429.深化篇:十を聞いて一を知る
今回は「十を聞いて一を知る」についてです。
察しのよい人のことをよく「一を聞いて十を知る」という言葉で表現します。
そしてそういう人に限って「小説を書こう」とするものなのです。
しかし「一を聞いて十を知る」書き手の作品は、往々にして説明不足を招きます。
「一を聞いて十を知る」書き手は、「十を聞いて一を知る」つもりで小説を書くことです。
そうすれば「一を聞いて一を知る」読み手にも、書き手の意図がしっかりと伝わります。
十を聞いて一を知る
頭が良く察しの良い人を指して「一を聞いて十を知る」と言います。
小説を書くとき、頭の良い人は読み手にうまく情報を伝えることができません。
なぜなら「このくらい書いておけば読み手に伝わるだろう」という認識があるからです。
しかし「一を聞いて十を知る」書き手の「このくらい書いておけば」は、一般の読み手から見て「三」だったり「五」だったりするのです。
これでは「一」しかわからない読み手は門前払いということになります。
読み手を門前払いして、作品が正当に評価されるでしょうか。
「一を知る」読み手でもわかるような文章を書くべきです。
一を聞いて十を知る弊害
「一を聞いて十を知る」書き手は、書いた作品の情報も「一」でしかありません。
一般人から見たら「情報が少なすぎる」のです。
書き手は小説内世界を脳内にイメージして書いているので、初めから説明や描写が少なくなる傾向にあるのです。
「これだけ書けば伝わるだろう」の「これだけ」が、読み手の欲する情報量より格段に少なくなります。
「一を聞いて十を知る」書き手なら、その一文を読んだだけで脳内に明確なイメージを思い描けてしまうのです。
だから「一を聞いて十を知る」書き手と、「一を知る」読み手との間には大きな溝が生まれます。
自慢も含まれますが、「私は一を聞いて五を知る」くらいの脳力はあります。
だからかもしれませんが、私の書く小説は情報量がひじょうに少ないのです。
この「小説の書き方コラム」はお題の一文をひねり出して、それに膨らし粉を入れて三千字前後まで爆発的に膨らませて書いています。
私に「一を聞いて五を知る」脳力がなければ、コラムの連載は三十回程度で打ち止めだったはずです。
そういう脳力があるため、短い文章でも読み手にじゅうぶん伝わるだろう、という楽観論に支配されていました。
結果として、私の書く小説はブックマークも評価も低くなったのです。
書いた当人は当時「なぜブックマークも評価も付かないのか」と思いました。
今思えば「伝えるべき情報が少なすぎた」のです。
書き手と読み手には、文章理解に大きな差があることを知るべきでしょう。
それを知ったうえで「一を聞いて十を知る」人が「一を知る」人のために丁寧に文章を書きます。
書き手としては、とてもまわりくどい印象を覚えてしまうものです。
ですが脳力が高い書き手は、「一を知る」読み手の側に歩み寄る必要があります。
そうでなければ、ブックマークも評価も付かないからです。
十を聞いて一を知るを目標に
小説の書き手になろうという人は、たいてい「一を聞いて十を知る」タイプの人です。
そのくらいの連想力や想像力の類いがなければ、脳内に作品イメージを思い浮かべられません。
そこで、読み手と書き手とのギャップを埋める必要があります。
どうすればよいのか。
これも標題に書いていますね。
「十を聞いて一を知る」を目標にしてください。
これは、書き手であるあなたが「十」の情報を書いて読み手に「一」を伝えるつもりで書くということです。
「一を聞いて十を知る」人の「十を聞いて一を知る」は、一般人にとって「一を聞いて一を知る」つまり、ひとつの文に対してひとつの文意が確実に伝わるようになります。
その程度の努力なら書き手が誰であっても実践できるはずです。
なぜ読み手に「一を聞いて十を知る」を要求してはいけないのか。
多くの読み手は「一を聞いて一を知る」脳力を持っています。
しかし「二を知る」「三を知る」と読み手の脳力をあなたが要求するようになると、多くの読み手はあなたの小説から脱落してしまうのです。
だから読み手の数を増やしたいのなら、その多くの読み手を主要層に据えなければなりません。
