第30話 狂気
「久しいな、ギンジ」
部屋に入ったギンジを出迎えたのは、白髪で立派な髭をたくわえた老人であった。
齢にして、60は優に超えるだろう。
だが、かっちりとブラックスーツを着こなす姿、そして、相手を威圧するギラついた赤い眼からは、まるで年齢を感じさせない若々しさが見え隠れしている。
そして、全身から溢れる余裕と暴力性を混ぜ合わせたような雰囲気が、びりびりと肌に伝わってくる。
元来は年齢相応の温和な見た目なのかもしれないが、それ以外の要素全てが狂気性を孕んでいる。
その、まるで偽りの皮を纏っているような、異様な底知れぬ恐ろしさこそが本来の姿なのかもしれない。
そして、この老人こそが、ホムラの頂点に君臨しているのだ。
「また君に会える日を楽しみにしていた」
老人は椅子に腰掛けながら、優雅に挨拶をする。
年齢を感じさせる渋みのある声だが、芯の太さが残っており、部屋全体にまで響くほどの力強さがある。
「そういう冗談は程々にしておいてくれよ、レーゲンスさん」
ギンジはその言葉に嫌そうな顔をする。
レーゲンスが心にも無いことをわざと言っているのは、既にわかりきっていることだからだ。
「冗談ではない。いつ私の部下が殺してしまうとも知れなかったからな」
レーゲンスはそう言うと、ハッハッハと高笑いをする。
心の底から可笑しそうに。
今となっては、この老人に逆らう者は誰もいない。
逆らった者は全て消えたからだ。
気が付けば、人が消えている。
それほど自然で、それほど狡猾だった。
いつしか彼の周りには狂信的な信者が群がり、ホムラの“町”はその狂気に包まれた。
もはやレーゲンスに逆らう意志を持つ者はいなくなってしまい、ほぼ独裁状態となっている。
だが、この狂い切った老人はまだ満足していない。
まるで獲物を追いかけるように、血走った眼が愉快そうに笑っているのだから。
「そう思うなら、あなたの部下たちをさっさと静かにしてくれませんか?さっきからピリピリ殺気だけ飛ばしてきて鬱陶しいんだ…」
集るハエを払うような仕草をしながら、ギンジは部屋の外まで聞こえるようにつぶやく。
ギンジが部屋に入る前から人の気配はしていたが、話し始めてからはあからさまに煽ってきていた。
「ああ、それはすまなかった」
レーゲンスは悪びれた様子もなく、手をひらひらと振る。
すると、サッと波が引くように視線が消え、部屋にいるのはギンジとレーゲンス、そしてお付きの執事が一人のみとなった。
「私も部下の躾には苦労していてね」
大嘘だ。
ギンジは心の中で舌打ちをする。
あたかも心を痛めているように装っているが、誰がどう見ても煽っている。
だが、こんな古典的な誘いに乗るほど、ギンジは愚かではない。
「へぇ…それは大変ですね。オレが手伝いましょうか?」
ギンジは素知らぬふりをして言葉を返す。
互いに腹の探り合いをしている、といったところか。
レーゲンスとはこれまで幾度となく会っているが、毎回このようなまどろっこしいやり取りが続く。
「いや、君の手を煩わせるほどではないよ。それに君には“村”を任せている。あちらの世話の方が大変だろう」
レーゲンスは強調するように“世話”という言葉の語気を強める。
今はまだ子供の遊び程度だが、追い込まれないように警戒はしておかなければならない。
「あいつらは優秀ですから、オレの世話なんか必要ないですよ」
ギンジは取り合わないという意思を示すように受け流す。
だが、レーゲンスはそれを気にすることなく言葉を続ける。
「それは是非とも会いたいものだ。もっとも、会った瞬間に全員その場で斬り捨ててしまいそうだがね」
その場面を想像しているのか、レーゲンスはククク…と下卑た笑みを浮かべる。
「そういえば、今は神に選ばれた巫女と名乗る小娘がいるのだったな。さぞ綺麗な断末魔を―――」
「さっさと本題に入らせてくれませんかね?このままだと世間話だけで日が暮れちまいますよ」
ギンジはレーゲンスの言葉を遮りながら、大袈裟に肩を竦めて窓の外を見やる。
この老人の威圧感など、ギンジにとっては大した障壁ではない。
だが、この雰囲気に呑まれたら負けだ。
それをギンジはよくわかっていた。
その煽るような言葉と仕草に、場の空気が途端にピリつき、刺々しい殺気がギンジの頬を叩く。
「貴様…ッ!レーゲンス様が話しているのだぞ!口を慎め、下郎が!」
老人のすぐ脇に控えていた執事がギンジの言葉に激昂する。
腰に下げたサーベルに手をかけ、今すぐにでも斬り捨ててしまいそうな気迫だ。
だが、次の瞬間、それを捻り潰すほどのどす黒い殺気が空間を覆いつくした。
「口を閉じるのはお前の方だ、セインヴァス。いつ話していいと許可をした?」
「……はっ!申し訳ございません」
レーゲンスの言葉に、執事は圧されるように引き下がる。
まるで刃物を突き刺すような殺気に、ギンジの頬から汗が一滴流れ落ちた。
恐怖を覚えなかっただけでも褒めて欲しい。
そう思ってしまうほど強烈だった。
そして、レーゲンスはスッと殺気を引っ込めると、再びギンジの方を向いた。
先ほどの出来事が嘘のように、その表情に変化はない。
「さて、本題とな?それを言うのは君の方だろう」
「……なんだと?」
とっさに反応できず、つい語気が荒くなる。
まさか、感づかれたのか…?
