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2022年5月3日 05:05 編集済
このコラムのおかげで、今まで深く考えることなく書いていた『視点』について、私も理解できるようになりました。それも、何度も繰り返して書いてくださっているためだと思います。1話だけだと、読み飛ばしてしまい、理解できなかったことでしょう。こうして、やっと『視点』について理解できて、そして実際にカイさんの書かれた小説も何編か読み、またそれについているコメントも読んで、私なりに気づいたことがあります。小説における『視点』って、なぜに存在するのかと考えて、「視点とは、小説内の情報を読者に開示するための手段」ではないかと思うようになりました。つまり、短い純文学系の私小説だと情報を開示するのに一人称はものすごく有効的で、長編群像劇型だと、三人称もしくは語り手視点でないと、読者に情報を開示するという小説の根源においていつかは破綻してしまいます。読者が読んでいる小説に求めるのは、作者の『視点』の正確さではなくて、読み進めるにあたってのストレスのない『情報開示』ではないだろうかと思うのです。読んでいて「あれ、なんでこうなるの?」と思った読者に必要なのは、作者の「これは視点の問題で書けない」という言葉ではなく、読者にそう思わせてしまった情報開示の少なさを補う『描写の技術』ではないかと。『レンズ越しの空の下で』は、主人公が知ることのできない情報であれば、周りの人物たちのせりふとか状況で、読者に開示しておいたほうがよいと思った場面が、いくつか見受けられたように感じました。うまくまとめられないのですが、「視点の問題で書けない」のではなく、「視点の問題で書けない状況を、技術的にどう書けば克服出来るか」が、大切ではないかと思うのです。語り手視点の例えに講釈師が出てきて嬉しくなりました。いま、まさに自分の書く超長編小説で講釈師的な語り手視点を取り入れようと、いろいろ工夫しています。
作者からの返信
明千香様、コメントありがとうございます。 私は今「一人称視点」を試しています。それで「わかりづらい」と思われるようなところでも「一人称視点」にこだわっているのです。 他の視点を取り入れるのは、「一人称視点」を確実にものにしてから。 読み手が最も感情移入しやすい「一人称視点」を最初から除外したり、「一人称視点」だと「わかりづらい」から安易に視点を切り替えたり。 そういったご都合主義に陥らないため、まずは基本である「一人称視点」をしっかり身につけておくべきなのです。これは数十年前から課題だと思っています。 「一人称視点」が確実に書けるようになってから、「三人称視点」や「三人称一元視点」に挑戦すればよい。この順序を間違えると、必ず「神の視点」に陥ります。 「今誰に視点があってその人の心の中が覗けるのか」 これをしっかりと理解していないと、ついついいろんな人の心の中を覗いてしまうのです。 今回たとえに挙げた「タイムマシン」「講釈師」「紙芝居屋」は「語り手視点」としての「三人称視点」を表現したものです。 今ではなかなか「講釈師」「紙芝居屋」は体験しづらいのですが、今例を上げるなら「落語家」も入ると思います。 落語の多くは一人の主人公の心の中が読めて、「オチのある物語」を語ります。「講釈師」と同様、ひとりで何役もこなしていきます。違いは「講釈師」には映像がありますが、「落語家」には映像がない点でしょうか。 だから落語家は会話文中心になり、場面の描写がいささか劣ります。だから「落語家」とせず「講釈師」を例にとったのです。 なので「視点の問題で書けない」を解決する方法ももちろん探るべきですね。 今の私のレベルだと、どうしても「一人称視点」がブレないことを優先しています。知りえない情報を他人が語って主人公に聞かせる手法もあるのですが、『レンズ越しの空の下で』ではそういったご都合主義も廃しました。 まず「一人称視点」をしっかりと書ききる。それができずに安易な補足に走ってしまうと「一人称視点」が身につかないのです。 もちろん「一人称視点」に自信が持てたら、解決策として「他人が語る」や「情報を耳にする」などが考えられます。 「一人称視点」がしっかりと書けるようになったら、皆様がご指摘されていることにも挑戦していきます。 ただ@bahun1000様のおっしゃったような「視点を切り替える」は、せっかく築いた「一人称視点」を崩しかねないので、明千香様のおっしゃるような「誰か他人からの情報の補足」から手をつけることになります。 実はこの「小説の書き方」コラムの執筆完了後に長編で「一人称視点」を意識して書いたのはたった三作だけなんです。『秋暁の霧、地を治む』『昨日の君の物語』『レンズ越しの空の下で』だけ。圧倒的に経験値が足りていません。 まずは「一人称視点」をきっちりと書けるようにする。それから明千香様のおっしゃるように「主人公が他から情報を得て補足する」を考えていきます。ご都合主義にならないように入れるのが難しいんですよね。「三人称視点」における「神の視点」と同じように、「一人称視点」で主人公に物語を進める情報ばかり集まるのでは「神の視点」と変わらなくなります。 このあたりのさじ加減を見極めるためにも、数を書いて少しずつ試していくのが最適解だと思っています。 前述しましたが直近の「一人称視点」長編がたった三作しかないので、まずは「一人称視点」をきっちり書くことだけを考えていました。 今回多くの方から「情報が足りない」とのお声をいただいたので、次作からは少しずつ「他人から情報を得る」を少しずつ取り入れてみますね。 今の力量では「ご都合主義」になりかねないので、そのあたりを見極めないといけませんね。「ご都合主義」は「神の視点」同様白けてしまうもとになりますからね。 明千香様のご指摘を受けて、そのような挑戦をしてみることに致しました。 明千香様も「講釈師的な語り手視点」に挑戦してみてくださいね。 私も負けずに挑戦してみることにしております。