「一を聞いて十を知る」人にだけ届くような文章を書いていてはダメなのです。
それではただの「内輪ウケ」に過ぎません。
「これほど繁多に書いて、読み手は
小説は中高生が主要層
ライトノベルをよく読むのは「中高生」です。
小学生なら図書室に置いてある「児童文学シリーズ」を読まされます。
大学生なら「専門書」を読んで論文を書かなければなりません。
社会人になれば仕事の文書作成をする必要があります。
男性で空いているのは主に「中高生」だけなのです。
女性も基本的に「中高生」だけですが、結婚して家庭の入る方は家事の合間に読むこともできますよね。
だからハーレクイン・ロマンスがよく売れるわけです。
一般文芸であっても、読めるのは大半が「中高生」だという事実を受け入れなければなりません。
では小説の主要層である「中高生」に、書き手の「一を聞いて十を知る」文章を読ませたらどうなるでしょうか。
ほとんどの「中高生」は「一を聞いて一を知る」だけです。
察しがよくなれば「二を知る」「三を知る」ようになってきますが、基本は「一を知る」だと思ってください。
読み手が「一を知る」だけだと仮定すれば、「二を知る」「三を知る」人たちは「行間」を読むようになります。
つまり文章として書かれていないものを感覚的に知っていくわけです。
「あれ? 明確に書いていないけど、この人物ってあの人物のこと好きなんじゃないのかな?」「この情報って、この物語の根幹なんじゃないかな?」
という具合に。
だから「一を聞いて十を知る」書き手なら、大半の「一を知る」読み手に向けた文章を書くべきです。
その隙間に「二を知る」「三を知る」読み手に向けて「行間」を織り込んでいきましょう。
これで「一を知る」読み手も読んで楽しめますし、「二を知る」「三を知る」読み手は「行間」を楽しめるようになるのです。
行間を織り込む
「一を聞いて十を知る」書き手の方で「行間」が織り込めない人はまずいないと思うのですが、万が一いた場合は「文章の流れ」を意識してみてください。
なぜその順番に文を並べたのか、なぜその文をそこに差し入れたのか、なぜあるべき文が書かれていないのか。
そういった「文章の流れ」によって、「二を知る」「三を知る」読み手は「あ、もしかして、これってこういうことじゃないかな」とひらめいてくれます。
「文豪」が活躍していた時代では紙の原稿用紙に鉛筆やペンで書いていましたから、「並べ替え」なんて不便なことこのうえないものでした。
だから「行間」を生み出すのは「文豪」でも己の脳力ひとつに頼っていました。
しかし今はコンピュータでいつでもどこでも文章を「切り取って」「貼り付けて」と「並べ替え」は自由自在。
意図された並び順、意図された文の挿入、意図された文の削除。
そうやって「行間」を生んでいくのです。
こう書いても「行間」の書き方がわからない方もおられるでしょう。
そういう方は自分が「一を聞いて十を知る」タイプではないことを自覚してください。
なんでもかんでも「自分の考えたまま作品を書く」だけでは、誰にも評価されない人なんだとも自覚しましょう。
「行間」については後日コラムを一本書きたいと思います。
最後に
今回は「十を聞いて一を知る」について述べてみました。
「一を聞いて十を知る」書き手は、往々にして説明不足に陥って自己満足の小説を書くものです。
だから書き手は「一を知る」ところまで下りていって「一を知る」視点から物語を紡いでいく必要があります。
でもそれだけでは「わかりやすい」小説にはなりますが「味わい深い」小説にはなりません。
そこで「行間」を織り込んでいくわけです。
「行間」を読ませる書き手になれれば、一見「一を知る」視点で書いていても、「二を知る」「三を知る」視点で読んだとき「ここってこういうことかな?」と読んでくれるようになります。
一度読んだ小説を再び読んだときに「新しい発見がある小説」にもなるのです。
つまり長く愛される小説になります。
読み捨ての小説を書くのもいいのですが、どうせなら長く愛される小説を書いてみませんか。
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