第8話 フェス――朝の出来事

 私は水の中にいた。

 こぽりこぽりと口から空気が抜け出ていく。

 だが苦しいわけではない。呼吸は地上となんら変わらずできている。

 そんなことより問題が一つ。

 ぐぅぐぅぐぅ。お腹が空いた。お腹と背中が今にもくっついてしまいそう。

 ……そういえば、晩ご飯食べてなかったっけ。

 ぐぅぐぅぐぅ。なんだかお腹が痛くなってきた。

 ほんの少し、なにかお腹の中に入れられたら。

 私は水中でぐるりと周囲を見渡した。

 だけど、私の周りに魚は一匹も泳いでおらず、見える範囲に貝や海藻もない。

 これは困った。だけど、あっちの方向。ぼんやりと赤色が上に向かって立ち上っている。

 それは透明な水中ですごくよく目立っていて。

 とりあえず私は、その赤色を目指して歩き始めることにした。

 ぐぅぐぅぐぅ。お腹を押さえながら、一歩一歩前へ。

 水が重い。一歩進むのにいつもの五倍は時間がかかっていて、だけど私はあきらめない。

 どれくらい歩き続けたのか。

 私はやっとの思いで赤色までたどり着いた。

 そこにあったのはご馳走だ!

 初めての料理で食べた子羊の丸焼き!たくさんのパン!コーンスープにデザートは果物だ!

 一口、ぱく。美味しい!もう一口、ぱくぱく。

 ああ美味しい!こんなおいしい料理がこんな場所で食べられるなんて!

 特に子羊の丸焼き。これ、ウィリーが作ったものよりジューシーな気がする。口の中で水分があふれ出しているのだから間違いない。

 べたべたした手はパンで拭き、喉がぱさぱさになったらスープで全てを流し込む。

 ……ああ、お腹いっぱい!

 目の前から料理はすべて消えていた。

 全部残さず食べ切った。私はとても満足。

 お腹が膨れたら、今まで聞こえていなかったもの、見えていなかったものが分かるようになってくる。

 水中に相応しくない剣戟の音。

 魔術が近くで炸裂している。

 それに、濃厚な死の匂い。

 それは私の目の前から漂っていて。


「あ、あ……」


 そこは水中では無かった。

 水の中だと感じたことに理由をつけるなら、そう、私は溺れていた。狂気という名の水の中。

 子羊の丸焼きなんてどこにもない。

 あるのは炎の魔術で焼かれた戦友の死体のみ。

 パンなんてどこにもない。

 私が手に持っていたのは死体の骨だ。

 スープなんてどこにもない。

 そう思って飲んでいたのは死体の血だ。


「あ、あぁあ……」


 やめてくれ、やめてくれやめてくれやめてくれ。

 そんな目で私を見ないでくれ。私が悪かった。だけど仕方がないだろう。お腹が減っていたんだ。どうせ後は焼かれるだけのソレを目の前に我慢なんて出来るわけがないだろう!

 頭を抱えてうずくまる。

 そんな私の肩を叩く誰かがいた。


「おい、そんな顔をするな」

「お前、は……」


 それは、今も目の前に横たわっている戦友だった。

 その生前によく見せていた、にっ、という満面の笑みを浮かべて彼は言う。


「俺は、お前に食べられて幸せだったよ」

「……そんな、はずは」

「本当さ!これが嘘をついているような顔に見えるのか?」


 彼の満面の笑みはどこか嘘くさく感じる。

 彼はこんなにはきはきと喋るような性格だっただろうか。分からない。忘れてしまった。……いや、そんなことはどうだっていい。今目の前に彼はいるのだからそれが真実でそれ以外は些細なことに違いない。


「……いや」

「だろう?俺は本当にそう思っている。死したものは、最後にその命をまだ生きている者に繋げる役目があるからな。……だが、それは叶わない。死の後、その意思を伝えることは出来ないからだ」


