314.執筆篇:事実と判断
今回は「事実」と「判断」です。
よくごちゃまぜにして書かれるのですが、文の役割は明確にことなります。
事実と判断
小説とくに一人称の小説を書いていると、よく「事実」と「判断」がごちゃ混ぜになってしまいます。
「事実」を書いている文に「判断」が混ざってしまうのです。
事実は起こっていることをそのまま書く
「雨上がりの空を眺めていた。厚い雲で覆われている。」なら「事実」を書いた文です。
「雨上がりの空を眺めていた。明日はいいことが起こる。」なら前半は「事実」、後半は「判断」を書いた文になります。
「雨上がりの空を眺めていた。」「厚い雲で覆われている。」は明確に「起こっていること、目の前にあるものをそのまま書いて」いますよね。
だから「事実」の文なのです。
しかし「明日はいいことが起こる。」は「起こっていること、目の前にあるものをそのまま書いて」いるでしょうか。
未来のことはまだ起きていません。これから起こるから「未来」なのです。
「明日はいいことが起こる。」は一人称視点での主人公の気分や判断と言えます。
「主人公の気分や判断」が「事実」の森の中に紛れてしまうと、さも「事実」かのように読み手が勘違いしてしまうのです。
「推理小説」であれば読み手をあえてミスリードするために、「事実」の森の中に「判断」を紛れ込ませることがあります。
「事実」が長々と続いていて、その途中で不意に「判断」を紛れ込ませ、また「事実」で覆い隠すのです。
推理小説を読み慣れていると、どこに「判断」が紛れ込んでいるのかを探すことに夢中になります。
事件の真相究明につながるわけですから、どんなトリックが仕込まれているのかを見破る必要があるからです。
もし小説を読んでいる途中で「判断」の文に気づけたら、きっと書き手が設定したトリックに気づけるでしょう。
そのとおりのトリックだったのなら、読み手は「この小説は簡単だった」という感想になります。
それだけに推理小説の書き手はできるだけ巧妙に「判断」を「事実」の森の中に隠そうとするのです。
推理小説の書き手と読み手との知恵比べこそが推理小説の華と言えます。
ですが「推理小説」でもないのに「事実」の森の中に「判断」を紛れ込ませれば、読み手に要らない負担を強いることになるのです。
推理要素のない小説では特別な意図がない限り、「事実」と「判断」をごちゃ混ぜにしないでください。
これはとくにビジネス文書でひと悶着起こる可能性があります。
余計な争いごとをわざわざ作らなくてもよいでしょう。
判断はキャラの価値観や先入観を書く
「明日はいいことが起こる。」は「判断」です。
「判断」と言っていますが、他にも「希望」「推測」といったものを含みます。
「事実」は誰にも否定されることがありません。
動かしがたい現状だからです。
しかし「判断」は人によってさまざまな反応が返ってきます。
必ず「判断」の文と同じであることはないのです。
「厚い雲で覆われている。」ことで「明日は悪いことが起こるかもしれない。」と思う人だっています。
それを一方的に断定してはいけません。
「判断」を断定して書いてしまうから、こういった勘違いが起こります。
「明日はいいことが起こるといいな。」「明日はきっといいことが起こるだろう。」のように書けば「判断」であることが一目瞭然ですよね。
なのに「明日はいいことが起こる。」と断定してしまったから読み手に混乱が生じるのです。
たとえばホームレスの人を見て「哀れなホームレスの男性がいた。」と書いた場合、このホームレスの男性は「哀れ」だということが確定してしまいます。
しかしホームレスをしている当人は「哀れ」だなどと思ってはいません。
会社での上下関係に悩むこともなく、隣近所に気を配ることもなく、しがらみもなく自由に暮らせて、コンピュータに囲まれて生活している私たちより幸福を味わっている人だって多いのです。
それなのに「哀れなホームレス」と断定してしまうのは、あなたの価値観や先入観つまり「思い込み」を読み手に押しつけているにすぎないのです。
「判断」はあくまでも物語を語っている人物、一人称視点なら主人公がどういう価値観を持っているのかどんな先入観を持っているのかが現れます。
「哀れなホームレス」は主人公が「ホームレスをしている人は哀れだな」と思っているから書かれる文なのです。
そしてたいていの場合、書き手の価値観や先入観が反映されています。
つまりホームレスは「哀れ」だと書き手が思っているということです。
もしホームレスが「悠々自適な生活をしている」と思っているのであれば、「哀れなホームレスの男性がいた。」という一文は端から出てきません。
書き手であるあなたの思想信条といったものまで現れてしまうのが小説なのです。
たとえば私が気に入らない村上春樹氏の書く小説は、私の思想信条にそぐわないからこそ敬意を抱けません。
思想信条が好ましくないから、村上春樹氏はノーベル文学賞の最右翼として名は挙がれども受賞することはないのです。
そんなにノーベル文学賞が欲しいのなら、先に直木三十五賞でも狙ってください。
日本人に理解されていないのに世界が理解するなんてことはまずないのです。
もちろん私が村上春樹氏の文体に嫌けがさしているという要素もあります。
地の文の大半が「〜た。」と過去形で書かれているという文体は読んでいて退屈です。
翻訳家としての側面で言えば、元の小説が過去形で書かれているから翻訳でも過去形で書いたという理屈が通ります。
ですが村上春樹氏は自身のオリジナル小説なのに「〜た。」が執拗に続くのです。
私にとっては拷問に近いため、村上春樹氏の小説は最初に読んだもの以外いっさい読んでいません。
近著『騎士団長殺し』も冒頭だけちらっと読んで「まだ改める気がないのか」とそっと平積みに戻しました。
事実と判断を切り分ける
よって「事実」の文と「判断」の文は明確に切り分けなければなりません。
「茶色いロングヘアのサーファー」は「事実」です。「勉強のできない」は書き手・語り手の「判断」です。
だから「勉強のできない茶色いロングヘアのサーファー」という文は「事実」と「判断」がごちゃまぜになっています。
「茶色いロングヘアのサーファー」は皆「勉強のできない」人ではありません。
でも断定してしまうと「そういうものだ」という刷り込みを読み手にしてしまいます。
先述しましたが「推理小説」であれば、あえてそういう「ミスリード」を仕掛けて読者を真実から遠ざける手法が用いられるものです。
ですがその他の小説であえて「ミスリード」を誘う必要などあるのでしょうか。
「茶色いロングヘアのサーファーがいた。彼の顔を見ると絶えずニヤニヤと笑っている。まるで勉強のできない子どものようだ。」
というように「事実」はきちんと「事実」として書き、「判断」はきちんと「判断」として「希望」や「推測」の文となるように書くべきです。
「茶色いロングヘアのサーファー」が全員「勉強ができない」かのようなレッテルを貼らないでくださいね。
最後に
今回は「事実と判断」について述べてみました。
とくに地の文で顕著に現れるのです。
「誰にも否定されることのない事実」というものがあります。
そして「見る人によって見え方の変わる判断」というものもあるのです。
「判断」を断定して書いてしまっては読み手をミスリードするに等しいと思ってください。
たいせつにすべきは「判断」にあくまでも「希望」や「推測」の文型を用いることです。
手を抜いて「事実」のように断定書きしてしまうと、後で取り返しがつかなくなることがままあります。
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