第3話 悲劇の神殿

「これは……!」


 ヘレナ失踪の、そして魔物侵入の手掛かりを得るため、手始めに神殿の中枢を訪れたルイファスとアイラ。目の前に広がる光景に、二人は言葉を失った。

 大理石の部屋には血の臭いが充満し、息苦しさを覚える。発生源は入口近くに打ち捨てられた二体の死体。そして中央には、結界石が粉々に破壊されていた。

 現状を素早く把握した彼は、忌々しげに吐き捨てる。


「やはりな。結界が消えたことで魔物が侵入したのか。ということは、この襲撃は侵入者逃亡の目眩ましか?」

「可能性はある。だが、もしそうなら、奴等は既に遠くへ逃げた後だろうな」

「そういえば、市街地はどうなっているんだ?」

「分からない。だが、一度様子を確認する必要がある。場合によっては、奴等がまだこの辺りにいるかもしれないからな。理由は走りながら話す。急いで戻ろう」


 アイラの言葉に何か言いたげなルイファスだったが、時間を惜しむ彼女の様子に頷き、急いで踵を返す。階段を駆け上がる二人分の靴音が、無人の空間に虚しく響き渡った。




 神殿の石壁が崩れる轟音に、少女の悲鳴が掻き消される。と同時に、真っ直ぐに流れる長い金髪や純白のローブに、容赦無く砂埃が降り注いだ。だが彼女は、それに構うこと無く、恐怖で身を竦めながらも必死で守っている。中年の神官女性の震える体を、己のそれで覆うように抱き締めていた。

 そんな二人を守るように魔物と対峙するのは、一人の騎士。片膝を着く彼の白いロングコートは土や血がこびり付き、左腕には深々と切り裂かれた傷。だが彼は、顔をしかめながらもしっかりと剣を持ち、目の前の魔物を睨み付けていた。

 そこにいるのは、五体の魔物。一体は瓦礫に埋もれ、棍棒を持った太い腕だけが見えていた。大人の胴回り分はあろうかというそれを見れば、魔物がいかに大きな体躯だったかが分かる。だがその体は、徐々に砂と化していた。

 残りは狼の魔物。こちらは瓦礫を軽やかに避けたため、傷一つ負っていない。ゆったりと足を運ばせながら、じっと三人の様子を窺っている。

 騎士は視線を逸らすことなく、二人に声を掛けた。


「君たち、大丈夫かい?」

「はい――あっ、足が……!」


 少女の視線が騎士の足に釘付けになる。おびただしい量の血が流れ、あり得ない方向に折れ曲がっていたのだ。その間も彼の額からは大量の脂汗が滲み、息が荒くなっていく。

 少女は神官女性を背中にかくまい、騎士の腕に手をかざした。すると、優しくも温かな光が傷口に吸い込まれていく。怪我を治癒する神聖魔法だ。そして今度は足の傷に取り掛かる。それから間もなく魔法の光が消えると、少女は周囲へ視線を巡らせた。

 腕と足の傷は塞いだが、骨折は話が異なる。熟練のヒーラーであれば戦場での処置は可能だが、彼女はそれが出来ない。

 その時、魔物が姿勢を低く構え、飛び掛かって来た。


「二人とも動かないで!」


 凄い剣幕の女性の声が耳をつき、少女と騎士は咄嗟に身を固くする。と同時に、何体かの魔物が甲高い悲鳴を上げた。

 一瞬だけ訪れる静寂。女性の走る足音を聞きながら、二人は倒れた魔物へ視線を移した。

 それは全身に痙攣を起こしており、よく見ると、黒い毛に混じって白い針のようなものが光っている。毒か麻痺の薬が塗ってあるのだろうか。馴染みの無い武器に、自分の状況を棚に上げ、騎士は興味深そうに見入っている。

