290.表現篇:改めて視点とは(補講)
今回はお問い合わせがありましたので改めて「視点」について書いてみました。
これでもまだわかりづらいかなと思いますので、その場合はさらなる補講をしますのでお声がけくださいませ。
改めて視点とは
視点についてお問い合わせがありましたので、今回は改めて「視点」についてです。
一人称視点
主人公にセンサーを付けて、彼・彼女がなにを見て、なにを聞いて、なにを感じて、何を思って、なにを考えているのか。
それを余すところなく書けるのが「一人称視点」の特徴です。
反面、主人公ではない人の心の中を断定して書くことはできません。
書いてしまうと主人公は超能力者になってしまいます。
また主人公の行動は断定できますが、他人の行動は見たものを推測する必要があるのです。
こちらは「説明」の形にすればそれほどおかしな表現にはならないと思います。
ただし行動した結果に関しては断定で書いてもかまいません。
たとえば「孝蔵は出かけるところだ。」は明らかに他人の行動を断定しているのでおかしな文です。「孝蔵は出かけようとしている。」ならわかりますが。
「孝蔵は出かけた。」は結果ですから断定で書いてもおかしくありません。
「祐子は溺れる。」は断定してしまっていますよね。
「祐子は突然手足をバタつかせて悲鳴をあげている。」は行動を「説明」していますから問題ないのです。
このあたりが書き手の混同を招くもとになっています。
判断基準は「主人公が知っていておかしくないものは断定して書ける」が「主人公が知りえないものは推測で書かないと超能力者になる」という点です。
三人称視点
「三人称視点」は誰の心の中も覗けず、また視点を有している人物の言行や感覚や思考も書き込めないのが特徴です。
その場に三人以上存在していて、物語にいっさい絡まない人にセンサーを持たせます。
だから視点を有する人物の言行も感覚も思考も書けません。
書いたら「視点を有する人物の一人称視点」に変化してしまいます。
主要な登場人物にセンサーが付いていないため、誰の心の中も書けないのが特徴です。
主人公の心の中すら書けません。
「三人称視点」はそれほどまでに多くの束縛があるのです。
だからこそ群像劇を書くときには重宝します。
群像劇は主人公格の人物が多いため、さまざまな人物の心の中を書く必要があるのです。
しかしそれをすべてひとシーンの中に放り込むと後述する「神の視点」になってしまいます。
群像劇で主人公格の人物の心の中を読み手に読ませようとすれば、「シーンごとに主人公を立てる」しかありません。
たとえば羅漢中氏『三国志演義』やそれを元にした吉川英治氏『三国志』には主人公格の人物が数多く登場します。
少なくとも魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備は誰もが知る存在です。
さらに主人公格としては魏の荀彧・郭嘉・程昱・賈詡・司馬懿、呉の周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜、蜀の徐庶・諸葛亮・ホウ統・法正・馬良・劉巴などの謀臣が挙げられます。
登場人物はさらに多く名前のある人物だけでも三百名以上いるのです。
これだけの人物がいて、どうやって物語を成立させればいいのか。
その答えが「三人称視点」です。
ただ単にそのとき起こった出来事や人物の立ち振る舞いなどを見たまま聞いたままに書けばいい。
実はこの形、中国ではひじょうに古くからあって、現存する最古にして最高の兵法書『孫子』も、史官が君主と臣下(『孫子』の著者とされる孫武)との会話のやりとりを記述したものを編纂して作られています。
この史官が「言行や感情や思考を持たない第三者」に当たります。
中国古典はすべからくこの手法が取り入れられており、『論語』や『春秋』『戦国策』などもすべて史官が記しているのです。
羅漢中氏『三国志演義』や吉川英治氏『三国志』は、魏呉蜀の三国のうちとくに蜀に焦点を絞って描かれています。
つまり基本的には蜀にいる武将たちの一人称視点で物語が紡がれているのです。
ですが歴史的な事実を書くところでは、どうしても魏と呉の情勢も書き込みたい。