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このコラムのおかげで、今まで深く考えることなく書いていた『視点』について、私も理解できるようになりました。それも、何度も繰り返して書いてくださっているためだと思います。1話だけだと、読み飛ばしてしまい、理解できなかったことでしょう。
こうして、やっと『視点』について理解できて、そして実際にカイさんの書かれた小説も何編か読み、またそれについているコメントも読んで、私なりに気づいたことがあります。
小説における『視点』って、なぜに存在するのかと考えて、「視点とは、小説内の情報を読者に開示するための手段」ではないかと思うようになりました。つまり、短い純文学系の私小説だと情報を開示するのに一人称はものすごく有効的で、長編群像劇型だと、三人称もしくは語り手視点でないと、読者に情報を開示するという小説の根源においていつかは破綻してしまいます。
読者が読んでいる小説に求めるのは、作者の『視点』の正確さではなくて、読み進めるにあたってのストレスのない『情報開示』ではないだろうかと思うのです。
読んでいて「あれ、なんでこうなるの?」と思った読者に必要なのは、作者の「これは視点の問題で書けない」という言葉ではなく、読者にそう思わせてしまった情報開示の少なさを補う『描写の技術』ではないかと。『レンズ越しの空の下で』は、主人公が知ることのできない情報であれば、周りの人物たちのせりふとか状況で、読者に開示しておいたほうがよいと思った場面が、いくつか見受けられたように感じました。
うまくまとめられないのですが、「視点の問題で書けない」のではなく、「視点の問題で書けない状況を、技術的にどう書けば克服出来るか」が、大切ではないかと思うのです。
語り手視点の例えに講釈師が出てきて嬉しくなりました。いま、まさに自分の書く超長編小説で講釈師的な語り手視点を取り入れようと、いろいろ工夫しています。
作者からの返信
明千香様、コメントありがとうございます。
私は今「一人称視点」を試しています。それで「わかりづらい」と思われるようなところでも「一人称視点」にこだわっているのです。
他の視点を取り入れるのは、「一人称視点」を確実にものにしてから。
読み手が最も感情移入しやすい「一人称視点」を最初から除外したり、「一人称視点」だと「わかりづらい」から安易に視点を切り替えたり。
そういったご都合主義に陥らないため、まずは基本である「一人称視点」をしっかり身につけておくべきなのです。これは数十年前から課題だと思っています。
「一人称視点」が確実に書けるようになってから、「三人称視点」や「三人称一元視点」に挑戦すればよい。この順序を間違えると、必ず「神の視点」に陥ります。
「今誰に視点があってその人の心の中が覗けるのか」
これをしっかりと理解していないと、ついついいろんな人の心の中を覗いてしまうのです。
今回たとえに挙げた「タイムマシン」「講釈師」「紙芝居屋」は「語り手視点」としての「三人称視点」を表現したものです。
今ではなかなか「講釈師」「紙芝居屋」は体験しづらいのですが、今例を上げるなら「落語家」も入ると思います。
落語の多くは一人の主人公の心の中が読めて、「オチのある物語」を語ります。「講釈師」と同様、ひとりで何役もこなしていきます。違いは「講釈師」には映像がありますが、「落語家」には映像がない点でしょうか。
だから落語家は会話文中心になり、場面の描写がいささか劣ります。だから「落語家」とせず「講釈師」を例にとったのです。
なので「視点の問題で書けない」を解決する方法ももちろん探るべきですね。
今の私のレベルだと、どうしても「一人称視点」がブレないことを優先しています。知りえない情報を他人が語って主人公に聞かせる手法もあるのですが、『レンズ越しの空の下で』ではそういったご都合主義も廃しました。
まず「一人称視点」をしっかりと書ききる。それができずに安易な補足に走ってしまうと「一人称視点」が身につかないのです。
もちろん「一人称視点」に自信が持てたら、解決策として「他人が語る」や「情報を耳にする」などが考えられます。
「一人称視点」がしっかりと書けるようになったら、皆様がご指摘されていることにも挑戦していきます。
ただ@bahun1000様のおっしゃったような「視点を切り替える」は、せっかく築いた「一人称視点」を崩しかねないので、明千香様のおっしゃるような「誰か他人からの情報の補足」から手をつけることになります。
実はこの「小説の書き方」コラムの執筆完了後に長編で「一人称視点」を意識して書いたのはたった三作だけなんです。『秋暁の霧、地を治む』『昨日の君の物語』『レンズ越しの空の下で』だけ。圧倒的に経験値が足りていません。
まずは「一人称視点」をきっちりと書けるようにする。それから明千香様のおっしゃるように「主人公が他から情報を得て補足する」を考えていきます。ご都合主義にならないように入れるのが難しいんですよね。「三人称視点」における「神の視点」と同じように、「一人称視点」で主人公に物語を進める情報ばかり集まるのでは「神の視点」と変わらなくなります。
このあたりのさじ加減を見極めるためにも、数を書いて少しずつ試していくのが最適解だと思っています。
前述しましたが直近の「一人称視点」長編がたった三作しかないので、まずは「一人称視点」をきっちり書くことだけを考えていました。
今回多くの方から「情報が足りない」とのお声をいただいたので、次作からは少しずつ「他人から情報を得る」を少しずつ取り入れてみますね。
今の力量では「ご都合主義」になりかねないので、そのあたりを見極めないといけませんね。「ご都合主義」は「神の視点」同様白けてしまうもとになりますからね。
明千香様のご指摘を受けて、そのような挑戦をしてみることに致しました。
明千香様も「講釈師的な語り手視点」に挑戦してみてくださいね。
私も負けずに挑戦してみることにしております。