 それから間もなくして駆け寄った女性に、少女は安堵で顔を綻ばせた。


「ルナティアさん!」

「話は後。まずは治療が優先ですわ。傷は……塞がっていますわね。問題は足の骨折。ジュリア、少しの間、彼を押さえていてもらえる?」

「はい! あの、最初は痛いかもしれませんが、我慢してくださいね」


 ジュリアはルナティアの指示通り、騎士の体を押さえる。曲がった足を正しい位置に戻すことから治療が始まった。

 当初は悲鳴が上がるのを必死で抑えていたが、現在は周囲を警戒する余裕が生まれている。彼の精神力も称賛に値するが、彼女の腕が優れていたからこそ、という裏付けでもある。

 一方の魔物は、先程の攻撃を警戒してか、遠目から様子を窺っている。だが、ルナティアからの攻撃が無いことを悟ると、再び飛び掛かって来た。

 慌てた騎士の声が上擦る。


「あのっ、まだなんですか!?」

「動かないで! 私が相手をしますから」

「貴女が!? この状況で、一体どうやって!」

「こうするんですのよ」


 ルナティアは振り向きざまに手を振り払うと、彼女の指先から幾つもの針が現れ、勢いよく魔物に向かって行った。己の魔力を患部に送り込むヒーラーならではの、魔力を具現化した武器だ。

 攻撃を受けた魔物は、甲高い悲鳴を上げて床に落ちた。だが、その体は先程の魔物と違い、掠れた鳴き声を上げながら悶えている。しばらくすると、ぐったりと動かなくなった。


「死んだ、んですか?」

「ええ、魔力の針に毒の魔術を組み合わせましたから」


 騎士の問いに答えながら、ルナティアは再び治療を始める。

 だがその時、彼は目を見開いた。最初に攻撃を受けた魔物が、痺れる体で立ち上がろうとしているのだ。今はまだ足元が覚束無いが、再び攻撃を仕掛けて来るのは時間の問題である。その上、血の匂いを嗅ぎ付けた他の魔物まで集まり始めている。


「お二人とも、私のことは構わず、そちらの女性を連れて逃げてください!」

「馬鹿なことを仰らないで! 怪我人を置いて行けるはずがないでしょう?」

「ですが、この状況でこれだけの魔物を相手にするなんて無謀です!」

「大丈夫ですわ。あの子が間に合ったようですから」


 彼はルナティアの言葉が理解出来ず、眉をひそめる。だが次の瞬間、ほんの僅かだが、場の空気が変わっていることに気付いた。それが何を意味するのか思考する暇も無く、痙攣した魔物の体を風の刃が切り裂く。

 そして、攻撃の余波とは思えない程に可愛らしいそよ風が、騎士たちの頬を優しく撫でる。風に踊る髪を押さえながら、ジュリアは歓喜の声を上げた。


「この空気……イリアちゃんだ!」

「クロムウェル団長の?」


 彼女の声に騎士が振り向いた、その瞬間。何者かが瓦礫を蹴り、金と白の影が駆け抜けて行く。それがイリアだと彼が認識した時には既に、彼女は何体かの魔物を斬り伏せていた。

 不意に、別の気配を感じる。槍を手に加勢するフェルディールだ。標的を前にした彼の目は、好戦的に輝いていた。

 イリアとフェルディール。聖騎士団の中でも接近戦において腕の立つ二人を前に、魔物はあっという間に蹴散らされていく。しばらくして、立っている魔物がいなくなると、二人は武器に付いた血を払う。そして、ルナティアたちの元へ駆け寄ろうとした。

 だが、それを阻むかのように、新たな魔物が次から次へと現れる。彼等は威嚇するように低く唸りながら、イリアたちを睨み付けていた。


「まだいるの? これじゃキリが無いわ」

「おい、ルナ! そっちはどうだ?」


 フェルディールの声に、ルナティアはハッと顔を向けた。彼は視線を魔物に向けたまま、歯を剥いて笑っている。そんな彼に肩を竦めたくなる気持ちを抑えながら、「足の治療に、まだもう少し掛かりますわ」と声を上げた。

