1215.技術篇:精神論と手本

 あなたは小説が書けないのでしょうか。

 文章が書けないのでしょうか。

 そもそも「文章の書き方」って教わった記憶がありますか。





精神論と手本


「文章を書く」

 たったそれだけができない。

 これは日本の教育に問題があります。




読書感想文は根拠なき精神論

 皆様が小学生の頃に最も苦労したのは「読書感想文」ではないでしょうか。

 どう書いてよいのか手本すら示されず、しかも書いた文章が廊下に張り出される。のみならず文部科学大臣賞などと勝手に優劣をつけられます。

 この理不尽から「文章を書くのが嫌になった」方も多いでしょう。

「読書感想文」はただの精神論でしかありません。「とにかく読んだら感想文を書け」と強制されて、提出しないと点数が下がる。これってどこの独裁国家ですかね。

 もし最初から手本となる「読書感想文」が示されていて、それを参考にしながら書いてもよいとされていたら。おそらく多くの方が「読書感想文」をすらすらと書けたでしょう。そして「文章を書くのが好きになった」はずです。

 手本もなく強制されて「読書感想文」を書かせられたら「文章を書くのが嫌になる」。

 手本がありどんな作品でもよければ「読書感想文」を進んで書けますし、「文章を書くのが好きになる」はずです。

 ではなぜ「読書感想文」は手本もなく強制されているのでしょうか。

 そもそも「文章の書き方」を私たち日本人は学校で習っていないのです。

 学校では「文字が読める」ようになる。「文字が書ける」ようになる。「文章を正しく把握する」。この三点しか学びません。

「文字が読める」ようになれば国民全体の識字率が高まります。日本は世界一の識字率を誇っている。それは義務教育でほとんどの方が「文字の読み方」を習ってきたからです。

「文字が書ける」ようになれば名前や住所などが書けますから、これからの試験を受ける土台が築けます。

「文章を正しく把握する」は読解力です。試験を受けるにしても、出題の意味するところが正確に理解できなければ、正しく答えられません。本当に知識があるのかを採点できないのです。


 それらに比べて「文章の書き方」はなんの役にも立ちません。

 算数や数学の数式は「文章」ではなく、数字や演算子が並んでいるだけです。数式はひじょうに論理的ですから、正しく記載しないと計算間違いを犯します。

 理科や化学の化学式も数式同様、正しく記載しないと間違った結果しか導き出せません。

 数式も化学式も「文章」ではないのです。

 そもそも手本を示されない「読書感想文」を書く際「話すように書け」と言われます。

 これが最初から誤っているのです。

「話すように書いた文章」は、主語や述語があいまいになりやすく、一文が長くなって意味がわかりづらくなります。

 日本の国語教育では「文章の書き方」をいっさい教えていません。

 その割に漢文や古文の書き方は教わるのです。

 漢文や古文は数式や化学式と同様、正しい順序が明確で一字書き誤っただけで意味ががらりと変わってしまいます。

 しかし日本語(文語体)の文章は、たとえ一字書き誤ってもある程度意味が通じるのです。

 また単語の順序を変えてもある程度正しく読めてしまいます。

 だから教師も「話すように書け」としか言わないのです。

 お手本でもあれば、それに則って書ける生徒も多いでしょう。

 まず「結論を書く」、次に「なぜそういう結論に至ったかの感想の過程を順に書く」、最後にもう一度「結論を書く」。

 この「結論」のサンドイッチが「読書感想文」のキモです。

 読書感想文と言いながら、求められるのは「結論」であって「感想」ではない。

 もしその事実を小学生の頃に教えられていたら、「文章嫌い」は今よりもっと少なかったはずです。

 つまり「読書感想文」なんてものは、はなから精神論で書されているにすぎません。しかも「文章の書き方」すら教えられていないにもかかわらず。これでは精神論でも「根拠がない」のです。

