482.飛翔篇:独学で書き方をマスターするには

 今回は「独学」による「気づき」が文章力向上に不可欠であることについてです。

 専門学校やカルチャー・センターなどで小説の書き方を学んでいる方も大勢います。

 でも実際に小説がうまくなるかというと疑問が残ります。

 それは「教えてくれる人の劣化コピー」になりやすいからです。





独学で書き方をマスターするには


 あなたは「小説の書き方」をどこかで習いましたか。

 今は専門学校やカルチャー・センター、通信講座などで「小説の書き方」を教えてくれるところがあります。

 それらにお金を払って受講するのもよいのですが、迷ったとき他力本願になってしまいかねません。

 場合によっては、受講したのはいいのだけど「教えてくれる内容がいまいちピンとこない」ということも起こります。




小説の書き方は教えられるものではない

「小説の書き方」は誰かに教えてもらうものではありません。

 本コラムの存在そのものを否定しかねないのですが、これは事実なので仕方がありません。

 そもそも「小説の書き方」を教えてくれる人は、その人の型を押しつけてくることが多いのです。

 教える側も、バリエーションに富んだ「小説の書き方」をすべて知っているわけではありません。

 だからヒット作を何本も抱えるほどの大御所・重鎮の方ほど、その人の「小説の書き方」が絶対だと信じています。

 これがひじょうに危険なのです。

 私はこれまで本コラムで「小説の書き方」について、「必ずこうでなければならない」と断言してきたことは少ないと思います。

 それは「書き手にはその人独自の書き方や文体がある」と考えているからです。

 私の価値観で「書き出しはこうでなければならない」と主張するよりも、読み手に「書き出しはこうしたほうがよりよくなる」と提案するように書いてきました。

 小説の添削でも、提案しても書き手の方がそれでも自分の考えを通す場合は、それがその方の持ち味なのだと判断してそれ以上追及しないことにしています。


「小説の書き方」は教えられるものではありません。

 これが真実です。

 それなのに世の中には専門学校やカルチャー・センター、通信講座などで今日も「小説の書き方」を習おうとしている方が多い。

 しかし誰かを頼って「小説の書き方」を教わることは、その誰かの劣化コピーが出来あがるだけなのです。

 明治後期から昭和中期まで、小説界は「同人」と「徒弟制度」で成り立っていました。

 小説家希望の人が、高名な書き手に弟子入りして、雑用を片付けながら師匠の原稿を読ませてもらう。

 生原稿を読ませてもらえるのですから、弟子は天に昇るような気持ちでしょう。

 弟子はその生原稿から小説の文体を盗んでいくのです。

 原稿の節回しを身につけるわけですから、どうしても高名な書き手の劣化コピーになってしまう。

 だから小説界では同レベルの人が集まる「同人」が生き残り、レベル差のある人がそばにいる「徒弟制度」は消えていきました。

 結局大成するのは、誰にも「小説の書き方」を教わらず、独学で身につけた人たちなのです。




小説の書き方は発見するもの

「小説の書き方」は「独学で身につける」ものです。

 本コラムはその触媒として存在します。

「小説を書くにはこんな方法もあるよ」と「知識」を皆様に与えていき、あるときその知識が「独学」しているときにふわっと花開いて「知識」が「体験」へと昇華されるのです。

 小説は書き手が試行錯誤して文章を書きます。

 読み手がそれを読んで、書き手の「伝えたい」ことが「伝わる」のなら、その書き方は正しいのです。

 書き手の「伝えたい」ことが「伝わらない」のなら、その書き方は間違っています。

 どう書くのが正しくて、どう書いたら間違っているのか。

 とにかく書いてみて、他人に読んでもらって文意が正しく伝わっているか確認する以外に判断する方法はありません。

 訓練を積んで、読み手の視点を持ちながら文章を書けるようになれば、どんな書き方が正しいのかは書きながら判断できます。

 それができるようになるまでは、とにかく書いて投稿し、読んでもらって判断してもらうしかないのです。

 繰り返し行なうことで、書き手は「こう書けば正しく伝わるのか」と書き方を「発見」することになります。

「小説の書き方」を「発見」していけば、それは書き手の財産となるのです。

「発見」できない書き手は、「小説をどう書けばいいのかわからない」と思います。

 そういうときは、書き方を試行錯誤しながら短編やショートショートをたくさん書いて、ブックマーク数や文章評価・ストーリー評価をひとつずつ確認していきましょう。

 もし閲覧数(PV)が多いのにブックマーク数が伸びないのであれば、読み手に伝わっていないことになります。

 ブックマーク数は伸びているのに文章評価がつかないのであれば、評価されるだけの質がないということです。

 短編やショートショートを何作も書くことで、「小説の書き方」を少しずつ「発見」していきまょう。

 読み手に伝わる「小説の書き方」は他人から教えられるものではありません。

 教えられるのは「知識」だけです。

「知識」があれば「発見」しやすくなりますが、「発見」できなくていつまでも「伝わる小説」が書けない人もいます。

 本コラムも『ピクシブ文芸』で毎日連載を開始して480回を超えていますが、案外と反応が薄いのです。

 これは私自身の「伝える」技術が未熟で、読み手に「伝わっていない」からかもしれません。

 私自身も「伝わる」技術を日々「発見」していかなければならないと思わされます。




比喩が伝わるか

 小説は論文と異なり、「比喩」を書いて対象を照らし合わせたり装飾したりできます。

「比喩」は書き手が「伝えたい」情報を具体例を用いて、読み手に「伝わる」ようにするための「技法」です。

 論文は書き手や語り手の感情を書く必要がないので、「説明」文だけで構成されます。

 小説は主人公の一人称視点であれば、主人公がどう感じとらえたのかを書く必要があるので「描写」文を交えて構成されるのです。

「描写」文は視点を持つ主人公がどうとらえたのか表す「比喩」の使い方に表れます。

「比喩」の適切な使い分けを「発見」していきましょう。


 直喩(明喩)「彼女はまるで太陽のような女性だ。」はわかりやすい「比喩」です。

 隠喩(暗喩)「彼女は天使だ。」は「比喩」ととらえる人もいますし、「彼女」イコール「天使」と「天使が彼女」のように字面のまま受け止めてしまう人もいます。とくに「なんでもあり」のライトノベルでは「天使が彼女」でも通じてしまうから怖いところです。

 だから隠喩(暗喩)を用いるときは、それが「比喩」であることを読み手が理解できるように書きましょう。

 そこに「比喩」の適切な使い分けを「発見」する余地があります。

「伝えたい」ことが「伝わらない」のでは、その「比喩」は要らないことになるのです。

 直喩(明喩)のように「まるで○○のようだ。」と書けば、誰が読んでも「比喩」であることは明白です。

 しかし隠喩(暗喩)の場合は「比喩の記号」がないため、その文章が「比喩」なのか「説明」文なのかがわかりづらくなります。

 隠喩(暗喩)など直喩(明喩)以外の「比喩」には、明確な「比喩の記号」がありません。

 だからといってすべての「比喩」を直喩にすると、くどくて読めなくなります。

 適切なポイントで隠喩(暗喩)などに置き換えて、文章のリズムを整えるのです。

「比喩」の使い分けを「発見」できれば、読み手に「伝えたい」ことが「伝わる」第一歩になります。





最後に

 今回は「独学で書き方をマスターするには」について述べてみました。

「小説の書き方」は誰かに教えられるものではありません。

 それでは教えた人の劣化コピーが出来あがるだけです。

 だから「小説の書き方」は独学して「発見」することを主とします。

 独学で試行錯誤を繰り返し、自分の文体を見つける努力をするのです。

「説明」文は誰が書いても同じ文・似たような文になります。

「描写」文は書き手の感性によって異なる文に仕上がるのです。

 感性が最も表れるのが「比喩」になります。

「比喩」の用い方を極めることが、「独学」で「小説の書き方」を身につけるために必要なことなのです。



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