 彼の言う言葉には説得力がある。

 ああ、それならば……私のこの行動も許されるのだろうか。その場から立ち上がり、前へ向かって一歩を踏み出す。


「もう行くのか?」

「ああ、繋げられた命なんだろう。ここで私が立ち止まるわけにはいかない」

「そうか、達者でな」


 それきり彼の言葉は聞こえなくなり。



 そして、ベッドの上で目が覚めた。

 あれも私の記憶の一部なのか。……なにか、これまでで初めて夢を最後まで見たような、そんな気がする。

 それより、今はフェスだ。

 昨日の地獄のような特訓で、なんとか演武はメルヒヌールのお墨付きを得られる程度にまで完成した。


「よし」


 気合を入れ、ベッドから身体を起こして部屋を出る。と、


「おお、ノア。もう目が覚めたのか。まだ寝ていても大丈夫じゃぞ?」

「いえ、大丈夫です。おはようございます、ミスタ・メルヒヌール」


 どこかの部屋から持ってきたのだろう、様々な道具を体いっぱい使って持っていた老魔術師とばったり遭遇した。

 持ちますよ、と彼の持っていた道具を半分ほど……直径一メートルほどの細やかな装飾が施された光輪、禍々しい雰囲気を放つ数珠、荘厳な雰囲気を漂わせる金色の儀式槍。他にもいくつかの道具を半分ほど持ってリビングへの階段を上る。


「ありがとう、ノア。それらはソファのところにでも置いておいてくれ」

「はい」


 メルヒヌールの言うとおりに様々な道具をそこに置くと、メルヒヌールが暖かなコーヒーを入れてくれた。目の前に出されたそれに角砂糖を三つと牛乳を入れ、口に含ませる。

 それを見た老魔術師も自身のコーヒーの中に角砂糖を一つ入れた。


「うん……偶には甘いのもいい」


 そう独り言を呟き、一口美味しそうにコーヒーをすすってからノアに話しかけた。


「そうじゃ、ノア。なにかワシに相談したいことがあったんじゃないのか?」

「なんで……」

「そりゃ、顔を見ればわかる」


 自分ではそんなつもりはないのだが、そう断言されると反論のしようもない。それに、話したいことがあるのも事実だ。


「……また、夢を見ました」


 私の記憶の断片なのだろう、この夢を見たのは三度目。記憶無く目覚めてから一週間も経たないうちに三度、というのは多いのか少ないのか。分からないが、重要な手がかりであることに違いは無い。

 一度目の夢は雪山での地獄のような訓練。

 二度目の夢の、桜舞い散る武家屋敷での幼き日の出来事、それに三度目、今日の夢は……。


「少し、変だった気がするんです」

「変、とは?」


 一通りを話し終えた後、ノアは老魔術師にそう切り出した。


「うまくは言えないんですけど、その……途中から他人の夢を見ているような、気がしました」

「……他人の夢、か」


 メルヒヌールはカップを口につけ、中身が既に無くなっていたのか残念そうな顔で机に置きなおした。

 そして、居住まいを正して彼自身の見解を告げる。


「話を聞く限り、お主の認識は間違っておらん。死人が語り掛けてくるという異常、これには何者か……第三者の作為的な意図を感じる」

「意図、ですか?」

「うむ。……上手く説明できないのがもどかしいが、その辺りから妙に現実味が薄くなったように思う。おそらく、ノアが感じた違和感もこれが原因だろう」


 そう言われると、確かに私自身そう感じたような気がする。

 しかし、どんな違和感があろうとアレは私の夢、記憶だ。どうにかして消化するほかは無い。うむむ、と唸っていると、メルヒヌールは突然指をノアへと向けた。そして、


「『水よ溢れよデボーダー』」

「?……っと、『雷よ走れアンクゥドゥジュ』……なんですか、いきなり」

「なに、難しそうな顔をしておったのでな」


 老魔術師はいたずらっぽい笑みを浮かべている。


「悩むのは良い。これから先、お主の長い人生、容易に分からぬことは星の数ほどもあるじゃろう。だが、大事なのは諦めない姿勢。答えを見つけようとする意志。それがある限り問題は無い」

