875.惹起篇:登場する理由がある

 今回は「文章に書いたものだけが存在する」ことについてです。

 物語に登場するのは、それなりの「理由」があります。

 もし「理由」がなければ、ムダなものを書いてしまったのです。





登場する理由がある


 小説に登場する人物は、理由があるから出てきます。

 たとえ名前のないモブキャラであっても、文で触れれば存在するのです。

「触れられなければ存在しない」とも言えます。




現実世界では

 たとえば高校が舞台の青春小説だったとして、クラスメートの何人に触れるかで物語の規模が変わってきます。

 クラスの中で、主人公と意中の異性だけが登場するのであれば、取り立ててクラス内の描写は必要ありません。

 もし主人公の悪友が同じクラスなら、悪友に触れることでそのクラスでは三名の人物が物語に登場します。

 触れていない他の人はすべてモブキャラです。

「クラスの皆から反対の意見が噴出する。」と書いても、モブキャラがわあわあ言っているだけで、物語の登場人物としては弱すぎます。その程度の関わりであれば、あえて名前をつける必要がないのです。

「クラスの皆」と書きましたが、何名いるのかはっきりしませんよね。事前に三十人学級とでも書いてあれば人数を特定できますが、書かなければ何名いるのかわからないのです。

 そして実際に高校を舞台にした小説では、ひとクラスには何名いるのかを書いていないことのほうが多い。

「何名いるか」が物語に必須の条件である場合を除き、「何名いるか」を書き及ぶ必要がないからです。書いた段階で、その人数が意味を持つ出来事イベントが起こらなければなりません。殺し合いをしてもらいましょうとか、多数決をしましょうとか。

 物語にそういうシーンが不要であれば、「何名いるか」を書かないほうが評価は高まります。

 小説は書かれたものがすべて「伏線」だと思いながら読むものです。

 高校が舞台であっても、クラスに「何名いるか」なんてほとんど必要ない。だから「あえて」書かないのです。

 書いてしまうと「伏線」の未回収や文字数の「水増し」という負の評価が付くことになります。




異世界ファンタジーでも

「異世界ファンタジー」でも、これと同じことが起こります。

 主人公がこれまで住んでいた村を追い出される場面シーンがあったとしたら。

 何人の村人から追い出されたのかわかりませんよね。そもそもその村の規模がわかりませんから、書きようがないのです。

 それなのに「住民総出で村から追い出された。」と書けてしまいます。イラストや映像として考えると「何人エキストラを入れればこの一文にふさわしいだろうか」をまず考えなければなりません。

 十人規模のエキストラで足りるのか、千人規模から袋叩きにされて追い出されるのか。それがわからなくても「住民総出で」の一語で書けてしまうのです。

 書き手であるあなたの脳内イメージでは、何人の村人が主人公を村から追い出そうと躍起になっているのか見えているでしょう。

 しかし読み手にあなたの脳内イメージは伝わらないのです。もし伝わるようでしたら、あなたにはテレパシーを超える「書いていないイメージが文章を読んだだけで読み手に伝わる」超能力が使えることになります。

 残念ながら私にもあなたにも「書いていないイメージが文章を読んだだけで読み手に伝わる」超能力は具わっていません。

 だから、正確に書こうとするなら何百人が住む村で、そのうち何人が主人公を追い出そうとしているのか。それを明確に書くことが求められます。

 でも人数はそれほど関係がなく、単に「主人公を旅に出すために追い出そうとしている」のであれば、「何百人の住む村」などと書く必要はないのです。そう思えば「住民総出で」の一語で語っても悪くはありません。




書けば伏線になる

 小説は書かれたものがすべて「伏線」になってしまう厄介な芸術です。

 一文を読むだけで、頭の中の真っ白なキャンバスの中に映像が浮かび上がります。

 そこに「百人の村人が暮らしている。」と書けばキャンバスに「百人の村人」の映像が加わるのです。しかしこの「百人」がその後の物語にどれほど関与してくるのか。それがわからなければ、「百人の村人が暮らしている。」の一文が適切なのか不適切なのかわかりません。

「人々の喧騒を横目に、自宅の鍵を開けて中に入った。」のであれば「百人」に意味はないのです。

「今日も東地区の五十人と西地区の五十人が小さないさかいを起こしていた。」のであれば「百人」である必然性が生まれますよね。この必然性は「百人の村人が暮らしている。」の一文が「伏線」となっているから生まれてくるのです。

 その「百人」に主人公が含まれています。

 だから主人公は「五十人対五十人のいさかい」の当事者でもあるのです。

 その結果として「主人公は村を追い出されなければならなくなった。」のだとしたら。「百人の村人が暮らしている。」は明確に「伏線」であることがわかります。




伏線でないなら書かない

 あなたの机の上には、さまざまなものが載っていることでしょう。

 それをすべて文章に書き出したとして、それらすべてがのちに「伏線」として活かせますか。まず無理なはずです。

 であれば、机の上にある「和英辞典」だけを取り出して「机の上に置かれた和英辞典を手にとった。」とだけ書きましょう。もし「国語辞典」や「日本地図帳」などが載っていたとしても、それを使うことがなければ「書く意味」がないのです。

 たとえば「机の上には国語辞典、英和辞典、和英辞典、類語辞典、日本地図帳が置いてある。その中から和英辞典を手にとった。『早い』は英語でなんと書くのか、『は』のページをめくっていく。」と書いて、結果として「和英辞典」しか使わなかったのなら。他の国語辞典、英和辞典、類語辞典、日本地図帳はすべて「伏線」の未回収ということになって、読み手は消化不良を起こすのです。

 だから物語の進行に不可欠なものだけを書くことで、「伏線」は大いに活かせます。

 もし上記の状態にPCが置いてあったらどうでしょうか。そして部屋に入ってから椅子に座り、PCの電源を入れてSNSをチェックするという流れであった場合、辞典類や日本地図帳を特段書く必要はあるでしょうか。

「伏線」になるのなら書くべきですが、単にSNSをチェックするだけで電源を落とし、ベッドで寝るだけだとしたら。辞典類や日本地図帳は「伏線」にはならず、「伏線」の未回収が発生してしまうのです。つまり辞典類や日本地図帳に言及するべきではなかった。書くべきではなかったのです。

 会話形式で物語を語っていくときは、こういった「伏線」にならない情報を混ぜてもだいたいの方がフィルターに引っかけて気になる程度です。話を聞き終えたら「伏線」にならなかった情報はフィルターごと記憶から消します。

 だから「話すように書いてはならない」のです。

「話すように書く」と「伏線」にならない情報が大量に混ぜられ、ムダの多い小説になってしまいます。

 小説を書くのなら、「書き言葉で書く」ことを徹底してください。

 書かれたら「伏線」になる、という単純な真理を理解しましょう。





最後に

 今回は「登場する理由がある」ことについて述べました。

 人物は文章に書かれることで「伏線」として機能します。

 書かれなければ存在しないのです。存在しなければ「伏線」にもなりません。

 これは物でも同じです。

 物を書くことで「伏線」となり、書かなければ存在しません。

「話すように書く」と、回収されない「伏線」の情報が増えていくのです。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る