かべた。
「私は紅茶を煎れるのが趣味なんですよ。最近、珍しい外国産の紅茶が手に入ったもので。是非、スティングレイ様にも飲んで頂きたかったのです」
「いや、わざわざそんなことまでしていただく訳には……!」
「いいえ、これは私の気持ちです。これを飲んで、どうぞごゆっくりとお休みください」
ソーサーに乗せられたカップ。そしてたっぷりと紅茶が入ったポットをテーブルに置き、ペーターは去って行った。カップからは湯気が立ち上り、良い香りが辺りを漂う。ちょうど喉も渇いてきた。つられるように、アイラはおもむろに手を伸ばした。
アンティークの調度品が置かれている、広い執務室。部屋の奥の大きな窓には厚いカーテンが引かれ、日の光を遮っている。灯りも点いていないせいか、空気もどんよりとしていた。
不意に、衣擦れが空気を裂く。音の元にいたのは、桃色の髪の女性。部屋の主が仕事をする執務机に腰かけている。そして再度足を組み直すと、正面を見据える空色の目を細めた。
机に着いた指で、トントンと音を鳴らす。最初はゆっくりだったものが、次第に速度を増していく。それに伴って女の顔が歪んでいった。
気に入らない。ただでさえ、こちらの空気は合わないというのに、ここ最近は頻繁に足を運んでいる。苛立ちは治まらない。
(それもこれも、全部アイツのせいだわ)
きっかけは数日前。なんと、あの人が止めを刺さずに帰って来た。加えて、相手の監視まで命じたのだ。だが、気紛れで生かした訳ではあるまい。何か裏があるはずだ。それが何かは見当も付かないが。
そして今日。その相手を目の当たりにした途端、今までの興味が一瞬にして冷めてしまった。目の前に現れたのは、どこにでもいるような、普通の魔術師だったから。
それにしても何故、監視なのか。邪魔な人間など、さっさと始末してしまえばいいのに。面倒臭い。それと、あともう一つ。
(アイツが言ってたのは、きっとあの二人ね)
金髪の女騎士と、銀髪の弓使いの男。血に飢えた瞳で「あの二人は俺が殺る」と言っていたのも確か、女騎士と弓使いの二人組だったはず。こちらは命令外だから始末しても良さそうだが、あの二人も監視しておいた方がいい気がする。誰のどの言葉よりも自分の勘を信じる性分なのだから。
女は横笛を取り出し、音色を奏でる。すると、目の前に小さな歪みが現れる。それが消えると、つむじ風と共に二羽の白い小鳥が部屋の中に現れた。旋回していた二羽を見上げながら、女は唇に指を添えて音を鳴らす。
「お前は病室のあの女。お前はあの二人組よ。行きなさい」
執務机の隅に羽を休め、じっと命令を聞き入っていた二羽。女が払うように手を振ると、二羽は一斉に飛び立つ。
それと同時に、ドアをノックする音が響いた。開かれた扉の向こうに立っていたのは、一人の男。その目は虚ろで、心ここに在らずといった様子。正気がまるで感じられない。自分が開けた扉から鳥が出て行ったのも気付いていないようだ。そうして覚束ない足取りで女性の前まで足を運び、跪いた。
「……ただいま戻りました、シュシュリー様」
小さく開いた口から吐かれたのは、消え入りそうな程に細く、そして酷く掠れた声。この男が戻って来たということは、準備が出来たということだ。暇潰しの戯れの準備が。シュシュリー、と呼ばれた女性の顔は、冷たい微笑みを浮かべていた。
イリアとルイファスはそれぞれ馬に跨り、アクオラへの帰路に着く。例の実験の影響が徐々に薄れているのだろうか。緊迫していたウェスティン村までの道のりと比べると、随分と穏やかだ。
と言っても、いつもの状態に戻っただけだ。そうとは分かっていても、つい気が緩んでしまう。
雑談の話題がひと段落着いた頃、ルイファスがおもむろに体を伸ばしながら欠伸を掻いた。何も起きない、平凡な時間。魔物や盗賊がうじゃうじゃと出て来るのは勘弁して欲しいが、この状況もある意味では都合が悪い。全身の筋肉が凝り固まり、体が鈍ってしまうからだ。
その時、森の中から誰かの声が聞こえてきた。二人の顔がたちまち強張る。
「……悲鳴?」
イリアの呟きに、ルイファスが小さく頷く。微かだが、悲鳴らしき声が聞こえてきたのだ。馬の足を止め、じっと耳を澄ませる。
「魔物の鳴き声も聞こえるな」
「でも、何故……」
どうにも腑に落ちない。普通なら街道沿いから聞こえてくるもので、そこを外れることは滅多に無いのだ。魔物が闊歩する森の中に入って行くことは、熟練の旅人でも注意を要すること。一般人にとっては自殺行為と言って過言でない。
一瞬、誰かが誤って森に入ってしまったのかと考えるが、それはすぐに打ち消された。この辺りで一番近いのはウェスティン村だが、そこを発ってからだいぶ経つ。誤って入れる距離ではない。
そうこうしているうちに、だんだん声がはっきりと聞こえてきた。悲鳴の主はこちらへ向かっているようだ。数は一人。そして二人は、更なる事実に驚愕した。
「この声……まさか子供か!?」
「急がなきゃ!」
子供の体力では魔物に追い付かれるのは時間の問題だ。急がなければ命が危ない。二人は馬を走らせ、木々の間を駆け抜けて行った。
「こっち来るな! あっち行けよ! 行けったら!」
時折振り返りながら、必死の形相で走る男の子。まだ幼く、年齢は七歳くらい。被ったフードには草や葉が付き、長ズボンの裾や靴は土で汚れている。
そして後ろから迫り来るのは、熊のような魔物。男の子の何倍もある巨体を揺らしながら、じわじわと追い詰める。また、相当気が立っているようで、牙を剥いて咆哮を上げていた。
「も、ダメ……。誰か……! 誰か助けて! あ!」
木の根に足を取られ、男の子が転んでしまった。その拍子に足をくじいたのか。両手で足首を掴み、顔を苦痛に歪めている。立ち上がることも、這って逃げることも出来ない。
その時、男の子に黒い影が重なった。ゆっくりと顔を上げ、恐る恐る振り返る。見開かれた目に映ったのは、すぐ後ろで仁王立ちをしている魔物の姿だった。
あまりの恐怖に、顔面は蒼白。開かれた口からは言葉にならない声が漏れるだけ。体はすっかり縮み上がり、目に見えて震えていた。息をすることすら忘れている。
腹の底から響く、魔物の咆哮。男の子は大きく肩を跳ね上げる。涙で濡れた目では、魔物の輪郭もはっきりしない。その時、太い腕が振り上げられる。絶体絶命の危機。きつく目を閉じると、男の子は頭を抱えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます