190.再考篇:自分の小説を批評しよう

 今回は「自分の小説を批評する」ことについて述べました。

「推敲」を正しくやるためにも、まずは自分の小説を客観的に見られないといけません。





自分の小説を批評しよう


 小説を書くことが好き。だから私は小説を書く。

 そういう方は大いに書いてください。ですが書くことが好きなだけで、読み返すことがいっさいないということはやめましょう。

「だって、前に書いた小説を読むなんて恥ずかしいじゃないですか」

 確かにそうなのですが、自分がそのときどの程度の書き手だったのかを客観的に知るには、過去に書いた小説を読み返さなければ見えてきません。




ただ読み返すだけでも効果はある

 恥ずかしさを一度脇に置いてから過去に書いた小説を読み返してみましょう。

 すると「ここは展開が緩慢だな」「ここは意味がわかりづらいな」「ここはもう少し感情を書き込んだほうが心にグッとくるな」「ここは書きすぎていて表現がくどいな」というものが見えてきます。

 それがわかれば今書いている、またこれから書こうとしている小説ではそれらの点に注意して書こうと意識するのです。

 ただ「小説を書くのが好きだから自分の書きたいように書く」から「時間を置いて読み返したときに至らない点がないように書く」へと意識が変わります。

 ですが漫然と読み返しても至らない点は数箇所しか見えてこないでしょう。そうなるとあまり反省できずに小説を書き続けることになります。

 それでも何十本も書いていれば確実に成長はしていくはずです。

 ですが、好きだから趣味として小説を何十本も書くというのはかなり難しい。

 たいていはひとつの物語を手を変え品を変えて書き続けます。

 その世界・その登場人物に愛着があるから、どうしてもひとつの物語に固執してしまうのですね。


 私も『暁の神話』は『希望の灯』よりも前から延々と書き直し続けています。今度は連載小説仕立てにしてみようかなと思うほどです。

 リテイクするたびに前の作品を読み返して「意味がわかりやすくしたい」「もう少し情感を出したい」「くどい表現をすっきりさせたい」と思うところを都度直してきました。だから少しずつ作品自体の完成度は高くなっていくのです。

 ですが『小説の書き方コラム』を半年執筆してきて「このままの書き方ではこれ以上良くはならない」と感じるようになりました。

 ではどうすれば今まで以上に良くなるのでしょうか。




自分の小説を批評する

 それは「小説を批評する」ことから始まるのだと思います。本「小説の書き方」コラムで一度だけ読み手の方の小説を添削したのですが、そこから得ることが殊のほか多かったのです。その方に対する添削を行なったはずが、添削した私のほうが「こういうときはこういう表現や書き方をしたほうがいいんだ」とたくさん気づきました。

 本コラムをお読みの方もぜひ小説を添削・批評していただきたいのですが、そう簡単に他人の小説を添削・批評する機会なんて訪れません。でもどんな書き手の方にも添削できて批評できる小説がこの世には必ずあるのです。

「自分が書いた小説」だと気づけた方は察しがいい。まぁ標題に書いていますから、気づかない人はただのうっかり屋さんなのだと思いますが。

「自分の書いた小説」には愛着があるでしょう。そして「過去の作品なんて読み返すだけで恥ずかしい」と思うのも無理からぬこと。

 ですが編集さんや校正さんまた批評家になったつもりで「自分の書いた小説」をチェックしてみましょう。アラ探しをするのです。

 どれほど完璧に仕上げたつもりでいる小説にも必ずアラはあります。

 アラのない小説が書けるのなら、あなたはすでになにがしかの「小説賞・新人賞」をとっているはずです。

 でもあなたは結局「小説賞・新人賞」は授かりませんでした。それはやはり「アラがあった」からです。

 まずはそこに気づくことから始めましょう。




ストーリー展開を批評する

 最初は小説を一気に最後まで読みきってください。そして「ストーリー展開」に無理はなかったか、強引すぎなかったか、冗長すぎたかを批評します。またストーリーの始まり方と終わり方がきちんとリンクしていたでしょうか。


 拙著『暁の神話』では、まず物語の出だしはレイティス王都で始まり、結末はボッサム帝都で終わります。場所がまったくリンクしていません。ただ主人公であるミゲルがどちらにも出てきます。主人公はリンクしているのです。つまり一勝一敗。

 主人公は誰かはわかりました。でもどうして場所が移ったのかをうまく説明できていません。これが読み手の唐突感を煽った主因でしょう。

 ではストーリー展開そのものを振り返ってみましょう。

 まず王都にある士官学校において主人公ミゲルと義兄弟ガリウスが将軍に列せられる場面から始まります。

 読み手としては「なぜ将軍に列せられるようになったのか」明確に説明してほしいのではないでしょうか。いちおう「先の戦闘で多くの将軍が死んで新たな将軍が必要になった」こと、そして「その戦闘で著しい功績があったのはミゲルとガリウスだけだった」ことについては冒頭で二人に説明させてあります。

 ですがいち読み手として読み返してみると、ここは短い文章で説明しないほうがよかったのです。実際に戦闘シーンの描写を読ませて「どうして多くの将軍が死んだのか」「どうしてミゲルとガリウスが著しい軍功を挙げたのか」を読みたいと思います。

 ですのでたとえ章立てが動かせないとしても「プロローグ」の形でもいいので「先の戦闘」を実際に読み手に読ませることを考えないといけません。

 また『暁の神話』は戦争小説です。なのに物語の出だしと結末は朗らかに始まって朗らかに終わっています。これでは戦争の緊迫感を伝えきれないと思います。

 少なくとも物語の「書き出し」くらいは戦闘シーンから始めれば「この小説は戦争ものなんだ」と冒頭を読むだけで理解できたはずです。

 以上の点から『暁の神話』は「先の戦闘」からスタートすべき小説だったことがわかります。読み手の「なぜ」につながり、小説のジャンルを「読み始めてすぐ」わかるようにする。それだけでこの小説は格段に出来がよくなったはずなのです。