 もし算数の「百マス計算」を解け、と言われたら精神論ではあってもその行為には「根拠があり」ます。「さまざまな計算を素早くこなせる」という「根拠」がしっかりあるのです。

「読書感想文」がいかに無意味で「文章嫌い」を大量発生させているのか。少しはご理解いただけたでしょうか。




手本があればなんとかなる

 逆に言えば「文章の書き方」は「手本」さえあればいくらでも身につきます。

 よく「小説をたくさん読んで、自分でも書きたくなった」から小説を書いて「小説賞・新人賞」へ応募し、一発で受賞するケースを見ませんか。

 あれは「たくさん読んだ小説の数々」が「小説の書き方」の「手本」となっているからできるのです。

 であれば、私たちも「手本」を用意すれば「小説が書ける」と思いませんか。

 どの作品が「手本」に向いているのでしょうか。

 これはあなたが好きな小説でかまいません。

 前回書きましたが、人間は興味のあるものしか憶えられないように出来ています。小説の「手本」もあなたが夢中になるほど好きな作品がよいのです。

 注意点もあります。「文豪」の書いた古典はほとんど「手本」になりません。

 まず「文体が古い」。旧仮名遣いで小説を書くと「小説賞・新人賞」はまず一次選考で落ちます。

 次に「時代が古い」。「文豪」の書く小説は基本的に「同時代性」が求められていました。昭和初期の作品なら、昭和初期を舞台にした小説しか書けないのです。その作品を「手本」にしても昭和初期の日本を舞台にした小説になってしまいます。これでは古いのです。

 最後に「発想が古い」。もし「文豪」が現役で小説を書いていたら、純文学を書くでしょうか。芥川龍之介氏はファンタジー小説を数多く書いていますので、案外ライトノベルを主戦場にしているかもしれません。しかし芥川龍之介氏のファンタジー小説は民主主義をベースにした作品ではないのです。誰もが読んだであろう『羅生門』だって、平安時代を舞台にしたファンタジー。もし芥川龍之介氏が現代日本の民主主義を知ったら、どんな作品を書いたのでしょうか。またたとえば芥川龍之介氏がパソコンやスマートフォンを知ったら、どんな作品になったのでしょうか。そんな発想のなかった時代の「文豪」は「発想が古い」のです。


 だからできるのなら現役「プロ」の作品を「手本」としてください。

 私はライトノベルなら水野良氏『ロードス島戦記』に初めて触れましたので、同氏の『ロードス島戦記』『魔法戦士リウイ』『グランクレスト戦記』などの作品なら「手本」にできそうです。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』が好きな方は同作や『アルスラーン戦記』を「手本」にしてもよいでしょう。

 ライトノベルに限らず、宮部みゆき氏や宮城谷昌光氏、冲方丁氏、池井戸潤氏、恩田陸氏などを「手本」にするのもよい選択だと思います。

 少なくとも「今」活躍している現役の「プロ」の作品は、あなたを上のレベルに引き上げてくれる滑車のようなものです。

 好きな小説はいくらでも読めますし、いくらでも分析できます。

 だからよい「手本」となるのです。





最後に

 今回は「精神論と手本」について述べました。

 小学生が最も苦労するのは「読書感想文」です。

 まず書き方を教えてくれません。読みたくもない本を読まなければなりません。

 これで万人ウケする「読書感想文」なんて書けるわけがないのです。

「文章を書く」ときは必ず「手本」を用意しましょう。

 時候の手紙を書くときだって「手紙の書き方」のような書籍を「手本」にしますよね。

 小説だって「小説の書き方」を「手本」にして書けばよいのです。

 まるっきり同じ物語を書くわけではない。でも「手本」があれば「こんなときはこう書けばよいのか」と気づける点で有利です。

「小説を書く」のは精神論では不可能。適切な「手本」があれば処女作で大賞だって獲れます。

 必要なのは精神論ではなく「手本」なのです。



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