第64話 限界

「ぐ…っ、ぁぁああ…!」


鋭く突き出されたレーゲンスの槍がヒオリの左腕に深い切り傷を刻みこんだ。

真っ赤な鮮血が飛び散り、少女の柔肌に生々しい傷跡を残す。

これまで幾多の猛攻を耐え抜いてきたヒオリも堪らず傷口を庇うように後退り、痛々しい呻き声を上げた。


「姉さん…っ!!」


傷ついた姉を守るように、ミツキが槍の切っ先を手甲ではじく。

そして、ヒオリを支えながら一気に飛び退って距離を取り、レーゲンスを牽制するように拳を構えた。

強く堅牢な守りの姿勢。

けれど、こうして向かい合っているだけで、ミツキの全身からは冷や汗が滝のように流れていた。

それだけ、レーゲンスとの力の差をミツキは体感していたのだ。


「あぁ…弱い…弱い弱い弱いぞ!こんなものなのか、君たちの力は!」


レーゲンスが飢えを堪え切れない猛獣のように紅黒いオーラを四方へ撒き散らす。

燃え盛る苛立ちを隠そうともせず、ただ感情のままに力を振りかざしていた。

そして、その感情に反応するように破壊的な殺気が放たれ、大気までもが嘶くように軋んでいた。


「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」


ヒオリは傷口を止血しながら、荒い息遣いのまま何とか立ち上がる。

限界がきていた。

いや、最初にレーゲンスが遊ぶように戦っていなければ、今頃とっくに死んでいただろう。

それほどまでにレーゲンスとの間には、越えることのできない隔たりがあった。

全力を超えた神威を維持し続けなければ、攻撃を躱すことさえできない。

姉弟で必死に食らい付こうとも、乱雑に振り払われ、地面に叩きつけられた。

そして、じわじわと精神を削り取られ、弄ぶように傷つけられる。

戦っていた時間は決して長くないはずだが、二人の身体には数え切れないほどの切り傷や殴打の跡が残っていた。


「そろそろ腕の一つでも切り落とさないと必死になれないか…そうだな、そうしようじゃないか!」


まるで虚空に浮かんでいる誰かと会話するように、レーゲンスはぶつぶつと独り言をつぶやき、時折耳障りな嬌声をあげる。

その度に刺々しい波動が空間を埋め尽くすように広がり、ヒオリたちの感覚を塗り潰していった。


(どうしようもなく“化け物”なんだ、この男は…)


ヒオリは頭の中で吐き捨てるようにつぶやいた。

今のレーゲンスの姿はそれ以外に形容する言葉が思いつかないほど恐ろしく、理解すら及ぶことのない気持ち悪さに満ちていた。


「フフフ…芳しい鮮血の香りが楽しみだ。さて、どちらの腕にしようかな」


僅かだが、確実にレーゲンスの歯車は壊れてきていた。

おそらく大量の瘴気を身に纏い過ぎたのが原因だろう。

この地に溢れていた憎悪と怒りをその身に宿すことで圧倒的な力を手にすることはできたが、レーゲンスという意識そのものが埋没し、少しずつ自我が崩壊してきているのだ。

そして、それまで抑えられていた殺戮衝動が、タガを外したように押し寄せてきているようだった。


「ダメだ…このままだと…」


殺される、そう感じた。

悪寒や殺気なんて生易しいものではなく、はっきりと“死”が想像できてしまうほど凄絶な感覚が襲ってくる。

そして、それとともにゾワゾワっとした悪寒が背筋を駆け抜けていった。

既視感。大切な何かを失う時の前兆。

ヒオリはすぐに悟った。

これは“あの時”と同じだ、目の前でユズルの身体を槍が貫いた時と。

それに気付いた瞬間、ヒオリはたまらず叫んだ。


「ミツキ…ッ!下がって、すぐに――――」


ヒオリは自分の傷の痛みに構うことなく、半身であるミツキを守ろうと必死に手をのばした。

本能だった。

もう誰も失いたくないという気持ちと、何があっても守ると決めていた弟。

そのためならば、自分の身を捧げてもいいとさえ思っていた。

けれど、次にヒオリが目にしたのは、片腕を斬り落とされた弟の無残な姿と、その奥で悪魔のように嗤う化け物の紅黒い眼だった。


「え――――――?」


傷口からは夥しい量の真っ赤な血が周囲に飛び散り、後ろにいたヒオリの身体に惜しげもなく降りかかる。

そして、片腕を失ったミツキがそのまま崩れ落ちるように倒れる姿が、まるで時が止まったかのようにゆっくりとヒオリの視界に映っていく。

それはまるで自分が最も見たくない光景を映す夢のようだった。

ヒオリは震える手で顔にこびりついた生温い血を触り、そして、ようやく目の前で起きた出来事に焦点が定まる。


「嘘…嫌……いやぁぁぁあぁああ!!!」


ヒオリの悲痛な叫び声が広間に響き渡った。

止め処なく流れる血、目の前に倒れる大切な存在。

その光景はヒオリの内に眠っていたトラウマを痛々しいほど刺激し、心を抉り取った。


「が…ぁ……姉さん…ッ!!動くんだ…ッ!!」


ミツキが血を流しながらも身体を起こし、放心状態の姉へと必死に声をかける。

戦いはまだ終わっていない。立ち向かうこともできれば、逃げることだってできる。

けれど、もはやミツキの声でさえも、ヒオリの心には届かなかった。

ただ虚空を見つめ、うわ言のように泣きそうな呻き声を漏らしているだけだった。


「これで幕引きか…あっけないものだな。しかし、フフ…ようやく神を殺すことができる」


そんなヒオリの姿を見て、レーゲンスは呆れたような表情と殺意を抑え切れない表情が混ざり合った奇怪な顔つきになる。

そして、倒れ込んだミツキはそのままに、ゆっくりと放心状態のヒオリの元へと歩を進めていった。


「ぐ…っ、待…て…っ!!」


ミツキは片腕から大量の血を流し、地を這いながらヒオリを守ろうと必死に足掻くが、もう立ち上がるだけの力は残っていなかった。

いくら人間よりはるかに耐久に優れている式とはいえ、これだけの激闘と傷を負ってはまともに動くことができないのも致し方ないことだろう。

それでも、たとえ徒労に終わろうとも、ミツキは何かをせずにはいられなかったのだ。


レーゲンスはその様子を一瞥すると、すぐに興味をなくしたかのように通り過ぎた。

もう戦いは終わった、とでも言うように。

そして、放心状態のまま天を見上げるヒオリの前に立ち、漆黒の槍を高々と構えた。


「ごめ…んね……」


たった一言。

ヒオリは一筋の涙をこぼしながら、ミツキを見て、静かにそう言った。

そして、その心臓に向けて、鈍い輝きを放つ槍が漆黒の軌跡を描きながら、振り下ろされた。

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