 その先のストーリー展開を読むと、自分の生ぬるい批評ですがまあまあ及第点は出せます。戦闘と日常を交互に書いていき、緊張と弛緩を読み手にうまく与えられているのです。戦闘しっぱなしでもなく、朗らか路線を続けるのでもない。何年も練り続けている展開であり、その部分ではそんなに悪くはないでしょう。

 ということで『暁の神話』のストーリー展開を批評すると「書き出しを戦闘シーンから始めなさい」という結論が導き出されました。




説明と描写のバランス

 ストーリー展開を見直したら、次は各章内での説明と描写のバランスを見ていきましょう。説明だけが延々と続くと「設定資料集」になってしまいますし、描写だけが延々と続くと書き手の「自己陶酔ナルシシズム」が過ぎます。

 説明と描写は程よいバランスであることが求められるのです。


 では『暁の神話』の第一章を見てみましょう。

 まず書かれているのは「設定」の山です。最初の会話文である「ミゲル、やはりここにいたね」までが見事に「設定資料集」と化しています。

 この説明に関しても改善するなら根本的に書き方を変えなければなりません。

 レイティス王国の軍のあり方や「将軍」という地位の価値などはストーリー展開のときと同様「先の戦闘」を直接読んでもらったほうが説明しやすかったはずです。その中に「設定」を散らして書いていれば、これほど説明が長々と書かれるようなことにはならなかったと思います。

 最初の会話文以降も延々と「設定」が書き続けられていて、主人公であるミゲルにまったく感情移入できません。どうしても「設定」を説明しておく必要はありますが、ここまで長々と説明し続けるのは愚策です。「先の戦闘」で読ませられる設定も多く、そういう意味でも「先の戦闘」のシーンがあれば格段に良くなります。

 結局主人公ミゲルを本格的に書いているのはページの途中の「ふと意識を現実に戻す。部屋の心地よい暖かさに二人は体をくつろげた。」で始まるところからです。そうであればこの章のスタートを中庭が見渡せる回廊から始める意味もありませんよね。回廊からスタートさせたいのであれば、説明をすっ飛ばしてすぐにガリウスが呼びにくるようにしたほうがよかったのです。

 そこから先も基本的に描写が出てきません。感情も「まったくだとミゲルは悪態をつくしかない。」のようにすべて説明で済ませています。

 つまりこの第一章は説明と会話だけで話が進み、描写がほとんどなされていないのです。無味乾燥なことこのうえありません。これは「神の視点」に近い「三人称視点」で書かれていることが影響しています。

 戦争小説なのである程度殺伐とした雰囲気は必要なのですが、ここまで描写がバッサリと切り落とされていると「会話付きの設定資料集」でしかないのです。

 そして全章を読んでもやはり描写すべき部分を説明で済ませているところが多い。

 説明は書いているほうからすればラクができるのです。心理や情景を描写するには相応の「脳内のイメージを文章に落とし込む」能力が求められます。しかし私はそれをほとんど放棄しているのです。

『暁の神話』で主人公に感情移入してほしいのなら主人公ミゲルの「一人称視点」を交えた「三人称視点」か、ミゲルの「一人称視点」を交えた「神の視点」であることが望ましかったでしょう。この点は『史記』の影響から脱せられなかった私に非があります。


 元々『暁の神話』は司馬遷氏『史記』の影響を受けた『希望の灯』という三百枚に押し込んだ戦争小説を長編化したものになります。『史記』の影響から「神の視点」に近い「三人称視点」で書くことになったのです。

「史実を書けば読み手も楽しめる」という甚だしい「思い違い」をしたことがそもそもの誤りだと言えます。なので「三百枚」に押し込んでいたものを増量する際に「説明」だけで増量させていました。これで主人公に感情移入してくださいと言ってもどだい無理な話でしょう。


 と私の小説『暁の神話』をもとにして批評してみました。「設定」の説明ばかりで描写がほとんどない、という小説としては端から論外だったわけです。見事な「設定資料集」となりました。「三人称視点」は視点を持つ者に感情がありません。だから語り口はひじょうに無味乾燥な説明だけの地の文になってしまいました。連載化する際はそのあたりを意識して主人公の「一人称視点」を交えて書いていけば、小説としてよりバランスのとれたものになるはずです。

 そもそも三百枚に戦闘を三回入れること自体に無理がありました。連載化して文字数制限がなくなれば、冒頭に書かなければならない「先の戦闘」を含めた四回の戦闘を書いてもいくらでも描写に文字数を費やせます。そう考えると、これから連載するにあたってワクワクが止まりません。もっと描写に時間と文字を割けるわけですからね。





最後に

 今回は「自分の小説を批評しよう」ということを述べてみました。

 他人の小説を読んで添削や批評をすることは大いに得るものがあります。しかしそれ以上に「自分の小説を批評する」と自分の弱点が如実にわかるのです。

 もちろん「自分の書いた小説を客観視して問題点を洗い出す」のは難しい。なので最初は他人の小説を添削したり批評したりしてみましょう。繰り返すことでやがて「自分の小説を客観視できる」ようになります。

「小説を書く」には「自分の小説を批評する」力も必要なのです。「推敲」するにしても正しく「批評」できなければ問題点がどこにあるのか気づきません。


 小説を書くことが好き。だから私は小説を書く。

 これに加えて「小説を批評するのも好き。だから私は推敲する」ことが書き手には必要なのです。



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