「はぁ……」


 たまに、老魔術師の言葉は抽象的で分からなくなる時がある。

 ノアは首を傾げるが、それに応えたのは老魔術師ではなく、キッチンでチンと何かが鳴った音と嗅いだことのないいい匂いだ。

 何だろう、と考えていると今までいなかった背後から眠たげな声がした。


「んー、今日の朝はお魚さん?メルおじさん、釣りでもしてきたの?」

「森に少し用があって、そのついでじゃ」


 焼き魚。文字通り魚に塩を振りかけて焼いた料理。

 それに白い料理……ごはんに、味噌汁と呼ばれる濃い茶色のスープが老魔術師の手によってテーブル上に並べられる。

 初めて見る料理に目をしばたたかせた。これらの料理はメルヒヌールが作ったのかと目で問うと、違う、と返答が返ってくる。


「昨日練習終わりにウィリーが、明日の朝用にと作り置きしておったのじゃ。ワシは魚を焼いただけじゃよ」

「へぇ……」


 興味無さ気にフリーダは席に着き、目の前の焼き魚の皮と骨を丁寧にむしっていく。

 スプーンやフォークではない、見たこともない二本の棒を用いて。記録によればこれは箸……と呼ばれるものらしい。

 しかし、どう使うかまでは不明だ。

 試しに持ち、彼女と同じように魚をむしるが難しい。どうにかこうにか魚の身をほじくり出すが、それを口に含む前に皿の上に落してしまう。


「あの、ミスタ・メルヒヌール……」

「ああ、ノア、箸使えないのか。これは使うの難しいからのぉ。キッチンにあるから取りに……いや、フリーダ、あの魔術を使ってみないか」


 あの魔法と老魔術師が口にした瞬間、フリーダが驚いたように目を見開いた。

 そしていかにもワクワクした表情で、彼女は問いを返す。


「いいの?いっつもは最低限の調整はやってから、って言ってるじゃない」

「ワシもいるし、今は構わんよ。フォローは請け負おう」


 やった、とフリーダは花の咲くような笑顔で懐から杖を取り出し、その先端をキッチンの方へ向けて呪文を唱える。


「『引き寄せろティエリー』、スプーンとフォーク!」


 彼女がその魔術を唱えた瞬間、かたかたとスプーンとフォークの入っている引き出しが動き出す。それからしばらくも経たないうちに、ばん!と音を立てて誰も触っていない引き出しが開け放たれた。

 そこからふわふわと浮かんでくるのは、この家にあるスプーンとフォークの全て、同数計二十本。


「ねえ、ちょっと危なくない……?」


 そう言いながらもフリーダが魔術を中断する様子は無い。

 そうこうしているうちに、浮いているスプーンとフォークは先を私たちの方へと向け、


「伏せろ、二人とも!」


 凄まじい勢いで飛んできたそれらを、メルヒヌールの警告に合わせて机の下にもぐることで回避する。が、そんなことはお構いなし。さらに速度を上げて向かう先は地下へと続く階段だ。

 だが、これなら人に当たる心配は無い。

 私がほっと胸をなでおろした瞬間、階段から何者かがリビングへと上がってくる音が聞こえた。


「あ」


 フリーダが間抜けな声を出す。


「ふぁあ、眠い……。おはよーございます……って、うぉおお!なんだいきなりっ!」


 ちょうどあくびをしながら上がってきたウィリーの身体の周りを取り囲むようにカカカカカッ!とスプーンとフォークが突き刺さり、動けなくなったところを最後に一本遅れて飛んできたスプーンがちょうど彼の額を打ち抜いた。


「いたぁ!」

「やばぁ……」


 私のすぐ横でフリーダが冷や汗を流している。

 机の下から這い出た私たちを待っていたのは、怒りで口の端をピクピクと痙攣させるウィリーであった。

 

