1056.対決篇:村上春樹氏の文体3/3
今回で「対決篇」は終わりです。
村上春樹氏の長編寸評のツッコミ最終話となります。
劣化の歴史を見ているような気になりました。
村上春樹氏の文体3/3
今回もちくま文庫・ナカムラクニオ氏『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』を引いていきます。タイトルが長いので『47のルール』と呼びます。
ナカムラクニオ氏が村上春樹氏の長編十四タイトルを寸評しているところを元にツッコんでみましょう。の後編であり、本篇最後を飾ります。
『アフターダーク』
「日が暮れてから明けるまでの非日常の一夜の物語なので、午後一一時五六分から午前六時五二分までの限られた時間の中で、複数の人々が交錯する様子を偽ドキュメンタリーのように綴っています」
「マリという不思議な少女と高橋という青年の出会いからはじまりますが、「僕」が一人称として語るのではなく、何の感情も考えも持たない神の視点として「架空の監視カメラ」から観たような描写が続くので」とあります。視点が「何の感情も考えも持たな」ければ「三人称視点」です。それともマリや高橋らの感情は直接書いてあるのでしょうか。それなら「神の視点」になります。
「相変わらず理解不能の村上ワールドが炸裂している印象もありますが、この実験的な手法により、レストラン「デニーズ」やラブホテル「アルファヴィル」のシーンが、よりリアルに生々しく感じられます」とも書かれています。
ナカムラクニオ氏も「相変わらず理解不能の村上ワールド」と自覚しているようで、盲信的な村上春樹氏マンセーではないのかもしれません。しかし「神の視点」で書かれた欠陥作品を「実験的な手法」と言うあたりにマンセーが見受けられます。
「「夜明け前が一番暗い」ということを社会の闇を通じて描こうとしていたのかもしれません」と書いてあります。それほど、なにが言いたいのかわからない作品なのだということです。
『1Q84』
「発売して約二週間で一〇〇万部近く売れた話題作『1Q84』は、ジョージ・オーウェルの近未来小説『一九八四年』をベースにして、「近過去小説」として描かれています。内容は、惹かれ合う青豆と天吾による、ボーイ・ミーツ・ガール的なストーリー。小学生時代にたった一度だけ、手を握り合った青豆と天吾が、大人になってからも互いを忘れることなく求め合い、二十年後に再開を果たすのです。この時点で、かなりのエンタメ感があふれています」とあります。
まぁ青臭いけど大人の青春小説のような趣です。
「高速道路脇の非常用階段を入口にして、ヤナーチェクの音楽とともに、もうひとつの一九八四年「1Q84年」に主人公のふたりが入り込んでしまいます」とあります。
この設定を読んで最初に感じたのは「これってOAVの『メガゾーン23』のパクリやん」でした。時代設定も、もうひとつの世界に行くのも同じです。
「作中に登場する小説『空気さなぎ』の作者で十七歳の少女は、深田絵里子。両親とともに山梨にある宗教コミュニティ「さきがけ」で育ちます。とても美しい顔立ちで、ディスレクシア(読字障害)という設定」
またしても障害者が出てきました。障害者が出てこない小説しか書かないのは、それはそれで不自然です。しかし障害者がこうも頻出するのはもっと不自然です。意図的に書こうとしないかぎり、こんなに障害者が登場する作品群は書けません。
「内容が深く複雑なものを、出来るだけ多くの人にシンプルに伝える手段として「エンタメ力」を使っているのです」ともあります。
これは村上春樹氏だけでなく、多くの書き手が実践しています。とくにライトノベルの書き手はほとんどが「エンタメ」を通じて読み手に教訓を与えているのです。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中では、登場人物の名前の色をファッションのようにスタイリングし「演出効果」として使っています」とあります。