 すると彼は、口元をさらに引き上げる。イリアの目には、こちらを威嚇する魔物と同様に、八重歯が鈍い光を放っているように見えた。


「おい、イリア。ジュリアと神官を連れてここを離れろ。戦えねぇヤツが多いと気が散る」

「イリア! フェルディール!」


 フェルディールに続き、アイラの凛とした涼やかな声が空気を貫く。その後に続いて駆け付けたのはルイファスだ。

 アイラはこの場の緊迫した空気を感じ取ると、イリアたちと共に魔物の前に立ちはだかる。一方のルイファスは、ルナティアの元へ駆け寄った。


「ジュリアちゃんとそっちの彼女は大丈夫そうだな。こっちの奴は足を怪我しているのか」

「ええ。治療はあと少しですが、移動はまだ無理ですわね。ですからイリアに、ジュリアたちを連れて引くようにフェルディールが……」

「ああ、それがいい。アイラ、二人を頼めるか? イリアは俺と行くぞ」


 胸に走る鈍い痛みに気付かない振りをしながら、イリアはルイファスの提案に頷く。それを目に留めたアイラは、素早く詠唱を始めた。次の瞬間、魔物を威嚇するように火炎弾が取り囲む。と同時に彼女はイリアと共に踵を返し、フェルディールは槍を薙ぐ。僅かな隙間を縫って飛び掛かって来た魔物から、短い断末魔が上がった。

 それを合図にイリアはルイファスと共に戦線を離れ、フェルディールは魔物を目掛けて床を蹴る。アイラがジュリアたちを連れて行く様子を目の端で捉えながら、ルナティアは騎士の怪我に意識を集中させた。




 太陽が昇り、森は夜の顔から朝の顔に変わっていく。草木に滴る露に光が反射し、薄らと残る霧の中で、キラキラと幻想的に輝いていた。

 そんな美しい光景で唯一、異様な空気を放つのが、闇夜のようなローブで全身を覆う三人組。目深なフードで顔が隠されている様子も、怪しげな雰囲気を助長している。


「ねえねえ、もう終わりなの? もっと遊びたいよー」


 聞こえてきたのは男の子の声。それは最も小さな姿から発せられ、不満そうに口を尖らせていた。


「俺だって暴れ足りねぇよ。なあ、まだいいんじゃね?」

「計画は成功した。これ以上ここに留まる理由は無い」


 男の子に賛同するのは、野太い声の男。彼は挑発するような笑みを浮かべて腕を組む。

 その結果、彼に返ってきたのは、無感情で冷たい男の声。彼は二人を無視して森の奥へと顔を向けた。

 聞こえてくるのは、人々の怒号や建物の崩れる音、そして魔物の咆哮。距離が離れているために言葉までは聞き取れないが、混乱した様は容易に目に浮かぶ。

 不意に、粗暴な男が口元の笑みを深める。彼が喉を鳴らす音が微かに聞こえ、無感情の男がチラリと振り返った。


「そういや、あそこだっけか? アイツがやけに執着してる女がいるのは」

「ああ、聖剣がどうとか言ってたね。興味無いけど」

「俺に言わせりゃ、さっさと殺しちまえばいいのに……めんどくせぇ。だがその面、一度は拝んでみてぇよな」

「遊びに行くなら、ボクも行くー!」


 ニヤリと笑みを残し、粗暴な男は独断で戻って行ってしまった。そんな彼に、男の子も飛び跳ねるように付いて行く。

 どこまでも自己中心的な二人に、残された男は深いため息を吐く。そしてもう一度、テルティスの方を仰ぎ見ると、静かに足を踏み出した。




 通路を駆け抜け、出くわす魔物を斬り捨てながら、イリアはルイファスの話に耳を傾ける。その甲斐もあり、神殿を襲った異変の経緯を理解することが出来た。そして彼女は改めて、荒れ果てた内部を見つめる。