ドクン、と心臓が大きく跳ねるのが自分でもわかる。
「君は私に言わねばならんことがあるのではないかね?」
レーゲンスはギンジの胸の内を見透かしたかのように鋭く言葉を突き立てる。
これだ、この感覚だ。
ギンジは思わず唇を噛む。
この老人と話していると、時折死神の鎌を喉元に当てられているような、息苦しく背筋が凍る感覚に支配される。
突き刺すような殺気ではなく、内側から心臓を掴まれているとでも表現できようか。
だが、ギンジはすぐにその錯覚を振り払う。
「オレがあなたに隠していることはない。そういう契約だからな」
ギンジは平常心を保ちながら答える。
大丈夫だ、まだ彼にも知られてはいない。
事実として、これまでギンジは嘘偽りを伝えたことは一度としてなかった。
“村”を守るために、まるで薄氷の上を歩くかのように、慎重に、そして着実にレーゲンスに取り入っていったのだ。
だが、ギンジの目的を達成するためには、この狂った老人を打倒することは避けて通ることができない試練だった。
ホムラを変えるには、それ以外に道はないのだ。
しかし、レーゲンスに近づけば近づくほど、その難しさを実感していった。
この狂気に囚われたかのような老人は、決してただ残虐非道なわけではなかったからだ。
彼は様々な災害が襲うホムラの“町”を着実に発展させ、蔓延っていた腐敗を排除していった。
誰もその手腕に口を挟める者などいなかったのだ。
優秀な独裁者こそが、やがて最も正義に近い悪になる。
もはや内側から打破することは不可能だった。
ギンジがかつて抱いた夢が絶望へとすり替わっていくのも仕方がない事だった。
だからこそ、新たなホムラが現れたこの時こそが、千載一遇のチャンスなのだ。
ギンジはずっとこの時を待っていた。
いま殺されるわけにはいかない。
ギンジは落ち着きを払って、冷静に判断を下す。
そんなギンジを少し眺めてから、レーゲンスは不敵な笑みを浮かべる。
「私は君を評価している。それはなぜだかわかるかね?」
「いや、馬鹿なオレには全く見当もつきませんね」
これは本心だった。
少なくともギンジが多少なりとも敵対心を持っていることは、レーゲンスにもわかっているはずだ。
勿論過度にならないよう気を遣ってはいるが、それでも殺されていないのはギンジ自身にも不思議だった。
「君は世に蔓延る有象無象とは違う。私を崇拝することもなければ、畏怖することもない。この世界で唯一理解しようとしている」
一気に話が飛ぶ。
突然のことにギンジは頭が追い付いていかない。
「それは買い被り過ぎだと思いますが…。矮小なオレには、あなたのような方が考えていることなどわかりませんよ」
「そうだとも、決して理解することはできない。だが、君の真っ直ぐ立ち向かうその姿こそが、私の心がまだ理解されていないことを実感させてくれるのだ」
老人は生き生きと話す。
その姿は狂気そのものだった。
「私に理解者は不要だ。孤独こそが人を強くする。誰にも理解されない心こそが、崇高で偉大だとは思わんかね?」
レーゲンスは興奮したように語りかけてくる。
だが、ギンジにとってはどうでもいいことだった。
「月並みですが、人は支え合わなければ生きていけないという言葉もある。少なくとも、オレは一人きりだったら道端で野垂れ死ぬのが精々でしょうね」
冷めたようなギンジの言葉に、レーゲンスは不快そうに顔を歪ませる。
「勘違いしているようだが、私は決して群れる人々を蔑んでいるわけではない。生きるために利用し合うことは非常に合理的だ。だが、それとは別に、支配する者と支配される者は必要なのだ。このホムラを支配するにふさわしいのは私なのだろう。だが、次にふさわしいのはギンジ、君だ」
狂気に囚われた老人はギンジを手招くように誘う。
さあ、こちらへ来いと。
「君は私と同じだ。使えるモノは全て使い、正しくないモノは全て排除する。そして、それを実行することに耐えうる精神を持っている」
レーゲンスの赤い眼にスゥ…と視線が吸い寄せられる。
なぜだか目が離せなかった。
さっきと同じように冷たくあしらえばいいだけなのに、それができなかった。
「君は私と同じ、こちら側の人間なのだよ」
悪魔の宣告。
老人の口が裂けるように、大きくにんまりと笑う。
「オレはあんたとは違う。それだけは、絶対に」
ギンジはその笑みを頭から振り払うように、強く言い聞かせる。
そして、途端にギンジの内側を怒りが駆け巡る。
それは自分の夢を足蹴にされた時のような、どうしようもなく熱く、叫びたくなるほど痛く、苦しいほど感情が抑えきれなくなる衝動に支配された。
まるで自分が成そうとしていることが、レーゲンスの狂った遊戯と同じだと言われているようだった。
それだけは、決して認めることができない。
ギンジは拳を強く握り締め、レーゲンスを睨みつける。
「ククク…そう見つめないでくれたまえ」
レーゲンスは恍惚とした表情で可笑しそうに笑う。
「さて、ずいぶんと前座が長くなってしまったな…。では、君の言う本題に入らせてもらおう」
レーゲンスはギンジの反応に満足すると、すぐに話を進めていく。
その姿は,先ほどまでの雰囲気がまるで嘘のように落ち着いていた。
そして、値踏みするようにギンジを眺める。
「このホムラに現れた神についてだ」
心を削る戦いは、まだ終わらない。
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