本当にそうでしょうか。単に「今回は色をテーマに長編を書いてみるか」という程度のノリに思えます。
「アカ、アオ、クロ、シロ、灰田、緑川という「色彩」にまつわる名前を持った友人たちから切り離されてしまった主人公、多崎つくるは「色彩を持たない人間」として描かれています。男性は、アカ、アオ。女性はクロ、シロ。まるでカラフルな色とモノクロームの世界を対比するように描かれています」とあります。
前に指摘しましたが、「黒」「白」「灰」は「彩度」を持ちません。だから「色彩」という言葉には含まれない色なのです。そもそも女性陣が「モノクローム」なら灰田はどうなるんだよと。
「アニメや映画などでは、悪役には「黒」「紫」、純真無垢な人物は「白」、人気者には「赤」「黄」「青」というような暗黙のルールもあります」と書いてあります。
本当にそうでしょうか。「紫」は日本では高貴な色であり、冠位十二階でも最上位に位置する色です。それが悪役にふさわしい色と解釈するのは難しい。せいぜい『機動戦士ガンダム』のキシリア・ザビの制服の色くらいなものでしょう。
『騎士団長殺し』
「村上春樹のベストアルバム的作品です。「これぞ村上春樹」というような言葉、展開がギッシリと詰め込まれています」とあります。
「主人公は三十六歳。肖像画を描く画家です。ある日、突然妻のユズから離婚を迫られます。ユズは少し前から他の男性と浮気をしていたのです」。そこでプジョー205に乗って放浪の旅に出ます。
確かにこの退廃的な設定はいかにも村上春樹氏が書きそうです。
「旅から帰ってくると、行く当てのない「私」に、大学からの友人で有名な日本画家を父に持つ金持ちの雨田政彦が別荘を貸してくれます。/ そんなある日、「私」に「自分の肖像画を描いてほしい」と多額の報酬とともに依頼する人が現われるのです。免色渉という、さらに金持ちの男性でした。そして、屋根裏でドン・ジョバンニのオペラの一場面を描いた「騎士団長殺し」の絵を発見する」
どうもこの作品は、先に「騎士団長殺し」という名の絵の存在を知った村上春樹氏が、それを絡めて長編を書こうとしただけなのではないかと思われます。
どんな長編を書くかですが、そこは村上春樹氏、退廃的でなければなりません。
『47のルール』でナカムラクニオ氏は「これまでの村上作品の要素がすべて再利用されています。まるで歌手が昔ヒットした代表作をセルフカバーしたアルバムのようです。作者自身の作品を題材にしたセルフパロディのようにも感じます。/ しかし、これはきっと村上さんの巧みな作戦です。作品を描き続けていると、自らを否定し、さらに再生することが不可欠となります」としています。
村上春樹氏マンセーの方から見ればそのように感じられるのかもしれません。しかし、実際にそれほど高尚な理由ではないのです。おそらくセルフパロディにすらなっていないのではないでしょうか。
最後に
今回は「村上春樹氏の文体3/3」をまとめました。
これで村上春樹氏との「対決篇」は終わりです。
ハルキストの書く村上春樹氏評を読むと、私がいかに村上春樹氏が嫌いかが明確になっていきますね。
根本的にある「無断拝借」「パクリ」精神が悪い。「障害者」を軽んじる精神も悪い。ですが日本語力そのものがおかしいのです。とくに比喩は、一般の日本人にはわからないものだらけ。
「対決篇」をお読みになって村上春樹氏に興味を持たれた方は、先に『47のルール』を買ってお読みになるとよろしいでしょう。それで波長が合えば村上春樹氏の作品を買ってみればよいのです。その際は古本屋に行きましょう。村上春樹氏の小説はひじょうに安価でかつ大量に見つかりますよ。たとえハルキストだろうと村上春樹氏の小説はコレクション性がないのです。私は「やっぱり合わない!」と思いましたので、これからも彼の小説は買わないでしょう。
次回からは、また小説の執筆に関する手法論などをまとめていきたいと思っています。
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