「フリーダ……、なにか言い残すことはあるか?」

「いやー、ほら。この魔術はこういう時くらいにしか使えないし、多少の失敗は大目に見てくれないかなー、なんて……」

「問答無用!フリーダ、覚悟ー!」

「わー!」


 物に溢れたリビングで寝ぐせの付いたのっぽな男と可憐な少女の仁義なき追いかけっこが始まった。絵面だけ見れば事案だが、止めた方が良いのだろうか。

 メルヒヌールに視線を向けると、彼は顔を下に向けている。


「どうかしましたか、ミスタ・メルヒヌール」

「ん……。ふふ、いや、すまない。なんだか楽しくてな。賑やかなのは苦手なのだが、何故だろうな……。とはいえ、放っておくわけにもいかんか」


 老魔術師の一言で追いかけっこは終わり、フリーダの魔術はメルヒヌールが許可したということを聞いてウィリーはとりあえず怒りを収めた。

 その後ふふん、と自慢げな顔をしたフリーダはウィリーに側頭部をぐりぐりされていたけれど。

 そんな事件はあったが、無事ノアはスプーンとフォークを手に入れ、少し冷めてしまった朝ご飯にたどり着く。


「ん、美味しい……」

「だろう?一昔前に異世界人の持ち込んだものだが、今では世界中で頻繁に食べられるメジャーな料理だ」


 なぜか得意顔の老魔術師の言葉に頷いて、焼き魚をスプーンに乗せて口に運ぶ。

 それにご飯も加えて、味噌汁で胃の中に一緒に流し込む。これは癖になりそうだ。どれも優しい味をしていて、それが絡まりあって生まれるハーモニーが身体をぼうっと温かくする。

 一心不乱に料理をかきこみ、いつの間にか目の前から料理は無くなっていた。


「あ……。えっと、ごちそうさまでした」

「お粗末様。お皿は流しに置いて水に浸しておいて、あともうじき村に向かうから着替えといて」

「はい、ウィリー。分かりました」


 彼の言う通り、朝ご飯に使った食器は片づけてから自身の部屋へと戻る。

 床に脱ぎ捨ててあったローブを着て、杖をその胸ポケットに入れる。もう一度リビングに上がり、洗面所で顔を洗い歯を磨く。

 その途中でノアの横にフリーダがやってきた。


「そのピンク色の歯ブラシ、取ってくれない?」

「はい」


 ピンクの歯ブラシは私の側、彼女からは取るのが難しい場所にある。それを渡し、二人で歯磨きを続けているとフリーダが話しかけてきた。


「ノア、ありがとね。フェスに出てくれて」


 しゃこしゃこという歯磨き音と「あ」が「は」に聞こえるので聞き取りずらいが、フリーダはノアにお礼を口にする。


「メルおじさんもウィリーもすごく楽しそうで……もちろん私もなんだけど!ええと、何が言いたいかというとね」


 彼女は口に含んだ歯磨き粉を水で洗い流した後、綺麗な歯を見せた満面の笑みでノアに右の拳を突き出した。


「フェスでの舞台、絶対成功させようね、ってこと」

「うん。もちろん」


 その拳に私も拳を合わせて笑みを浮かべる。そうすると、フリーダはくるりと身を翻して「また後で」と洗面所から出て行った。

 私も口の歯磨き粉をすすぎ、頬を両手で挟むように叩いて自身に渇を入れる。

 それから数十分後、ローブを着たノアとウィリー、この家に来る時に着ていた白いワンピースに身を包んだフリーダが家のドアを開け、残るメルヒヌールに笑顔を向けた。


「行ってきます、ミスタ・メルヒヌール」

「ああ、楽しんでおいで」


 対する老魔術師も、フェスへと向かう私たちに向かって笑顔を向けて手を振った。

 それからしばらく歩き、ふと思いついたようにウィリーがフリーダに向かって尋ねる。


「そういえば、僕たちの出番って何時くらいなんだ?申請、フリーダがやってくれたんだよな」


 なんともない調子で聞かれた彼女は、ほんの少し首を傾げてから面白いほどに顔色が青白く変化した。


「……お前、まさか」

「いやっ、飛び入り参加枠もあるし……いざとなれば父さんの権力者パワーでねじ込めるし……」


 二人はなにか焦っているようだが、ノアにはなんのことか分からない。


「どうかしたんですか?」

「申請忘れだよ!聞かなかった僕も僕だけど、普通やってると思うじゃないか!」

「いや、気付いたなら聞いてよ!そんなん数秒で済むじゃん!」


 やいのやいのと言い争いを始めそうになった二人は、そんな場合じゃないことを察したのかこちらを振り向き私の手を両側から掴んだ。


「説明している暇はない!走るぞ!」

「走るわよ、ノアくん!」

 

 ポケットの中に入れておいた魔物除けの鈴がリンリンと清らかな音を奏で、それとは対照的に汗を流しながら、私たちは森の中を全力疾走するのであった。

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