407.深化篇:よい説明はよい小説にはならない

 今回は「説明」と「小説」の読ませ方の違いについてです。

 目的・目標を先に書くのが「説明」、あとでわからせるのが「小説」になります。

 どんなに説明上手でも「小説を書く」のは勝手が違うのです。





よい説明はよい小説にはならない


 なにかを説明して、読み手に内容を伝えたい文章があります。

 このような文章は、誰が読んでも内容が伝わるものです。

 かといって、小説でこの手の文章を書いても良い小説にはなりません。

 なぜでしょうか。




よい説明は冒頭に目的や目標が書いてある

「よい説明」をしている文章は、冒頭で「これは○○について書いている文章ですよ」と前フリしています。

 たとえば以下のような文章です。

――――――――

 白百合女子大学へ到着するには、次のように歩きましょう。

 当大学は京王線仙川駅の北に位置しています。

 そこで最寄り駅の京王線仙川駅で下車し、ひとつしかない改札から外へ出ます。

 改札を出て右に曲がり、商店街に入るのです。

 商店街の十字路を右に曲がって商店街を北に向かって歩いていきます。

 商店街を抜けて甲州街道の交差点を渡り、バスターミナルも越えてさらに北へと向かいます。

 スーパー「いなげや」のある交差点を渡り、そのまま北進を続けるのです。

 坂を下りていき仙川に架かる橋を渡ったところにある交差点もそのまま北へ向かいます。

 そうすると当校・白百合女子大学の門扉にたどり着くのです。

――――――――

 まず目を惹くのは冒頭に書いてある「白百合女子大学へ到着するには〜」という一文です。

 この文章の目的・目標が明確ですよね。

 だからこの文章を安心して読めます。


 よい説明はこのようにまず目的・目標を明確に読み手へ示すのです。

 そうしてから順序に従って文を重ねていきます。

 結果として冒頭の目的・目標へ到達すれば説明の文章として完璧です。




よい説明はよい小説にはならない

 このようによい説明は、冒頭に文章の目的・目標を書いてあります。

 しかし、これをそのまま小説の文章として用いるとどうでしょうか。

 冒頭の一文を読んだだけで文章の内容がわかってしまい、続く文章を読まなくても理解できてしまいます。

 そうなると臨場感もありませんよね。

 この部分は読み飛ばしても問題ないように見えるでしょう。

 そこで「よい説明」から冒頭部分を省いて主人公の一人称視点で書かれた小説の「説明」文にしてみます。

――――――――

 京王線仙川駅で下車してひとつしかない改札から外へ出た。

 すぐに右へ曲がり、商店街に入る。

 現れた商店街の十字路を右に曲がって北へ向かって歩いていく。

 商店街を抜けて甲州街道の交差点を渡り、バスターミナルも越えてさらに北へと向かう。

 少し歩くとスーパー「いなげや」のある交差点に差しかかる。

 そこを渡り、そのまま北進を続けた。

 坂を下りていき仙川に架かる橋を渡ったところにある交差点もそのまま北へ渡って歩く。

 程なく白百合女子大学の門扉へたどり着いた。

――――――――

 さまざまな点を書き換えましたが、基本的な情報は一緒です。

 冒頭に書いてあった目的・目標を省いただけで、「主人公はどこへ向かっているのだろうか」と気になりませんか。

 結果として白百合女子大学へ到着することはどちらの文章も同じです。

 それなのに、冒頭に目的・目標を書いた「説明」の文章と、冒頭に目的・目標を書かなかった「小説」の文章に違いを感じますよね。

 どこへ向かっているのか、読み手にはわからない状態で文章が進んでいくのです。

 ちょっと不安を感じませんか。

 よく「ぐいぐい読ませる文章」と称される小説があります。

 目的や目標がわからず「手がかりのない状態で文章が進んでいく」から、読み手が「次にどんな文が書いてあるのだろうか」「最終的にどうなるんだろうか」と期待しながら読むからです。

 仕事で「説明」の文章を書き慣れている人だからといって、「小説」の文章を巧みに書けるとは限りません。

 求められる構文がそもそも異なるからです。




よい小説はあえて先がわからないように書いてある

 このように「よい説明」は冒頭で「これは○○について書いている文章ですよ」と前フリしてあります。

 先に伝えたいことを書いてあるから、不安なく読み進められて「説明」を素直に受けられさせることができるのです。

 しかし「よい小説」は「よい説明」のように冒頭で前フリをしてはなりません。

 前フリをした途端、それ以降の文章を読む必要がなくなるからです。

 小説は読み手にワクワク・ハラハラ・ドキドキを感じさせるために存在します。

「結果」を前フリをしてしまうと、先がわかってしまうのでワクワク・ハラハラ・ドキドキなんてしません。

 だから目的・目標の結果を書くことなく文章を重ねる必要があります。

 たとえば、

――――――――

 俺は世界を混沌に陥れた魔王を愛用の長剣で貫いて倒した。

 これで平和な世の中に戻るだろう。

――――――――

 と書かれた後に田舎町で魔王退治の旅に出るシーンから書き始めたとします。

 読み手であるあなたは、この小説を最後まで読みますか。

 おそらく読まないでしょう。

 読んでも途中で挫折する方が多いはずです。

 なぜなら「先に目的や目標の結果」が書かれているため、いくら起伏に富んだストーリーをしていても「最終的には魔王を長剣で倒したんでしょ」で終わってしまいます。

「よい小説」は「よい説明」とは異なり、冒頭でネタをバラしてはなりません。

佳境クライマックス」の最後まで絶対にネタバレなどしないようにしてください。




高等テクニック・倒叙

 しかし世の中の小説がすべからく「冒頭でネタバレしない」わけではありません。

「倒叙」と呼ばれる高等テクニックがあるからです。

 どういったものかというと、ドラマのピーター・フォーク氏主演『刑事コロンボ』や田村正和氏主演『古畑任三郎』のように、まず犯人の犯行シーンを描いてから刑事が登場して推理を展開し、犯人をじわじわと追い詰めていくタイプになります。

 推理ものは基本的に事件が起きてから刑事や探偵が現れて捜査を開始し、アリバイなどのトリックを見破って犯人へ近づいていく過程を楽しむものです。

 サー・アーサー・コナン・ドイル氏『シャーロック・ホームズの冒険』や横溝正史氏「金田一耕助」シリーズがこのパターンになります。

 しかし『刑事コロンボ』『古畑任三郎』は推理ものの醍醐味であるトリックを見破ろうにも、先に「ネタバレ」しているのでトリック破りでは楽しめません。

『刑事コロンボ』『古畑任三郎』はいずれも犯人をじわじわと追い詰めていく過程を楽しむドラマになっています。

 つまり主人公はコロンボでも古畑任三郎でもなく、犯人自身です。

 この「倒叙」の構造は小説でも採用できますが、よほど巧みに犯人心理を描けなければ、ただの「よい説明」をした文章でしかなくなります。

「倒叙」はかなり高等テクニックなのです。

 小説を書き慣れないうちから挑戦すべき手法ではありません。





最後に

 今回は「よい説明はよい小説にはならない」ことについて述べてみました。

 説明上手だから小説を書くのが巧いとは限らないのです。

 かえって足を引っ張ることも多くあります。

 とくに親切心から「冒頭でネタバレ」してしまうことが多いのも説明上手によく見られる傾向です。

 いかにして読み手をワクワク・ハラハラ・ドキドキさせるのか。

 そう考えれば「冒頭でネタバレ」なんてしてはいけないことだと気づくはずです。



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