1203.技術篇:成功する方法で努力する

 どうせ努力するなら「成功する」方法でやりませんか。

 ムダを省いて効率よく書くにはどうすればよいのでしょうか。





成功する方法で努力する


 努力をするなら「成功する方法」で行ないましょう。

「失敗する方法」で努力しても、失敗するのは目に見えています。

 そんな無駄をあえてやる必要はありません。




努力する方向性

「小説賞・新人賞」を獲りたいのなら、「努力する方向性」は最初から「成功するベクトル」へ向けるべきです。

 方向性が間違っていたら、いくら努力したところでいっこうに成果はあげられません。

 ならば、まず「成功するベクトル」を探し出しましょう。

 方向性が間違っていなければ、努力し続けているかぎり必ず前進します。

 たとえ一作が一次選考にすら落ちたとしても、「努力する方向性」が正しければ次の作品は必ず前作を超える出来栄えになるのです。

 では「小説賞・新人賞」を獲るための「努力する方向性」はどのベクトルなのでしょうか。

「物語に惚れる」ところから始めましょう。




物語に惚れる

 小説を書くうえで、最初に見据えるべきベクトルは「物語に惚れる」です。

 これから書こうとしている作品の物語に惚れ込まなければ、細かなところまで考えが及びません。

 人間は意外と飽き性で、関心のある物事でないとすぐに飽きてしまいます。

 一度飽きが来たら、それ以上の細部ディテールを考えられなくなるのです。

 どんなに巧みな書き手でも、それ以上詳しく書けなくなります。

 書き手が飽きてしまった物語は、読み手にとっては消化不良もよいところ。

 読み手は物語の細部ディテールに躍動感を覚えるのです。

 一見なにげない数字でも、細かく書くから物語にとって必然な数字に思えてきます。意味を持ち始めるのです。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』でも戦闘に参加する艦艇数や人員は一の位まで記しています。読み手はそこに必然を感じるのです。

 川原礫氏『ソードアート・オンライン』でも一万人のプレイヤーがどの時点で何人まで減っているのか。一の位まで記しているので必然を覚えます。

 数字ひとつとっても、物語では必然を感じさせるのです。

 だから物語の細部ディテールには徹底的にこだわりましょう。

 そのためには物語を設定している段階から「飽きが来ない」ようにする必要があります。

「飽きが来ない」ためには「物語に惚れる」のが一番です。


 小説を書きたいのなら、心底その「物語に惚れ」てください。

 どれほど細部ディテールに凝れるかは、どれだけ「物語に惚れ」ているかで決まるのです。

「物語に惚れ」ていれば、いくらでも細かいところまで潜っていけます。

「神は細部に宿る」

「物語に惚れれ」ば、あなたはその物語の神となれます。

 書き手は物語の細部まで飽きずに突き詰めていく。それが楽しくて仕方がない状態になりましょう。そのひとつが「物語に惚れる」なのです。

 書き手自身が「物語に惚れ」なければ、誰がその物語を愛せるのでしょうか。

 少なくとも書き手ひとりが「物語に惚れ」ていなければ、他のなんぴとをも惹きつけられません。

 最初に必要なもの。それが「物語に惚れる」なのです。




主人公に憧れる

 物語を紡いでいくには、あなたが主人公に憧れを抱けなければなりません。

 嫌いな人物を掘り下げていっても、小説の中で活躍させられるでしょうか。

「好きでもないのに、ウケがよいからそういう人物を出す」

 それで魅力的な物語になるのであればよいのですが、実際にはとても読めた作品になりません。

 上っ面を舐めただけの、借りてきたキャラクターであると一瞬で見破られます。

 作品の中で主人公の存在が浮いてしまうのです。

 小説は「主人公ありき」で物語を構築するのが常道になります。

 主人公が決まっているから、対極にいる「対になる存在」を導き出せますし、主人公に足りないものを脇役が補えます。

 最近は「主人公最強」「俺TUEEE」「チート」「無双」といった。なんでもこなす万能型の主人公が幅を利かせている。しかしそれでは他の登場人物は存在意義がないのです。

 主人公に足りないものがあるから、脇役に果たす役目もあります。

 最強主人公を引き立てるために、あえて脇役を道化にする人もいますが、あまり感心しません。本来なら脇役も一流なのに、それをはるかに凌駕する存在だからこそ「主人公最強」は読み手の憧れになるのです。

 鎌池和馬氏『とある魔術の禁書目録』の主人公・上条当麻は、脇役がいずれも超一流であっても「主人公最強」を演出しています。これが本来の「主人公最強」であるべきなのです。

 周りが道化で、主人公は相対的には最強でも、他作品の主人公と比べればたいしたことはない。それで読み手の憧れを喚起できるでしょうか。

 端的にいえば、「バカの中にまともがひとり」という状態です。

 これを「主人公最強」と呼んでよいものでしょうか。

 主人公に同情こそすれ「憧れる」ような存在ではありません。

 小説は読み手が主人公に感情移入して楽しむ娯楽です。

 憧れを抱けない主人公へ没入しても、なにも楽しくない。ただ淡々と出来事が起こっては、読み手の考える範囲内での行動しかとらないのです。

 これで「主人公に憧れ」は抱けません。

 主人公は読み手よりもなにかがすぐれていなければなりません。

 武術だったり剣術だったり魔術だったり。数学の天才かもしれませんし超絶美形かもしれません。

 とにかくなにかひとつでも読み手よりすぐれた主人公が求められるのです。

 自分以下の主人公が活躍する物語を読んでワクワクする読み手はまずいない。

 だから生徒になると童話を読まなくなり、大人になるとライトノベルを読まなくなるのです。多くの中年が純文学にハマるのも、自分よりもドラマチックな主人公に没入できるからです。中年になっても中学二年生に感情移入できる方はきわめて限られます。




魅力的な対になる存在

「剣と魔法のファンタジー」だと「対になる存在」はたいてい悪逆非道と相場が決まっています。

 でもそれってただの「勧善懲悪」ですよね。

 とくに「主人公最強」の「対になる存在」は悪逆非道で「勧善懲悪」物語が成立します。

 ですが「小説賞・新人賞」を獲りたいのであれば「対になる存在」は主人公並みに「魅力的」でなければなりません。

 たとえば武論尊氏&原哲夫氏『北斗の拳』のラオウは悪逆非道だったでしょうか。違いますよね。彼には彼なりの主義主張がきちんとあり、それを貫いたからこそ「魅力的な対になる存在」になったのです。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』の「対になる存在」ヤン・ウェンリーは悪逆非道だったでしょうか。これも明確に異なりますよね。こちらもヤンなりの主義主張があり、物語ではそれを貫き通しました。そして彼の遺志は養子ユリアン・ミンツに引き継がれたのです。

 よい物語にはつねに「魅力的な対になる存在」がいます。

「勧善懲悪」で「対になる存在」が「嫌なヤツ」でしかなかったら、読み手は子供だましに思えて興醒めしてしまうのです。


 物語、主人公、対になる存在。

 三つの柱で、名作にも駄作にもなります。





最後に

 今回は「成功する方法で努力する」について述べました。

「成功する方法」とは「物語に惚れる」こと。「主人公に憧れる」こと。「魅力的な対になる存在」であること。

 この三つが十全なら、必ず成功へと導いててくれますよ。



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