1432.構文篇:リアリティーとはなにものだ

 そろそろ本コラムも終わりが見えてきたかな、というところですね。

 今回は「小説賞・新人賞」でも求められる「リアリティー」についてです。

 選考さんはなにをもって「リアリティーがない」と講評するのか。ちょっと長めの考察を行いました。





リアリティーとはなにものだ


 小説の講評に多いのは「リアリティーがある」「リアリティーがない」です。

 いったいどんなものなら「リアリティーがあっ」て「リアリティーがない」のか。この基準が今ひとつわかりません。

 実は講評している人自身もわかっていないのです。

 ただ読んでみたら「リアリティーを感じなかった」から「リアリティーがない」と言っているだけ。

 とても身勝手な理由からそう言われてしまいます。

 では「リアリティーがない」とは言わせない作品を書くにはどうすればよいのでしょうか。




リアリティーは現実味?

 そもそも「Reality」とはなんなのでしょうか。

 Google検索によると「現実」と出ます。それって「real」じゃないの? と思って「Real」を翻訳させると「リアル」と出ます。

 ちょっと待って。「Real」の意味を知りたかったのに「リアル」で返すんですか? それって翻訳を放棄していますよね。Google検索も翻訳を放棄するんですね。と思ってしまいました。

 ちなみに他の検索結果を見ると「Real」は「実在する、〔物理的に〕存在する。」「本当の、その名に値する、真の。」などがヒットしています。

 中には井上雄彦氏の『REAL』というマンガまでリストアップされているのです。

 本当にGoogle検索さんは賢いんだか抜けているんだか。




リアリティーがないとは

 では「リアリティーがない」と呼ばれるのはどんな状態でしょうか。

 読み手の常識から外れた物事は「リアリティーがない」と思われやすい。

「そんな人いるわけがない」と思われた時点で「リアリティーがない」のです。

 しかしこれ「ファンタジー」としては当たり前だと思いませんか。

 現実味がない出来事だから「ファンタジー」なのです。「リアリティー」を追求したら「ファンタジー」にはならないのです。

『桃太郎』に「リアリティー」はあるのでしょうか。ないですよね。大きな桃から生まれたり、犬・猿・雉と話をして仲間に引き入れたり、鬼たち相手に無双したり。どこに現実味がありますか。

 では『桃太郎』は物語として面白くないのでしょうか。

 幼児児童に語って聞かせるぶんには、評価の高い作品です。大きな桃から生まれる、動物と話せるといった不思議な存在が、一般人では太刀打ちできない鬼たちを退治してしまいます。だから素直に「すげぇ」と思ってしまうのです。

 ですが小説として見た場合、この「リアリティーのなさ」が足を引っ張ります。

 この作品「ファンタジー」なんですよ。なのに「リアリティーのなさ」で一次選考落ちになります。

 なぜ「ファンタジー」にまで「リアリティー」が求められるのでしょうか。

 実は求められているのは「リアリティー」ではないのです。本当は「没入感」が得られるかどうか。ここを間違えている選考さんが実に多いのです。

 しかし当の選考さんは「没入しづらい」理由を「リアリティーのなさ」のせいにしたがります。

 では「リアリティーがある」作品は「没入しやすい」のでしょうか。




リアリティーがあるとは

「リアリティーのある」とはどんな作品でしょうか。

 たとえば新聞記事です。実際に起こった事件や事故を、5W1Hを満たしながら書いていきます。

 では新聞記事は面白いと言えますか。面白さを見出す人もいるでしょうが、おおかたはつまらないと思います。事実だけを書いてあっても「面白さ」に欠けるからです。

 たとえばノンフィクション小説です。実はこの言葉、矛盾しているんですよね。ノンフィクションは「虚構なし」ですが、小説とは「たとえを用いてわかりやすく表現した文章」なのでどうしても比喩などでフィクションが存在してしまいます。もしたとえも「虚構なし」だと、読んでいて退屈するのです。

 では小説で「リアリティーがある」と言われる作品は「ノンフィクション」なのでしょうか。この言葉は「ファンタジー」でもよく使われています。ですので「ノンフィクション」だから「リアリティーがある」わけでもない。

 小説にとっての「リアリティーがある」とは、前述しましたが「没入しやすい」と同義です。どんな種類の小説であっても「没入」できれば「リアリティーがある」と評されます。




没入できればリアリティーがある

「小説賞・新人賞」へ応募して「リアリティーがない」と講評された場合、足りないのは「リアリティー」ではありません。「没入感」です。

 そもそも「ファンタジー」に「リアリティー」もへったくれもありません。

 講評している選考さんに語彙力がないから「リアリティーがない」なんて言っているだけです。そんな講評をもらったら「没入感がない」に変換して受け止めましょう。

 では読み手を物語に「没入」させるにはどうすればよいと思いますか。

 まず基礎的な確認をします。


 あなたの性別と同じ性別の主人公と異なる性別の主人公。どちらが「没入」できるでしょうか。

 これはすぐにわかりますよね。同じ性別の主人公です。男性の読み手は男主人公の物語には没入しやすいのです。女主人公の物語には没入しづらくて当たり前。性別によるメンタリティーの差はなかなか埋められるものではありません。

 少年向けの「小説賞・新人賞」へ少女が主人公の物語を応募したら、十中八九、一次選考で落とされます。物語が面白いかつまらないかではありません。「没入」できるかできないかです。


