304.執筆篇:一人称視点は主人公になりきる

 今日は「一人称視点」についてです。

「主人公になりきる」ことができない「一人称視点」はありません。

 でも勘違いしがちなのが「書き手が主人公になりきる」と思ってしまうことです。

「グチ人称視点」にならないように注意しましょう。





一人称視点は主人公になりきる


 「一人称視点」は書き手が主人公になりきって、主人公が見たもの、聞いたもの、感じたもの、思ったもの、考えたものを書くものだと思われています。

 しかし書き手が主人公に完全になりきってしまうと、それらの情報はただの「説明」に過ぎず、言行・感覚・思考を元にした「描写」ができないのです。

 ただ単に主人公が思っていること・考えていることだけをダラダラと書き続けてしまうと、「一人称視点」というよりも「グチ人称視点」とでもいうような文章になってしまいます。




グチ人称視点は感情移入しづらい

 主人公が思っていること・考えていることだけをダラダラと書き続けてしまうのが「グチ人称視点」です。

 一見「一人称視点」に見えるのですが、読んでみると主人公にまったく感情移入できません。

 なぜかというと、主人公の言行や感覚を表現するのに乏しく、思った・考えたことつまりグチだけが延々と書き連ねられているからです。

 居酒屋でくだを巻いている人は、同じ話を延々と繰り返していますよね。

 接客業であれば、そういうお客さんもうまくあしらって相手をしなければなりません。

 ですが小説の読み手にそのような義務はないのです。

 だから「グチ人称視点」になった段階で先を読まずにページを閉じます。

 せっかくの傑作も「グチ人称視点」で書かれているというだけでもったいないことになるのです。


 小説では「グチ人称視点」にならないことが大前提になります。

 小説だけでなくマンガやアニメ、ドラマや映画、ゲーム、また童話や寓話や絵本といった「物語」にも当然「グチ人称視点」の作品は存在しません。

 いえ、存在はしているはずだけど、注目を浴びず「誰の目にも触れなくなった」だけなのでしょう。

 小説投稿サイトでランキング上位に位置する作品には「グチ人称視点」なんてまず存在しません。

 きちんと「一人称視点」で書かれています。

「グチ人称視点」と「一人称視点」ではなにが異なっているのでしょうか。

「グチ人称視点」は「書かなければいけないことを書き忘れている」という点にあります。




グチ人称視点にならないために

 では「グチ人称視点」にならないためには、具体的にどうすればよいのでしょうか。

「心の声」「会話」だらけの文章が「グチ人称視点」なわけですから、それを減らせば「グチ人称視点」ではなくなりますよね。

 つまり「心の声」「会話」の分量を減らし、「説明」「描写」をしっかりと増やすのです。

「一人称視点」は主人公の心の中を読み手に伝えることができます。

 だから思っていること・考えていることを中心に書いてしまいがちなのです。

 そうやって書き手が主人公になりきる「勘違い」を起こして、主人公が思っていること・考えていることだけを書いてしまうから「グチ人称視点」になります。

 主人公が見ているもの・聞いているもの・感じているものをきちんと文章に書き込むことです。

 これらが「説明」と「描写」になります。

 主人公にはなにが見えていますか、なにが聞こえていますか、なにが感じられますか。

 主人公に寄り添ってみましょう。

 書き手は主人公になりきるのではなく、主人公のセンサーを丁寧に拾い上げて、「読み手が主人公になりきる」ように計らうのです。

 書かなければならないことは、主人公のセンサーを通してあなたが目の当たりにしています。




完全になりきらなくてよい

 書き手は完全に「主人公になりきら」なくてもよいのです。

 完全に「主人公になりきっ」てしまうと、「説明」「描写」しなければならない状況なのに、主人公が思っていること・考えていることしか書かない文章、つまり「グチ人称視点」になってしまいます。

 あまり深く「主人公になりきり」すぎると、読み手を主人公へ感情移入させるために必要な「説明」「描写」が少なくなってしまうのです。

 勘違いしないでください。

「小説」において「主人公になりきる」べきなのは書き手ではありません。「読み手」です。

 読み手を主人公の中へと呼び込み誘う役目が書き手にはあります。

 読み手が主人公へ感情移入するための文章を書くために、書き手は程よいところで主人公に寄り添い、主人公のセンサーを通して「説明」「描写」の文を書かなければなりません。

 どんなにカッコいい主人公・かわいい主人公を創ったとしても、書き手がそれに溺れてしまうようでは困りものです。

 カッコいい主人公・かわいい主人公と読み手が重なるように配慮するのが「小説」になります。

 そのためには主人公の感覚を読み手に連鎖的に与えて、一歩ずつ着実に読み手を主人公へと手繰り寄せるのです。

「読み手」がカッコいい主人公・かわいい「主人公になりきる」ことができる文章。

 それを「小説」と呼びます。




一人称視点は読み手が主人公になりきるためのもの

「一人称視点」は「読み手」が「主人公になりきる」ための視点です。

「グチ人称視点」は書き手が「主人公になりきっ」た状態を見せられる「学芸会」と言えます。

 よほど演技のうまい書き手でなければ「一人称視点」で書いたつもりが「グチ人称視点」にとどまるのです。

 であれば演技はほどほどにして、主人公が見ているもの・聞いているもの・感じているものをしっかりと書きましょう。

「主人公になりきる」ことで得られる「主観」と、主人公がなにを見て・聞いて・感じているのかの「客観」とのバランスをとるのです。

 このバランスがとれさえすれば、書き手の演技力なんてそれほど必要ないことがわかります。




なりきる能力は小説を書く能力とは無関係

 また芸能の才能があるから良い小説が書けるというものでもありません。

 俳優の水嶋ヒロ氏は処女作『KAGEROU』でポプラ社小説大賞を獲りましたが、売れ行きは惨憺たる結果です。

 音楽バンドであるSEKAI NO OWARIのSaori(藤崎彩織)氏は『ふたご』で直木三十五賞の最終候補に残りましたが受賞できませんでした。

 対してお笑い芸人ピースの又吉直樹氏は初の中編小説『火花』で芥川龍之介賞を獲得し、現在までに芥川賞最大の二百八十万部が発刊されました。

 芸能人の文芸として過去に大ヒットした例では、黒柳徹子氏の『窓ぎわのトットちゃん』、北野武氏(代筆した方がいらしたようですが)のエッセイ『たけしくん、ハイ!』などが知られています。

 しかしその他の芸能人も小説やエッセイを書いているのに、それほど売れたという話は聞きませんよね。

「役になりきる」能力と小説やエッセイを書く能力には因果関係などないのです。

 あるのは「読み手」が「主人公になりきれ」たかどうか。それだけです。





最後に

 今回は「一人称視点は主人公になりきる」ことについて述べてみました。

 これはあくまでも「読み手」が「主人公になりきる」ことを示しています。

 書き手が「主人公になりきり」すぎて「グチ人称視点」に陥ることだけは是が非でも避けなければなりません。

 書き手は主人公に寄り添って、主人公がなにを見ているか、なにを聞いているか、なにを感じているか、何を思っているか、なにを考えているか。それだけを意識すればいいのです。

 主人公に入り込む必要はありません。

 書き手が「主人公になりきり」すぎると「グチ人称視点」になりやすい。

 主人公のセンサーになにが引っかかったのか。

 それを拾って文章に仕立てるのが書き手の役割なのです。

 そうやって書かれた作品を読んだ「読み手」が「主人公になりきる」ことができるかどうか。

 小説の評価はそこで如実に現れます。



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