898.惹起篇:推敲の本質は不要な文を削ること
今回は「推敲」についてです。
皆様は「推敲」といえば「漢字の間違いはないか」「より適切な言葉はないか」だけを考えていませんか。
日本語の文章での「推敲」は、不要な文を削り込んでいくことなのです。
推敲の本質は不要な文を削ること
推敲の語源はNo.438「深化篇:推敲のポイント(1/2)」、No.790「それでも時間と手間をかける」でお話ししていますので、今回は割愛致します。
そんな推敲において最もたいせつなのは、不要な文を削ることです。
不要な文を削るとは
推敲といえば、語源通り
確かに推敲の本来の意味は適切な表現の模索にあります。
しかし、こと日本語の小説に関しては文章の「
直接結びつかない文をすべて削れとは言いません。直接結びつく文へ間接的に影響を与える文は残してください。これは直接結びつく文が細くなって力強い説明にならなくなる恐れがあるからです。
たとえば「命はなにものにも変えがたいたいせつなものだ」と言いたい小説で、「難病に冒されて余命幾ばくもない少女」について書いた文があったとします。この少女の年齢や外見や内面やどんな病気なのかといった情報は、「余命幾ばくもない少女」の文を太く力強くしてくれるのです。だからすぐには折れません。
太くたくましい情報が「
だから「余命幾ばくもない少女」にまつわる情報は「
「余命幾ばくもない少女」の両親も、少女の心の支えになっていますから、さまざまな情報が欲しいところです。
逆に「難病の少女の主治医で、現在は対症療法しかできない医師」の情報はそれほど重要だとは思えません。重要な役回りを果たすのは「臨終を確認する」ことくらいでしょうか。であれば主治医の年齢や外見や内面がどうだという情報は、「なにが言いたいのか」の「
だから要らないと判断される文は片っ端から削除していくのです。せいぜい「冴えない医師」くらいの情報にしましょう。
重要度の低い比喩も削る
「比喩」も削れるものは削ってください。
では「比喩」はどんなときに使えばいいのでしょうか。
読み手に対象を印象づけたいときに用います。つまり「比喩」を使った対象は否が応でも目立つのです。
目立つものが物語にとって重要なものであれば、積極的に「比喩」を使いましょう。
ですが、物語にとってさして重くない役割しか果たしていないものにも「比喩」を用いてしまうことが、とくに中級以上の書き手には多いのです。
先ほどの「余命幾ばくもない少女」の物語を例に見ていきましょう。
「余命幾ばくもない少女」自身にかかわる「比喩」は重要性が高いため、削る必要はありません。
少女をはたから見ている第三者の目線である三人称視点である場合は、少女自身にかかわる「比喩」は必須です。
しかし両親に対する「比喩」は必要でしょうか。適切な「比喩」であれば残してもいいのですが、少女とのつながりのない「比喩」は不要です。
「比喩」が多くなると、「比喩」のかかっている対象が目立ちます。両親にかかわる「比喩」の中でも外見を書くのは「あり」です。しかし心の内に「比喩」を用いると、両親も主人公格になってしまいます。つまり感情移入すべき相手が複数にバラけてしまうのです。
できるかぎり主人公格は「余命幾ばくもない少女」ひとりにするべきです。両親が目立ってしまうと、「余命幾ばくもない少女を看取る両親」の物語になってしまいます。
また少女の主治医の「比喩」もまず要りません。こちらも「比喩」が過剰になると、重要人物に格上げされてしまうからです。
「両親の物語」になってもかまわないのですが、「余命幾ばくもない少女の主治医」の物語なんて読みたいと思いますか。医師の物語にすると、少女が患っている病気に対する知識が必要になるのです。つまり単に「余命幾ばくもない少女」の物語なら、衰弱していくさまを読み手に読ませるだけでよい。ですがその「少女の主治医」の物語なら、彼女はどんなに治療が困難な病であるのかを読み手に説明しなければならなくなるのです。あなたにそこまでの医学知識はありますか。私はありません。だから私は「少女の主治医」の物語を書けないのです。
それでも「難病もの」は需要が多いため、挑戦する書き手も多いと思います。
であれば医学知識があまり求められない「少女」を主人公にした物語にしたほうがいいのです。
そこで「少女の一人称視点」で書くことが考えられます。病で衰弱していくさまを、少女の視点から書くのです。それならば、両親の「比喩」、主治医の「比喩」も少女が感じたものを書けばよいので、「難病もの」でもかなり楽ができます。
「難病もの」ではありませんが、夏目漱石氏『坊っちゃん』のように、登場人物を「あだ名」という「比喩」で表すこともできるのです。
削る基準は重要度
要は「物語の中で重要な役割を果たす人物の情報や比喩は残す」「重要度の低い人物の情報や比喩は、印象を表すこと以外すべて削る」ことになります。
このくらい振り切ってくれると、読み手は誰が主要な人物なのか、ひと目でわかるのです。だから物語の筋を追いやすくなります。
「比喩」で書くのではなく、さらっと説明するだけでいいのです。
誤解されることもなくなり、ストーリー評価も得やすくなります。
つまり書きやすいし、読みやすいし、評価されやすい。「一挙三得」なのです。
だからこそ、推敲は「文を削る」ことを主眼に置き、「比喩」も「重要度によって削って」いけば、「わかりやすい」小説に仕上がります。
「わかりやすい」小説を「底が浅い」と言う方も中にはいらっしゃいます。でもそれはごく一部です。(とくに「文学小説」の大家が言います)。
それなら「わかりにくい」小説は「底が深い」のでしょうか。読み応えがあるのでしょうか。あなたが読み手だったとすれば「それは違う」と即答できますよね。
ごく一部の書き手が「底が浅い」と言ったからとて、「わかりにくい」小説は読んでいて難儀しますし、内容も頭に入ってきません。そんな小説を読み続けることなんて、よほどマゾヒスティックな性格でもなければできはしないのです。
私たちは読み手に「わかりやすい」小説を提供することに注力すべきでしょう。
「わかりにくい」小説など誰も求めていません。
今からフョードル・ドストエフスキー氏『罪と罰』を読んでください。
そう言われて、嬉々としてラストまで読み続けられる方はまずいません。
あの難解な小説をすらすらと読めてしまう方は、「忍耐」という才能があります。これは間違いありません。ほとんどの読み手は途中で挫折してしまうでしょう。
だからこそ可能なかぎり「重要な人物や事物に対する情報や比喩」に絞って文章を綴るように心がけてください。
最後に
今回は「推敲の本質は不要な文を削ること」について述べました。
物語の中での重要度によって必要な文は残し、不要な文を削る。必要な「比喩」は残し、重要度の低い「比喩」は削るのです。
そんな単純な法則があることを知ってください。
ある程度書ける方はつい書きすぎてしまいます。
一次選考は通過するのに二次選考に残らないのは「文章がくどい」からかもしれません。省ける情報や比喩は徹底的に省いて簡素化し、極限までスリムにするべきです。
そうすれば枚数や文字数に余裕が生まれますから、それを生かしてもう
「推敲は削ること」だと割り切ったほうが、結果的によい作品が書けるのです。
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