するとそれらは「三人称視点」で書くことになります。
それでも曹操や孫権などをしっかりと書かなければ、劉備と諸葛亮ばかりに焦点が当たり続けてしまいます。
そこで曹操と孫権にも視点を持たせて、魏のことを語るときは「曹操の一人称視点」、呉のことを語るときは「孫権の一人称視点」で書くことになるのです。
実際には周瑜の血気盛んさや司馬懿の老獪さを表すために、「彼らの一人称視点」もなされています。
このように「三人称視点」はひじょうにドライで「描写」を挟む余地がありません。
描写を入れたければ「一人称視点」を交える必要があるのです。
もし「三人称視点」のままで「描写」を入れようとすれば次に述べる「神の視点」になってしまいます。
場合によっては誰にもセンサーを持たせず、センサーが空間に浮かんでいることもあります。
こちらならたとえ人物がひとりしかいない場面でも、いや誰もいない場面でも三人称視点で書くことができるのです。
これは「語り手視点」とも呼べますね。
三人称一元視点
基本的に「三人称視点」ですが、主人公の心の中を地の文に書く方法もあります。これを「三人称一元視点」と言います。
この手法は「三人称視点」の視野の広さと、「一人称視点」の主人公の掘り下げが両立できるのです。
乙女系ノベルや成人男性向け小説では、客観的な視野と女性の感情・思考を両立させるためによく用いられます。これらを「一人称視点」で書くと、どうしても客観的な描写ができなくなるからです。たとえば気分が高まっているときに、冷静に周囲の状況を語るなんてことはできません。
だからエッチシーンのある乙女系ノベルや成人男性向け小説では「三人称一元視点」が用いられるのです。
描写の両立ができるため、乙女系ノベルや成人男性向け小説以外の作品でも利用している作品は多くあります。
注意が必要なのは、感情移入では「一人称視点」に及ばず、客観性では「三人称視点」に及ばない点です。どちらかを強めたければそちらの視点を用いるべきでしょう。
視点の切り替えは「章・節」単位が基本です。同一
神の視点
視点を有する人物の言行も感覚も思考も書きませんが、登場人物の心の中を見放題覗き放題というのも考えものです。
これは「神の視点」と呼ばれています。
言文一致体を模索していた明治後期が昭和中期までは「神の視点」で書いた小説が多数ありました。
しかし現在は「神の視点」はご法度となっているのです。
登場人物誰の心の中も覗けてしまうので、読み手は読んでいてワクワク・ハラハラ・ドキドキしてきません。
たとえ主人公が超能力者であっても謎を残しておかないと、読み手の興が削がれるのです。
ファンタジー小説やSF小説であればそんな超能力者がいてもいいでしょう。
でも恋愛小説や推理小説に超能力者が出てくるようであれば、ものすごく残念な感じがします。
推理を超能力で解決してしまう小説なんて読みたいと思いますか。
恋愛を超能力でものにしてしまう小説も同様です。
どこにもワクワク・ハラハラ・ドキドキを感じません。
だから現在では「神の視点」は禁じ手になっているのです。
でも「一人称視点」にしたマンガはあります。推理を超能力では安童夕馬氏&朝基まさし氏『サイコメトラーEIJI』、恋愛を超能力ではまつもと泉氏『きまぐれオレンジ☆ロード』です。
「一人称視点」にすることで主人公にはわからない部分が必ず生まれます。
そこにワクワク・ハラハラ・ドキドキが存在するのです。
最後に
今回は「改めて視点とは」ということについて述べてみました。
現在の小説は基本的に「一人称視点」だと思っていただいて結構です。
「一人称視点」で主人公を徹底的に掘り下げていきましょう。
「三人称視点」は群像劇で主役級が揃い踏みするような場面でのみ用いるようにすると、小説世界に広がりを感じさせます。
「一人称視点」が深さ、「三人称視点」が広さを表します。
それを織り交ぜることで深くて広いプールが出来あがるのです。
海くらいの大きさを持つ小説を書く人もいます。
それが視点を定める意義です。
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