1110.鍛錬篇:好奇心が快感を呼ぶ
今回は「好奇心」についてです。
人類はなぜ発達した文明を持つようになったのでしょうか。
サブタイトルを見れば「好奇心」と答えるかもしれませんが、少しだけ異なります。
好奇心が快感を呼ぶ
人類はなぜこんなにも文明が発展したのでしょうか。
それは「今まで知らなかったことがわかった」「今までできなかったことができるようになった」ことに「快感」を覚えたからです。
まとめて「好奇心」と呼んでよいでしょう。
臆病さが好奇心を生む
ではなぜ人類は、どんな動物よりも「好奇心」を抱くのでしょうか。
臆病だからです。
ほとんどの動物には痛覚がありません。
自動車に足を引かれた犬は、骨が折れたとしても引きずりながら平然と歩きます。
しかし人間には痛覚があるため、骨が折れたら「痛い」のです。
二度と「痛い」思いなんてしたくない。そう思っていたので「記憶力」が高まったのです。
同じシチュエーションに遭遇すると「自動車は危ないから離れよう」と思うようになりました。こうして学習機能が高まり、「すでに経験したもの」に対処する「プログラム」がストックされたのです。
臆病だから「プログラム」をストックして適宜働かせる「アフォーダンス」が機能します。人類を飛躍的に進化させた鍵です。
しかしこれらはすべて「すでに経験したもの」つまり「既知」のものに対して働きます。
「未知」のものに「アフォーダンス」は働かないのです。
では人類は「未知」のものをどのように捉えているのでしょうか。
「未知」を「既知」にして「正しく恐れる」ようになろうとしています。
たとえば「この丸々と膨らむ魚は、食べたらうまいのだろうか?」という「未知」がある。人類はそれを実際に食べてみたのです。するとうまかった。「この魚はうまいぞ!」と「既知」になるのです。しかしある人はその魚を食べたあとに死にました。すると人類は「ちょっと待て。この魚は食べると死ぬのか? こんなにおいしいのに?」となり、「既知」がまた「未知」へ戻るのです。
すると「どこまで食べれば死ぬのだろうか?」という問いが生まれ、これを「既知」にしようとさまざまな挑戦を始めます。
「どうやら内臓を食べると死ぬらしい」「血を食べても駄目なようだ」とわかったのです。
こうして「未知」を「既知」にして安心安全を手に入れました。
「未知」を「既知」にしようとさまざまな挑戦をすることを、「好奇心」と呼びます。
ここで「臆病」と「好奇心」がつながりました。
「臆病」だからこそ「好奇心」を持つのです。
犬や猫に「痛覚」がないのは、勇敢だから。肉食動物は襲う側であり、襲われる側ではありません。
アフリカのサバンナに棲む草食動物は、総じて聴覚がすぐれています。迫りくるライオンやチーターなどに気づけなければ生き残れないからです。そうなると襲う側の肉食動物は隠密性を手に入れます。そうしなければ草食動物を捕まえられないからです。
人間は「痛い」思いをしたくないので、肉食動物が近づいてきたら木に登ってやり過ごし、草食動物が近づいてきたら襲って食べるという生活をしてきました。
臆病だから、どの動物が危険で、どの動物は安全かを記憶できたのです。
まだ見たことのない動物が近づいてきたら、人類はどのような反応をするのでしょうか。
ここでも「未知」を「既知」にしようとします。つまり「好奇心」が刺激されるのです。
人類は「好奇心」に抗えない生き物なのかもしれません。だからこそ、これほど高度な文明を築けたのではないでしょうか。
できなかったことができるようになる
人類は「できない」ことに直面すると「好奇心」が刺激されます。
これは人類の祖先である猿やチンパンジーなどでも見られるものです。
たとえば手を伸ばしてもジャンプしても届かないほどの高さにバナナを吊るしておく。そばに長い棒や輪っかなどを置いておく。この状態に猿を入れると、猿は最初は手を伸ばしてバナナを取ろうとします。しかし届きません。するとジャンプをして手を伸ばすのです。それでも届きません。これを何度も繰り返しているうちに「どうやらこのバナナは取れないらしい」と気づきます。そこでなにか使えないか周りを見渡すのです。
この「なにか使えないか」は人類やサルなどで顕著に見られる習性とされています。犬や猫でも訓練すれば身につきますが、野良犬や野良猫には見られない習性です。
猿は輪っかを手にとって振り回したり投げつけたりしてみます。それでも取れません。長い棒に気づいてそれを手に取り、振り回したり投げつけたりしてみます。すると棒がバナナを叩き落として地面に落下させられました。ただの偶然の産物ですが、猿はこれを「手の届かないところにあるものは、長い棒を使えば届く」と学習します。
これは生存本能の一種であり、そのことで「快感」を覚えはしません。
しかし長い棒でバナナを叩き落として食べられ、さらに人間からご褒美までもらったとなれば話は違ってきます。
「できない」ことを「できるようになる」ことでご褒美がもらえると学習するのです。
すると「できない」ことに直面するとご褒美欲しさでさまざまな行動をとるようになります。ご褒美をもらうという「快感」がクセになるのですね。
人類もコミュニティーを作ることで、上に立つ者からご褒美をもらえるようになりました。すると「できない」ことに直面すると「できるようになっ」てご褒美をもらいたい「快感」を覚えるのです。
これが積み重なって、人類はいちばん「好奇心」の強い生物となりました。そして「できない」ことがどんどんなくなっていき、文明が高度化されていったのです。
小説における好奇心
小説でも主人公が「知らない」ことがあると読み手は「知りたく」なりますし、主人公が「できない」ことがあると読み手は「できるようになり」たいのです。
だから最初から「なんでも知っている」「なんでもできる」主人公だとまったく面白く感じません。
「知らない」ものを知るために行動する。「できない」ものをできるようになるために行動する。だから読み手の関心を惹き寄せられるのです。
小説の主人公には、そういった行動力が求められます。なにもせず手に入るような内容では、誰も面白いと判断してくれません。
行動してもそう簡単には手に入らない。だからこそ面白いのです。
邪魔が入る、やらないといけないことがある。まわり道を強いられれば「好奇心」が刺激されます。
しかし延々と終わらない物語だと、そのうち「好奇心」が冷めてしまうのです。
だからこそ、物語には適正な長さがあります。
どのくらいかわかりますか。
長編小説の長さです。
そう。私たちは限界まで「好奇心」を刺激されながら物語を読んでいます。
しかし連載小説では、長編小説の何倍もの長さの物語を読みますよね。なぜそんなに長い物語が読めるのでしょうか。
それは「長編小説の区切り」までに「小さな物語」が完結する構造になっているからです。
適度な長さで、物語の中のひとつが完結する。だから読み手は満足を覚えながらも、物語の続きを読みたくて仕方がなくなるのです。
小さな「好奇心」を満足させながら、大きな「満足」が得られるところまで読み手を連れていく。
これが連載小説に求められる構造です。
最後に
今回は「好奇心が快感を呼ぶ」ことについて述べました。
「今まで知らなかったことがわかった」「今までできなかったことができるようになった」
それが「快感」を呼び起こします。
前者は頭脳的な「快感」、後者は行動的な「快感」と区別できるでしょう。
この両輪で読み手を物語の結末まで連れていくのが、書き手の役割なのです。
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