 次に行きます。あなたの年齢に近い主人公と、年上の主人公と、若い主人公。どれが最も「没入」できるでしょうか。

 これもすぐにわかりますよね。年齢の近い主人公です。同じ年齢層の主人公なら知識も同程度は期待できます。だから「こんなことも知らないのか」とは思いづらいのです。次は読み手より若い主人公です。読み手はその年齢を経てきた人が多いので、若い主人公に過去の自分を重ね合わせられるので「没入」しやすい。

 少年向けの「小説賞・新人賞」へ老人が主人公の物語を応募したら、こちらも容赦なく一次選考で落とされます。少年に達観した老人の心境は理解できないからです。

 理解できないものには「没入」できない。とても重要な事実です。





理解できれば没入できる

 前項でふたつの質問をしました。どちらも共通しているのは「読み手に理解できれば没入できる」点です。

「読み手層と同じ性別の主人公」「読み手層に近い年齢の主人公」なら理解されやすく「没入」にも近づきます。

 もうひとつ大きな要素があります。

 書き手が読み手層と近いかどうかです。

「書き手と同じ性別の主人公」「書き手に近い年齢の主人公」は書きやすいので、違和感を覚えない言動が「没入」へといざないます。

 ただし「書き手より若い主人公」も経験があるぶんそれなりに書きやすいので、中年になっても自分より若ければ書きようもあるのです。

 問題もないではありません。「今どきの若者の感性」が書き手にないので、妙に年寄りくさい若者になるのです。

 たとえば五十歳の書き手が二十歳の主人公を書いたとします。書き手にも当然二十歳の頃はありましたので、思い返せば書けなくはない。しかし「今どきの二十歳の感性」がわからないので、今の自分の感性をそのまま書いてしまいやすい。だから妙に年寄りくさい二十歳になってしまいます。

 この「年寄りくさい若者」を突破しようと思ったら、現実世界では表現しづらい。だから「異世界」を舞台に選ぶ書き手が多いのです。

「異世界」なら二十歳といえども成人から少し過ぎていても不思議はない。二十歳が若者は「人生八十年」時代の頃に言われていただけで、もし江戸時代のように十五歳元服であれば五歳も年を食っているわけです。たかが五歳かもしれませんが、十五歳から見れば人生の三分の一に当たります。もうじゅうぶん成熟した大人です。

 よって高齢の書き手が若者を主人公にしたいのなら、「今どきの若者の感性」を身につけるか「異世界ものや歴史時代もの」にして成人年齢を下げてしまう手があります。


 この考察が正しいのなら、年嵩の書き手の多い『小説家になろう』で「異世界ファンタジー」が強い理由にもなりそうですね。

「書き手と同じ性別の主人公」「書き手より若い主人公」の組み合わせが二番目に書きやすい。主人公が少し年寄りくさい考え方をしていても、それは成人年齢が主人公よりも下だから。すでにその異世界で成熟した大人の年齢であれば多少年寄りくさくても歳相応です。

 そして老舗の『小説家になろう』で「異世界ファンタジー」が強いから、他の小説投稿サイトでも「異世界ファンタジー」が大量に投稿されるのではないでしょうか。

 その意味で若い書き手はハンデを背負っているようなものです。

 読み手を没入させる主人公は「書き手と近い年齢の主人公」か「書き手より若い主人公」なのは説明したとおり。しかし若い書き手は「自分より若い主人公」に設定すると中学生以下の年齢になってしまいかねません。少年文学しか書けなくなってしまいます。だから「書き手と近い年齢の主人公」を瑞々しい感性で書くのです。


 芥川龍之介賞の最年少受賞者は『蹴りたい背中』の綿矢りさ氏で、受賞時十九歳の大学生でした。主人公の長谷川初実は高校一年生の女子です。つまり「書き手と同じ性別の主人公」で「書き手より若い主人公」を満たしています。ただし年齢が三歳しか違わないので「書き手と近い年齢の主人公」の範囲にも入るでしょう。だから綿矢りさ氏はハツを生き生きとリアリティーを伴って描けたのです。

 皆様も「小説賞・新人賞」を本気で獲りたければ、主人公を「あなたと同じ性別」の「あなたと年齢が近い」(最善)か「あなたより若い」(次善)に設定してください。

 おそらく異性の主人公を書いて「小説賞・新人賞」が獲れるとしたら「成人向け」だけです。男性の書き手が「理想とする女性」を主人公にして「成人向け」で汚しまくる、というのは一種の「代償行動」ともとれます。男性では得られない快感を女主人公に仮託しているわけですからね。





最後に

 今回は「リアリティーとはなにものだ」について述べました。

 長々と書いていますが、要は「リアリティー」とはすんなりと「没入」できるかどうかを表した単語なのです。

 すんなり「没入」できたら「リアリティーがある」し、どうしても「没入」できなかったら「リアリティーがない」と断ぜられます。

 そして「没入」へと誘うのは「読み手と同じ性別の主人公」で「読み手と近い年齢の主人公」です。そうでなければ、いくら筆致を尽くそうとも読み手を主人公に「没入」させられません。

 書きやすい主人公は「書き手に近い」のです。読み手層を意識しながらも、あなたの書きやすい主人公のほうが全体の粗が目立ちにくい。

 よほど特殊なジャンルでもないかぎり、主人公は書き手が無理せず書ける存在が望ましいのです。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る