8
閉め切った窓の隙間から入る穏やかな朝日の光が床に落ちて、部屋を明るくし始める。外からは鳥の鳴き声が聞こえた。
ハルヤは寝ているミアの傍らに座り、一晩を眠らずに過ごした。
昨夜、ミアは疲れ果ててしまっていたのか、ハルヤに抱き着いたまま眠ってしまった。ハルヤはそのままミアを床に寝かせ、元々この家に置いてあった自分の使っている毛布をそっと掛けた。
傍らに座ると、ミアは無意識にハルヤの手を握ってきた。手を放すわけにもいかず、ハルヤはずっと手を握ったまま朝を迎えてしまった。
徐々に強くなる朝の光にミアは眩しそうに、ゆっくりと目を開ける。と、ハルヤの姿が目に入った。しばらく横になったままで、ぼんやりとした顔でハルヤの顔を眺める。
「あなた名前は?」
そういえば、ハルヤはミアに名乗っていなかった。ハルヤは少し答えに戸惑った。
「ハルヤ」は、以前の世界の名前であり男性名である。この世界で生きていく覚悟をした以上、以前の名前は捨てたほうが良いかもしれない。いつまでも過去に引き摺られているような気がするし、これは自分の中でのけじめみたいな物だ。
しかし「イリーナ」は、もう使わない方が良いだろう。そこから所在が発覚してシャーゲルの屋敷に連れ戻されたら面倒だ。
「名前ないの?」
そんな事を考えているとミアが急かす様に言ってきた。咄嗟に良い名前が思い浮かばないハルヤは、思わず「ハル」と答えてしまった。「ヤ」が無くなっただけだ。すぐに自分で言っておいて失敗した、と思った。
その名前を聞いて怪訝そうな顔をするミア。
「ハル?犬の名前なの?」
犬の名前なのか。ハルはがっくりと肩を落とした。
ミアはようやく上半身を起こして、一晩中握っていた手を離して大きく伸びをする。
「お腹空いた」
起きたと思ったらすぐ朝食を要求してきた。食欲が出て来たという事は少しは元気を取り戻したのだろう。
ハルは少し嬉しそうな顔をして立ち上がり、自分の朝食用に昨夕買っておいた、いくつかのパンと瓶詰のミルクをミアに渡した。
テーブルを使いたかったが、掃除も何もされていないため埃だらけだ。
ミアが家に帰って来たことで、これからは家を綺麗にしてきちんと生活が出来る環境を整えなければならない。ハルはすっかり保護者気分になっていた。
ミアは夢中でパンを頬張り、勢いよくミルクを飲み干すと満足そうな顔をしていた。
しかし、少しこぼしてしまったパンのカスを取り除こうと、俯いて自分の服装を見るとまた悲しそうな顔に戻ってしまった。
その様子を見たハルは何が気にかかるのか聞いてみた。
「この服、学校の制服」
学校を飛び出してきたミアは制服そのままだった。グレーの上着に赤と黒のタータンのスカート。いかにも学校の制服だ。
ミアの私服は寮にある。が、当然取りに戻る事は出来ないし、かといって制服のままでいる事は出来ない。
国立魔術学校は、昨日のアデリナの話によると国立というだけあって上流階級がほとんどの名門校で、今いるこの場所は下流階級の荒んだ地域だ。
当然すごく目立つし、上流階級の学校の制服を着た人間がうろつくと訝しがる人も多いだろう。
それにミア自身も制服を見て、辛い記憶を呼び覚ます事になってしまうかもしれない。
ハルはまだ座ったままのミアの手を強く握り、立ち上がるよう手を引いた。
「よし、今日は服を買いに行こう」
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