短編「五月の桜」

朶稲 晴

【創作小話/五月の桜】

よし、花を見にいこうと思い立ち、春史は支度を始めた。せっかくだから酒とつまみでも途中で買って、花の下で一献やるのもいいな。内地ではもう満開の期が過ぎたところか散ってしまっているらしいからかあいそうだ。こちら北国ではこれからが見頃だぞ。それも札幌の方ではもう咲いていて、前線は帯広まで来ているという。道東釧路はもうそろそろだろうから、どれ、公園にでもいってみよう。

ふだん外出もせず部屋にこもりきりなのがいけなかった。来て行く着物がないことに春史が気づいたのは小銭入れをもって、下駄を揃えて、奥が使っていた鏡の前をとおったとき袖の擦りきれたくたびれた浴衣をみたからだ。買って年月のたって久しい、初は深縹だったのがあせて紅碧になってしまっていて、所々の白い糸はほつれている。いくら呉服屋に頑丈だから何年でも着られますぜと押されて買ったとはいえ、畳や座布団に擦れる裾、インクや絵具で濡れ滲んだ袖口や、若干黄ばんだ襟元などはたいへん、たいへんみすぼらしかった。が、しかし春史にこの着物以外によそに着て行けるようなものはない。いまこの時間に使いを遣って着物を買わせるのもかあいそうだし、そんなに急に大金は出てこない。給料はまだ十日も先だ。

そこで春史は昼の観光を諦め、夜に花を見に行くことにした。夜ならば着物も目立たないし、春だがまだ気温の上がりきらないからといって二重廻しを羽織ってしまうことができる。慌てて確認するが羽織ってしまうものには目だった傷も汚れもなく、この作戦はうまくいくだろうことが予測できた。


日が落ちるのを待つ間、春史がしていたことはといえばなんてことはない。庭を見つめていただけだった。彼の家の庭にはほっそりとした幹の桜が一本植えてあった。枯れているわけではない。胴に手を回し抱き締めて耳をあてて聞けば水のさらさらとおる音もする。だが春に花をつけない馬鹿だった。春史はこの桜を伐れずにいる。もう、花も実もつけなくなって何年も経つこの木を、伐れずにいる。この桜は馬鹿だが、私もかなりの馬鹿だなと思った春史がため息をひとつ吐いたときだった。ふと、よみがえる思い出があった。

『春史さん。』

『そんな格好で縁側へいては風邪を引くよ。まだ春も寒いのだから。』

『えぇ。ありがとう。ね、春史さん。もし、わたくしがこの桜を伐りたいと言ったら、あなた。どうします。』

『伐りたいのかい。』

『いまはまだ。』

『そうかい。そうだなぁ。伐る。いや、伐らない。』

『どちら。』

『伐るかもしれないし伐らないかもしれない。』

『ちゃんとお答えになって。』

『そうかい。うん。じゃあね、伐るよ。』

『どうして伐るのです。』

『そりゃあおまえが伐れというならね。伐るよ。』

『ではわたくしが伐らないでといったら。』

『伐らないね。』

『ふふ。じゃあおねがい。』

『なんだい。』


『わたくしがもし春史さんより先に逝くとしたら、春になるまえにこの木は伐ってしまってね。』


なぜ、とは言えなかった。うすうすその理由に気がついていたからだ。

あたりは橙のシロップ漬けのような甘い色に満ち、日が暮れようとしていた。そのとき、風が一陣、庭を駆け抜け細木を揺らした。ひゅおとしなる枝はやはり女の腕のようで、頼りなく揺すられる幹は痩せ細った胴のようで、ようやっと地面に這う根はすくわれそうだった。見たまま聞いたままだとそうやって哀愁さえ漂う姿なのに、春史にその姿はまるで言葉では表現できないような、わらっているように感じられた。

「嗤っているのかね。」

口元まで込み上げてくる不快感を感じ、急いで流しへと向かう。ごぼごぼ濁った咳とともにどす黒い血が吐き出される。春史は数年前からこの季節になるとたびたび原因不明の吐血をするようになっていた。

なぜ、とは言えなかった。うすうすその理由に気がついていたからだ。

「そんなに他の女のもとへいくのが恨めしいか。」

血を拭う春史の顔は獰猛な笑みに歪み、優しかった彼の面影はない。その体は明らかに痩せ細り、全盛期のたくましかった胸板などはみる影もない。丸太のようだった両のかいなも、韋駄天の走りを見せたしなやかな脚も、今は、もう。町の外れの怪しげな物書きには、その姿が似合いだろうが、昔の春史を知っている者が見たらどう思うだろう。いや、もしかして。

「憐れな女だと、おまえをわらえようか。憐れなのはわたしのほうさ。ただ、おまえを愚かしいとは思う。愚かで、馬鹿な、わたしの、」

その先を言おうとしてまだ花をつけていた頃の桜を思い描き、頽れる。もう立っている気力すらなかった。

冷たい床に膝をつき、うわ言のように繰り返す。まるで自分に、誰かに、言い聞かせるように。


「愛していたさ。愛していたとも。きっと、」

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短編「五月の桜」 朶稲 晴 @Kahamame

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