第2話

純文学を読もう、というところからお話を始めたので、やはり最初は純文学から始めるべきかとは思ったのですが。

とても共感出来る本に出会いましたので、それから始めようかと思います。


太田治子「心映えの記」


私は不勉強で存じ上げなかったのですが、太宰治の娘さんの本です。

内容は回想・エッセイといったところでしょうか。

治子さんは(太田先生や太田女史と言うべきなのかもしれませんが、私にはこれがしっくりきます)作中でお母様に「あなたは心映えが悪い」と言われたとあります。

「心映え」というのは治子さんのお母様の造語のようです。

「心映えが悪い」というのは、治子さんの中に潜む美人意識の高さが治子さん自身に冷たさや高慢さを与えていることだそうです。


美人意識。


「無邪気に自分を美しいと思っているだけなら、可愛げがある。しかしあなたの『美人意識』は、それをおくびにもださずにいるから、根が深い。そして、私がほかの女の人の顔をほめれば、すぐ怒る。あげくに、どうせ私はみっともない顔をしているなどと、心にもないことをいう。それがいけない」

(太田治子 「心映えの記」より抜粋)


上記は治子さんを叱るお母様の言葉です。

これを初めて読んだ時、まるで私自身が叱られているような気分になりました。

治子さんは三十路を過ぎても結婚をせず、治子さん自身にも恐らくは結婚願望があったに違いないのに出来なかったのです。

その現実に対して、お母様は娘の行く末を心配しつつも、結婚出来ない理由として「心映えの悪さ」をあげました。

私には、治子さんの態度は謙遜していただけなのではないかと思います。


不遜な理由ですが、私がそうだから。


私は、自分は美人であると思っています。

勿論現実がどうであるかは別ですし、世間からどう見えているかという尺度は自分の美意識とは別に持ち合わせています。

自分のことを「みっともない顔」や「大したことのない顔」などとのたまいながら、その実自分は美しいと思っている。

本当に美しい顔というものを見たとき、自分は美しくないという。


相反するようで、どちらも心からそう思っているのです。

要するに、絶対的に美しいものでなければ認めず、それ以外の雑多な美しさであれば「勝てるかもしれない」もしくは「勝利している」と考える傲慢さがそこにはあるのです。


世間の美意識と自分の美意識の狭間で苦しみ、自分を卑下したり他者を見下す姿はとても醜いものです。

その醜さが、ご縁を遠ざけているのだと言われれば返す言葉もありません。


現在恋人がいる身ではありますが、私は自分が結婚出来るなどとは到底思えません。

世間体や、我慢の効かない性格など、自分に理由を求めては頭を抱えていました。

何人かとお付き合いというものをし、どうやら私は結婚は出来なさそうだということに思い至る。では何故?

色々考えてみてもしっくりくる答えは出ませんでした。


その理由が心映えの悪さであるのなら、私は不思議と納得出来るのです。


この本は治子さんとお母様の日常の想い出や親子の愛情をさり気なく描き出す名著です。


しかし、その愛情を感じとることより、私は治子さんという「人間」に感情移入せずにはいられません。


人は理解できないものには理由や理屈を求める生き物です。

現実にはなにも変わらなくても、理由が分かればそれだけで心が整理されることもあります。

「心映えの記」は、私が無意識に求めていた『答え』を教えてくれる本でした。

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