 血の匂いが漂う通路は所々で石柱が二つに折れ、壁が崩れていた。また、床を埋め尽くす瓦礫や割れたガラスに混じり、多くの死体が倒れている。

 彼女の眉間に深いしわが刻まれた、その時。再び鈍い痛みを発する胸を押さえ、重々しく口を開いた。


「警鐘が鳴り始めてだいぶ経つわね。でもヘレナ様は、無事に避難した後なのよね?」

「……いや、警鐘が鳴った時には既に、部屋にヘレナの姿は無かった。状況から言って、その可能性は低い」


 その瞬間、イリアは息を呑む。と同時に視界が暗転し、彼女の時間は停止した。

 頭の片隅でおかしいと思っていたのだ。彼等がヘレナと行動を共にするでもなく、警鐘鳴り響く戦場に一堂に会していた時点で。

 血の気が引いた体からは急速に力が抜けていき、その場に倒れそうになる。すんでのところでルイファスに支えられるも、彼女の体は目に見えて震えていた。真っ白になった思考に、彼の言葉が刻み込まれていく。限界まで見開いた目には、ありありと恐怖が浮かんでいた。

 想像通りの反応に、事実を告げたルイファスもまた、心が痛む。そして彼は眉をひそめ、視線を逸らした。

 ここで嘘をついて安心させてやることも出来るが、そんなものは偽りの優しさでしかない。彼女が真実を知った時、現在に期待を寄せた分だけ、想像を絶する苦しみが重くのし掛かる。そんな残酷な仕打ち、彼に出来るはずがない。


「お前の気持ちを思うと忍びないが、黙っている訳にはいかないからな」

「……どうして? どうしてそんな酷い嘘をつくの? こんな時に悪い冗談は止めて! 見損なったわ!」


 駄々を捏ねる子供のように激しく首を振るも、ただの悪足掻きでしかないことは自覚している。それでもイリアは、現実から目を逸らさずにはいられなかった。

 だが、ルイファスの険しくも悲しそうな顔がそれを許さない。目を伏せた彼女の頰にはいつしか、大粒の涙が流れ落ちていた。

 目の前の彼女の体が、みるみるうちに小さくなっていく。気が付けば、彼女の肩を抱くルイファスの手に力が籠っていた。


「認めたくないのは分かる。俺だってお前にこんなことは言いたくない。だがな、ただ泣いているだけでは何も始まらないんだ。このままだと、取り返しの付かないことになる。それで良いのか? 一番傷付くのはお前なんだぞ」


 ルイファスが必死に説得を続けるも、イリアは嘆き悲しむばかりで何の反応も示さない。きちんと声が届いているかどうかも怪しいところだ。

 次第に、彼の顔に焦りが見え始める。どうすれば、彼女の気持ちを鎮めさせることが出来るのか。そもそも、この段階で真実を伝えて、本当に良かったのか。自力で立てない状況が長引くようなら、ジュリアたちと共に避難させようか。しかし、彼女の性格を考えた時、本当にそれで良いのだろうか。

 思考の迷宮で必死に出口を捜すルイファス。その時、視界の片隅に数体の魔物が映る。彼は舌打ちを鳴らすと、己に絡まる蜘蛛の糸を振り払うかのように、勢いよく矢を放った。そして彼女の肩を鷲掴みにし、激しく揺さぶる。


「お前、いい加減にしろよ。ずっとここで立ち止まっているつもりか? しっかりしろ! 団長だろう!?」


 ルイファスの叱咤に、イリアの肩が一度だけ大きく揺れる。だが、それを境に、彼女の震えは徐々に鎮まっていった。


「ごめんなさい。もう大丈夫。ありがとう、ルイファス」


 しばらくの沈黙の後、イリアはおもむろに顔を上げる。そこには先程までの、悲しみに暮れるばかりの彼女の姿は無い。聖騎士団団長としての自分を取り戻したのだ。

 ようやくいつもの落ち着きを見せた彼女に、ルイファスは胸を撫で下ろす。だが、今は安堵に浸っている暇は無い。


「もう行けるな?」

「ええ。でも、どうすれば……」

「心配するな。まだ手はある。あまり時間は残されていないがな」


 イリアは首を傾げる。不思議そうな色の中に見え隠れするのは、小さな希望の光。

 そしてルイファスは、言いながら口元に不敵な笑みを浮かべる。そうかと思えば、いつもに増して真剣な眼差しで口を開くのだった。

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